05.心を映す呪い
「どうしてあなたが?」
硝子から呼び出しを受けて、二人でよく行く九州料理屋に足を運べば、個室に入った途端にそんな言葉が飛んできた。
「七海さん?」
なんで? てっきり硝子は一人で飲んでいるのかと。
目を丸くして凝視し合う私たちの間に、独特の浮遊感がある硝子の声が割って入る。
「あーごめん。七海もいるって伝えそびれてた」
七海さんは、座卓の向かい側に座る硝子に咎めるような視線をやった。
「そう睨むな。まあいいだろ別に、一人や二人増えようが。まさか私と二人きりが良かったのか?」
「そういうわけではありませんが……」
七海さんは個室の入り口で突っ立つ私を見上げ、「とりあえず座ってください」と声を掛けてくれた。言われた通り、硝子の隣に向かえば、彼女はふと私を見上げて言った。
「七海の横に座れば?」
「……え?」
「顔を見合わせない方が緊張せずに済むだろ」
いや体の距離が近い方がよっぽど緊張するけど――と思ったが、確かに、向かい合うと表情や目線の動かし方の一つ一つに意味を見出そうとしてしまいそうで、それもそれで疲れるかも、と思い直した。体の近さはじきに慣れるだろうし。
「では、お隣失礼します」
「本当に来るんですね」
「えっ、迷惑ですか?」
「……いえ。迷惑ではありません」
七海さんは焼酎の入ったグラスを手に取り、一口飲んだ。私はそんな七海さんの隣に腰を下ろし、掘り炬燵の中に足を差し込む。
あ、七海さんの匂いだ。ふわりと鼻先をくすぐった香りに、少しめまいがしそうだった。ぶんぶんと頭を振って自制心を保とうとしていると、向かいの席の硝子が頬杖を突きながらうっすらと笑った。
「ほら、何飲む? 生?」
「……や、コーラで」
え、と声を漏らしたのは注文を聞いた硝子ではなく、七海さんだった。
「飲めないんですか」
「いえ、飲めるし好きですけど……今日はちょっと、やめとこうかなって」
「だからコーラですか」
「はい。コーラ好きなんで」
何かまずいことでも言ったのかな。眉根を寄せたままの七海さんから逃れるように、通路へ顔を出して店員さんを呼んだ。
「変な飲み方するんだこの子。ビール、コーラ、ビール、コーラだもんな」
「胃の中でコークビアを生成してるの」
なんだそれ、と硝子が笑った。
注文を取りに来た店員さんにコーラとつまみを追加で何品か頼んだ後、とりあえず手近にあったタコ刺しに箸を伸ばす。
「……胃の中でコークビア」
ぼそりと呟く声。それは、俯き加減の七海さんから聞こえた。見てみると、きゅっと閉じた七海さんの唇の端がひくひくと震えていた。あ、笑ってるんだ。七海さんが、私の言葉で笑った。それが嬉しくて、少しニヤけながら「七海さん」と声を掛ければ、彼は背筋を伸ばして「はい」と返した。
「今のそんなに面白かったですか?」
「……失礼しました。わざわざ胃を使わなくても、はじめからコークビアを頼めばいいのにと思って」
「違う違う、七海さん分かってないです。ビールはビール、コーラはコーラで楽しみたいんですよ」
七海さんが笑ったことで私の気持ちは途端にふわふわと浮き足立った。対して、七海さんは地に足着いた声で「そうですか」と返すものだから、浮かれてしまった自分を恥じた。
お待たせしました、と店員さんがコーラと料理を運んできた。届いたばかりのジョッキを手に取り、硝子の音頭で乾杯する。そうこうしている間に二級術師の猪野という男性が合流し、私と交代する形で七海さんの隣に座った。私は硝子の隣に腰を下ろし、ようやく呼吸ができるようになった気がした。
猪野さんは七海さんと親交が深いようで、というよりも、猪野さんが七海さんに傾倒しているようで、「七海さんのことなら俺が一番詳しい」と声高にのたまっていた。七海さんの出自や経歴などを自分事のように話すので、七海さんは少し迷惑そうにしていた。
みんなが酒をどんどんと飲み進める中で、私はひたすらコーラを飲んでいた。猪野さんが来てくれて助かった。私も硝子も場を回すタイプじゃないし、七海さんも必要以上に喋らない人のようだし、もしあのまま三人だけだったらお通夜モードまっしぐらだった。猪野さんのおかけで場の空気が和やかになった。硝子も笑ってるし、七海さんも「私の個人情報を勝手に漏らさないでください」と言いつつ、猪野さんには心を許している様子だった。
七海さんは、そういう顔をするんだ。猪野さんの言葉に小さく笑ったり何やら真剣に話したりと様々な表情を見せる横顔に、そんなことを思った。
ブーッ、ブーッ。
着信が鳴る。補助監督からだった。すみません、と断りを入れて個室を出て、電話を取った。明日の朝、緊急の任務を依頼したいとのことだった。すこぶる嫌だったけれど、一週間の休み明けの身で駄々をこねるのも忍びなくて、渋々了承した。
「すみません、私そろそろドロンします」
「死語」
すかさず突っ込む硝子に軽く笑いながら荷物を取る。
「どうかしたんですか」
七海さんが聞いた。意外だった。私が居ようが居まいが関心ないと思っていたのに。
「明日の朝一番で任務が入ってしまって」
ホント人使い荒いっすよね、と猪野さんがぼやく。ね、と同調しつつ、硝子にお金を渡すも「いらん」と一蹴されてしまった。
「駅まで送ります」
七海さんが脱いでいたジャケットを腕に掛け、立ち上がった。
「えっ、いえ大丈夫ですよ。私お酒飲んでないんで」
「家入さん、すみませんが少し外します」
「あいよー」
私の声は七海さんの耳に届かなかったのか、聞こえなかったフリをされてしまったのか定かではないけれど、ともかく七海さんは私よりも先に個室を出てしまった。
「せっかくああ言ってくれてんだし甘えな」
硝子は少し面白そうに言った。猪野さんは、
「七海さんは紳士ですから、夜の繁華街を女性一人で歩かせたりしないんすよ」
と誇らしげに言った。
ああ、なるほど。彼がこういう行動をするのは何も珍しいことではないんだ。妙に意識してしまった自分が恥ずかしい。
店を出ると、七海さんが立っていた。私に気づくと、「何線ですか」と歩き始めながら聞いた。それに答えると、七海さんが「私も同じです」と言うので、私は「最寄駅は?」と尋ねた。
「わ、お隣さんだ」
七海さんが答えた最寄駅は、私の駅の一つ隣だった。
「どこかですれ違ってたかもしれませんね」
「それはないです。もしそうだったら、その時に気づいているはずなので」
即座に否定されて言葉に詰まったが、確かに七海さんの言う通りだ。初対面の時に起きたヒートを思い出し、私は「そうですよね」と頷く。きっと私は、どんな雑踏の中にいても七海さんの香りに気づく。七海さんもまた然りなんだろう。心の距離は初対面の時から少しも縮まっていないのに、体はすっかり相手を受け入れる準備が整っているようで、このアンバランスさがどこか気持ち悪い。
人の多い大通りを避けているのか、七海さんは狭い路地にするすると入っていく。
「七海さん」
「はい」
「お詫びって、何をしてくださるつもりだったんですか?」
七海さんから貰った名刺には、『言い過ぎました。今度お詫びを』というメッセージが書き添えられていた。七海さんの後を早歩きで追いながら聞くと、七海さんは不意に立ち止まった。その拍子に、私は七海さんの背に顔をぶつける。
「あっ、す、すみません口紅が……」
「構いません。こちらこそ急に立ち止まってしまい、すみませんでした。どこか痛みますか?」
スーツに滲む口紅を落とそうと伸ばした手は、するりとかわされてしまった。七海さんは腰を屈めて顔を覗き込んでくる。近い。咄嗟に顔を背けて「私は大丈夫です」と口早に言えば、そうですか、と七海さんは離れていった。
再び歩き始めた七海さんの背には、ローズブラウンの口紅が付いている。それを見ながら、ふと思った。
「七海さんって、彼女いたりします?」
七海さんは再度足を止めると、「はい?」と怪訝そうな顔で振り向く。
「いえ、その……口紅、付いちゃってるので。それが原因でケンカになったりしたら、と思って」
自分で聞いておきながら答えを知るのが怖い気がして、俯いてしまう。
少しの間を置いて、七海さんが口を開いた。
「恋人がいたら、あなたと二人きりになったりしません」
えっ、と顔を上げる。恋人がいないことに驚いたわけでも、安堵したわけでもない。七海さんは悟とは別の選択をするんだ。そう思って。
悟は恋人を捨てて、運命の番を選んだ。七海さんは運命の番ではなく、恋人を選ぶんだ。
じゃあもし、私が悟と付き合っているときに七海さんと出会っていたら? 私は、どうしていただろう――。
「お茶を」
「え?」
「ご一緒しようかと思っただけです。……大したお詫びじゃなくてすみません」
あ、お詫びの話か。
頭の整理が追いつかずに「はあ」と曖昧な返答をすると、七海さんはそれ以上何も言わずに再び歩き始めた。
タラレバなんて、考えたって仕方ない。私にはもう恋人がいないわけで。極めて理性的な運命の番と出会ったわけで。この先どうなるかなんて、誰にも何も分からない。
路地を抜けると、七海さんは道路に向かって手を挙げ、タクシーを停めた。そうして私に乗るよう促す。
「えっ? いえ私、電車で帰れますよ?」
「乗ってください」
有無を言わせないその様子に、私は疑問符を浮かべつつも従う。車に乗り込む私に、七海さんは不意に顔を寄せ、耳元でこう囁いた。
「大丈夫。この乗務員はベータです」
「……はい?」
「自分で気づいていないようですが、あなた、フェロモンが出ていますよ。店にいるときからずっと。あの路地を抜ける間にさらに濃くなった」
え、うそ。咄嗟に襟を掴んで嗅いでみるが、自分では分からない。
「すみません、ご迷惑でしたよね」
「いえ」
七海さんは運転手さんに私の最寄駅を告げると、では、と頭を下げた。車が発進する。七海さんが雑踏の中に消えていく。
七海さんがここまで見送ってくれたのは、私が無自覚にオメガフェロモンを放っているから、それを見かねてのことだったのだろう。
「……迷惑だっただろうな」
ジャケットの内ポケットから、七海さんの名刺を取り出す。改めてお詫びとお礼を伝えた方がいいだろうか。でも、別れたそばから電話をするなんて……それもちょっと考えものか。ショートメールを入れる? いや、それもな……。
そうこうしていると、窓の外には見慣れた景色が。運転手さんの「駅前でいいですか」という声掛けで、フェロモンが出ていると言われたことを思い出す。それなら家の前まで行ってもらおうと、住所を告げるために名刺をポケットに仕舞った。
**
硝子は受信したばかりのメールに、ぷっと吹き出す。
『ねえ硝子、私フェロモン出しちゃってた? 七海さんに言われて……。ヒート終わったはずなのになんでだろ』
自分はベータだが、仕事上、オメガのフェロモンに対する嗅覚は他のベータよりも鋭い方だと自負している。だからこそ言えるが、今夜の彼女からはフェロモンを感じなかった。七海が彼女の匂いに敏感になりすぎているのだろう。運命の番にしか分からない匂いがあるのかもしれない。
なるほど。だから七海は、彼女を率先して見送りに出たのか。帰り道でアルファに襲われないようにと。大丈夫だよ七海。そのフェロモン、お前にしか分からないから。
「お、紳士さまが戻ってきた」
「……やめてください。酔ってるんですか」
個室に入ってきた七海に、硝子はニッと笑うのだった。
◇◇
任務失敗。
その言葉はすなわち、派遣された術師の死を意味する。
七海が現場に駆けつけたとき、まだ彼女の意識はあった。
日本海沿岸にある漁村。今年に入って水難事故が多発し、生き残った者が「海に呼ばれた」と話したことから、警察は怪事件として呪術高専に現地調査を依頼した。
早朝に東京を発った彼女が現地入りしたのは正午近く。彼女は、補助監督の調書を片手に海辺を見て回り、事故が多発する深夜まで宿で時間を潰したそうだ。
翌日未明、補助監督は、夜から連絡が途絶えていた彼女の姿を海岸で発見する。波に打ち上げられたようだった、という。
「すみません」
彼女の連絡が途絶えた時点で、七海の元には至急案件として召集がかかっていた。明け方近くに現地入りした七海は、村の診療所で、同じく緊急で現着していた硝子の処置を受ける彼女を見た。
彼女は七海を見るなり、すみません、と繰り返した。
「私が失敗したばかりに、七海さんにご迷惑をおかけして……」
すみません。そう言って、意識を手放した。
七海の脳裏をかすめたのは、遠い昔、同じような言葉を遺して逝った親友の姿――。
「行け、七海。大丈夫だ。私が死なせない」
硝子の言葉に、七海は我に返る。
そうして声もなく頷くと、呪霊が棲む海岸へと向かうのだった。
それは、人の姿を真似る呪霊だった。それも、対峙した相手が望む人間の姿に化ける。
ある者は事故で死に別れた家族を、またある者は、長年音信不通となっている友人の姿を見た。
――おい、でェ。こわく、ない、よぉ。
暗い海に立つそのヒトの姿に呼ばれて、人々は波の中に入っていったという。
彼女は、誰の姿を見たのだろう。
呪霊を祓った七海は、診療所のベッドで眠る彼女の顔を見ながら、そんなことを思った。
七海の場合は、昔亡くした親友だった。これが呪霊の見せる幻影だと知らなければ、惑わされたかもしれない。呪霊だと分かっていても、親友の姿をしたものを祓うのは苦痛だった。人の心の弱みにつけ込む、タチの悪い呪いだ。胸糞が悪い。
ブーッ、ブーッ。
ベッド脇の小机に置かれた彼女の携帯が鳴る。見ようと思ったわけではない。自然と視線が向いて、見えてしまったのだ。
『五条悟の妻です』
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(2024.07.19)
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