04.理性と本能


「避妊は?」

 一週間ぶりに仕事に出た私は、任務が終わってすぐ硝子のいる医務室に向かった。
 昨夜の顛末を聞いた硝子が開口一番に言ったのが、避妊の有無について。ヒート中のオメガは妊娠しやすい。避妊をしなければ高確率で孕むという。私は首を横に振りつつ答える。

「した。ゴムも着けてたし、最後は外に出してたよ」
「そう。あいつも自分の立場を完全に忘れたわけじゃなかったんだな」

 付き合っていた頃からそうだった。悟は必ず避妊する。五条家の跡取りともなれば迂闊に子どもなんて作れないだろうから、と一人で納得していたら、悟は「順番はちゃんとしたいから」とその理由を語った。誠実な部分もあるんだなと感心したけれど、今思えば笑える。妻がいながら元カノを抱き潰す男になんて、誠実のセの字もない。……妻。どんな人なんだろう、悟の奥さんって。

「で、どうするんだ?」

 ギ、と椅子の背もたれを軋ませながら、硝子が聞く。

「運命の番と結ばれた五条と道ならぬ関係を続けるのか、爛れた縁を断ち切って運命の相手である七海と番うのか」
「……私の選択肢って、そのどっちかしかないの?」

 私が声を低めると、硝子はハッと笑った。そして「お前の幸せを願う一友人からのアドバイス」と、足を組み直す。

「五条とは距離を置いた方がいい」

 頭の片隅で思っていたことだった。なのに、それを言葉にして直球でぶつけられると、少し面食らってしまった。同時に、恥ずかしさも感じた。肉欲に負けた私に、硝子は呆れているんだろうな。


**


 「うん、わかった」と言葉少なに出て行った友人と、昨日医務室に訪れた五条の姿を思い起こしながら、硝子は紅茶を片手に思う。
 五条は昨日、あの子の住所を聞きに来た。知らないふりをしたが、あいつのことだから、どうにかして突き止めたんだろう。もしくは最初から知っていて、私を試したのかもしれない。友人を売るような人間ではないと分かってるはずなのに。私も舐められたもんだな。
 ――五条からは、とんでもなくドス黒いものを感じる。それに取り込まれてしまったら、もう二度とあの子に会えなくなってしまいそうな予感がする。だから、距離を置いた方がいいと思ったのだ。
 ただ、腐れ縁だから分かる。五条悟からは逃げられない。だからストッパーになる存在がいる。

「頼むよ、七海」

 七海と一緒になることがあの子の幸せに繋がるとは限らないし、それは七海にとっても然りだ。でも心身の健やかさを思えば、すでに相手がいる五条よりも、運命同士で番う方が良いに決まってる。……多分。おそらくは。当事者でもなければアルファでもオメガでもない自分には、到底踏み込めない世界だから、断定的なことは言えないけれど。

「ややこしいよな、ほんっとに」

 ぼそりと呟いたひとりごとは、ティーカップの底に沈んだ。


**


 任務を終えて帰ろうとしていたら、休憩室に携帯を置いてきてしまったことに気づいた。仕事のやりとりは全てあの携帯で済ませているので、無いと困る。面倒だなと思いつつ引き返す。そうして休憩室のドアを開けて目に飛び込んできたのは、ソファに座る人の後ろ姿。プラチナゴールドの髪――七海さんだ。
 どうしよう。このままそっとドアを閉めて出て行こうか。ああ、でも携帯。七海さんの目の前のテーブルに置いてある。また時間を改めて取りに来るか。

「お疲れさまです」

 ドアノブを引き寄せつつ一歩後退りしていると、不意に投げかけられた抑揚のない声に体がフリーズした。

「入らないんですか」
「……えっ、と」
「携帯。ずっと鳴っていましたよ」

 そう言われたそばから、テーブルの上で携帯がブルブルと振動していた。着信だ。なんだろう。補助監督からの緊急の用件かもしれない。意を決して、早歩きで進む。そして携帯を掴んで確認すると、画面上には「五条悟」の文字が。咄嗟に画面を見られないよう後ろ手に持ち替え、恐るおそる七海さんの反応を伺う。

「あっ、それ……」

 しかし反応を示したのは、私自身だった。七海さんの首に巻かれるネクタイに、思わず声が漏れてしまった。昨夜、悟が「借りた」と言って持ってきたネクタイ。それを首に巻いて情事に耽ったことを思い出し、ぶわりと赤面する。

「これは五条さんに貸したものとは別です。同じものを何本か持っているんです」
「……そう、なんですか」

 そこでふと気づく。どうして七海さんは、悟が七海さんからネクタイを借りたのを私が知っている、ということを知っているんだろう。
 七海さんは広げていた本を腿の上に伏せ、静かに言う。
 
「あれは捨てました。今朝、えらく上機嫌な五条さんが返してくれましたが」
「……捨てた?」
「ええ、捨てました。あなたと五条さんの匂いが混じり合っていて、なんとも不愉快だったので」

 感情のこもらない声だった。私は、まるで自らの罪を突き付けられたような気持ちになり、「すみません」とか細い声で返すのがやっとだった。
 つるなしのサングラスをグッと押し込み、再び本を手に取る。そんな七海さんの姿を直視できず、私は俯いてしまう。

「合意の上だったんですか?」

 そう問われ、思わず顔を上げる。七海さんの表情は、本に隠されてしまい見えなかった。――バレてる。悟とシたこと。そりゃ、そうか。唾液や愛液でぐしゅぐしゅになったネクタイを渡されたんだから。

「……私、昨日までヒートで、それで……悟が来て、七海さんのネクタイを出してきて……」

 なんでこんな、自白めいたことをしているんだろう。
 そこで言葉を止めてしまえばいいのに、既婚者である悟とのセックスに積極的だったわけではないことを、七海さんには分かってもらいたかった。だから、言葉を続けた。

「我慢、できなくなってしまって……その、七海さんの……匂いがしたから」

 悟だけなら、全力で抵抗した。あの人はそれを分かっていたのだと思う。だから、七海さんの匂いがたっぷりと染みたネクタイを持って来た。ズルい。
 七海さんの顔を見れない。俯いていると、手の中で携帯が震えた。悟だ。

「出ないんですか」
「……どうせロクな用じゃないんで」
「迷惑なら、着信拒否にしてみては?」

 え、と顔を上げる。七海さんは本の上から目を覗かせ、こちらを見上げていた。

「あなたも満更ではない様子ですね」

 言い寄られて、喜んでいる。完全に捨てられたと思っていたから、またこちらを振り向いてくれた気がして、安心している。――そんな思いが心の隅に存在していたことを、私は七海さんの言葉で自覚した。そして、愕然とした。自分自身にだ。まだ悟に未練があったなんて。既婚者なのに。運命の相手がいるのに。私はなんて、諦めが悪い女なんだろう。

「すみません。言葉が過ぎました」

 うなだれた私に、七海さんがぽつりと言った。見れば、眉根を寄せて、少し申し訳なさそうにしている。
 悟への未練を突きつけられて愕然としたが、七海さんの顔を見ていると、不思議と萎れていた勇気がむくりと起き上がったのを感じた。自分でも驚くほどに、立ち直るのが早かった。

「七海さん、立会人になってください」
「……はい?」
「消します。ほら、見ててください」

 私は七海さんの隣にどすんと腰掛けると、体を寄せて、携帯を見せながら操作する。まず着信履歴を開き、恐ろしいほどに連なった「五条悟」のうちの一つを選び、「着信拒否」を押す。続いて連絡先から「五条悟」を引っ張り出し、「削除」を押した。

「これでサヨナラです。もう二度と二人きりで会いません。家も引っ越します」
「……私に宣誓されても困ります」

 そうは言いつつも、私が携帯をポケットにしまうまで、七海さんは横目で見届けてくれていた。
 なんだか少し、気分が晴れた。昨夜あんなにずぶずぶなセックスをした相手なのに、もう遠い遠い存在になったような気がした。心なしか携帯も軽くなったような。大袈裟かもしれないけど、新しい人生が始まったような気さえした。ただ連絡先を消しただけなのに、なんて単純でお気楽な脳みそなんだろう。
 あ、そうだ。私はしまったばかりの携帯を取り出して、七海さんを見る。

「もしよければ七海さんの連絡先、教えてもらってもいいですか?」

 七海さんは、見るからに怪訝そうな顔をした。

「なぜですか」
「これから任務で一緒になるかもしれませんし……それに、七海さんのこと、これからもっと知っていきたいので」
「私を知る、ですか。それは何のために?」

 突き放すような物言いに、胸の内側がひやりとした。

「だって私たち、運命の――」
「運命の番だからという理由だけで、あなたは私を求めるんですか」
「……それが、最大で唯一の理由なのでは?」

 だって、それが理由で私は悟に振られたんだから。運命の番とは本能で求め合う。だから、出会ったら最後。必ず結ばれる。そういうものだと思っていた。

「運命の相手と番うのは義務ではないですよ。第二の性に心まで支配されてしまっては駄目です」
「――じゃあ、七海さんは本能に抗えるんですか?」

 七海さんは音もなく立ち上がった。そうして、言った。

「努力します。現に、以前あなたがヒートを起こした際、私はあなたを襲わなかった」

 二の句が継げない私に、本を小脇に挟んだ七海さんは「お先に失礼します」と休憩室から出て行ってしまった。

「……拒絶された?」

 きっとそうだ。開いていると思って飛び込んだら透明ガラスのドアがしっかり閉まっていて顔面を強打したような、そんな気持ち。

 ――七海さんは、嫌悪しているのか。理性を殺して喰らい合うアルファとオメガという、第二の性を。

 七海さんは、心まで支配されてはだめだと言った。つまり、心から求める相手と番うべきだ、ということだろう。それで言えば、私は悟を求めてた、心から。だから付き合った。いわゆる、ちゃんとした恋愛をしていた。だから別れがつらかった。未練だってあった。好きだったから。好き、だった。

「……っう、ううぅ」

 笑ってしまう。今さら、声を漏らして泣くなんて。
 七海さんに拒絶されて悲しいから泣いたんじゃない。悟との別れを今ようやく実感して、泣いたのだ。悟とはもう一緒にはなれない。その現実を、やっと今、ちゃんと受け入れた。その証拠に、涙が溢れたんだと思う。
 ばいばい、悟――。



 休憩室の中から聞こえてくる泣き声に、ドアに背をもたれていた七海はため息を吐いた。

 ――少し言い過ぎてしまったか。どうも、彼女を相手にすると言葉が過ぎてしまう。

 七海はジャケットの内ポケットから名刺を取り出す。サラリーマン時代の名残りなのか、呪術師として舞い戻って一番にやったのが、名刺作成だ。厳密に言えば伊地知に依頼して作ってもらった。
 七海はドアに名刺を押し当て、さっとペンを走らせる。そうしてドア下の隙間に名刺を差し込むと、また一つ息を吐いて、その場を立ち去った。

 休憩室を出ようとした彼女が床に落ちた名刺の存在に気づき、書き添えられた『言い過ぎました。今度お詫びを』という一言に笑うまで、あと一時間。


**


 その日の五条悟は上機嫌だった。彼の苛立ちをいつもサンドバッグのように受けている補助監督の伊地知は、後部座席で鼻歌をうたう五条をルームミラー越しに確認すると、すぐに不気味そうな表情を浮かべ視線を逸らした。

 ――さとる、っ、さとるぅ……!

 昨夜、自分の首に腕を回してしがみ付きながら喘ぐ彼女の姿を思い起こし、五条はほくそ笑む。
 別れて三カ月経つ。彼女とのセックスは久々だった。はじめこそ抗おうとしていたが、一度許せば後はもうズッブズブのぐっちゃぐちゃだった。それまで一人で抑え込んでいた欲求が、勢いよく溢れ出したような。
 理解している。彼女が最後まで保とうとしていた理性を断ち切ったのは、あのネクタイだと。そこに染みついた匂いに、彼女は欲情した。目のふちを桜色に染め、涙ぐみながら唇を噛み締めて肉欲を押し殺そうとしている彼女に、体は熱を上げた。自分の名前を口にしながら何度も気をやる彼女が、胸の内側をくすぐった。
 理解している。彼女が運命の番に出会ったこと。それが七海であること。でも彼らの仲はまだ始まっていない。相手は七海建人。理性という言葉が肉体を持ったような男だ。そう簡単には落ちない。願わくばこのままずっと、そうであってほしい。そのためにも、彼女を繋ぎ止めておけば――。

 ブーッ、ブーッ。

 携帯のバイブ音が鳴る。メッセージ一件受信。差出人は、五条家の家令筆頭。メッセージを開くと、一枚の写真が添付されていた。

「……毎度毎度、ご丁寧にどうも」

 悟はその写真を一瞥するとメッセージ画面を閉じた。そうして、彼女に電話をかける。特に用はない。声が聞きたいだけだ。

「五条さん、すみません。到着しました」

 伊地知の言葉に、五条は舌を打つ。ヒッ、と肩を上げた伊地知に構わず、携帯をポケットに突っ込みながら車を降りる。
 そうして、ふと思い出した。ネクタイを返したとき、七海が眉根を寄せたこと。深く刻まれた皺、ギッと握り締めた拳。そこには怒りが滲んでいたようにも見えた。

「ま、気のせいか」

 唐突なひとりごとに肩をびくりと震わせたのは、伊地知だった。




(2024.07.18)


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