03.熱を奪うプラチナ


 発情期に入って六日目。あれからずっと、七海さんの匂いが忘れられずにいる。
 朝から晩まで自分で自分を慰め続けているけれど、それでこの体が満足するわけがない。この一晩を乗り越えたら、発情期は終わる。でも、もうそろそろ物足りなさで狂ってしまいそうだ。どこかのアルファと割り切った関係を結べたらいいのかもしれないが、私にそんなことできない。体を重ねれば、心も付いていってしまいそうだから。ちょろい女だと我ながら思う。それを自覚しているから、慎重に生きてきた。今まで関係を持ったのは悟だけ。そう話したとき、悟は「うそでしょ」と半信半疑ながらもどこか嬉しそうにしていたっけ。

「……もう限界かも」

 ベッドサイドの引き出しを開け、奥の方にしまってあった首輪を取り出して、ぽつりとこぼす。
 悟と付き合っていたとき、ヒート中のセックスでうなじを噛まれないために使っていた首輪。これに触ると、あの頃の記憶が蘇ってくる。悟の声、感触、体温。私は知らない。悟しか知らない。だからこんなとき、他の人とのセックスを思い起こすことができない。体の火照りに対処するには、どうしたって悟との行為を思い浮かべるしかない。それが悔しかった。
 でも、七海さんが。彼の匂いが、鼻腔の奥の奥に滲んでいるかのようで。悟の声や感触、体温は思い起こせても、悟の匂いはもう思い出せなかった。七海さんの匂いで上書きされてしまったから。
 ――いっそ、七海さんに抱いてもらおうか。そしたら全部、悟の全部を、上書きしてもらえるだろうか。

 ピン、ポーン。

 部屋のチャイムが鳴った。首輪をベッドの上に放り投げて、いそいそとドアを開けに行く。きっと硝子だと思ったのだ。食べものを差し入れする、とメールをもらっていたから。

「はー……い――」

 ちゃんと覗き穴で見るべきだった。ドアを開けると、そこに立っていたのは硝子ではなく――。

「無用心だねえ。そんなカッコで相手も確認せずドア開けるなんてさ」
「さ、とる……?」
「うんうん僕だよー。はーいお邪魔しまーす」

 サングラスにワイシャツ姿の悟は、突っ立つ私の脇を通り抜けて部屋へと上がる。その声には、どこか苛立ちが滲んでいた。

「……なんで、家が分かったの」

 引っ越したのだ。悟との思い出が染み付いたあの1LDKの家には、もう別の誰かが住んでいる。
 硝子に聞いた? いや、私たちの過去を知っている彼女が漏らすわけない。

「僕ぐらいになると、その気になれば何でも分かっちゃうんだよねえ。ていうか、君のことなら結構知ってるよ。知らないフリしてるだけで」

 冷ややかに、そしてさらりと放たれた言葉に、背中に震えが走った。
 ひそかに恐怖する私を尻目に、悟は「これ差し入れね」とタータンチェック柄の紙袋を置く。デパートのお惣菜だ。中を見なくても分かる。そこにはきっと、私が好きなデリのサラダやパンが入っているのだろう。そんなことより、だ。

「帰って」

 自分の喉から絞り出たのは、唸り声にも似た低い声。なんで、というふうに首を傾げてみせる悟はもう、完全に確信犯だ。だって私は今、発情期なのだ。突然押しかけて来られて恐ろしい、という感情よりも、今は性欲の方が勝ってしまう。彼はアルファで、元カレで、私の体を知り尽くしていて。限界ギリギリの状態で、手の届く距離に居られてしまっては、もう――。
 すっと一歩こちらへと踏み出した悟に、私は一歩後退する。

「悟が出て行かないなら、私が出てく」
「何バカなこと言ってんの。こんなフェロモン出しっぱなしの野良オメガ、外に出たら秒で犯されるよ」

 飄々とした調子で言いながらタータンチェックの紙袋に手を突っ込む悟を、私は壁に背をくっ付けた状態で睨む。悟は袋の中からサンドイッチやらサラダ、スープを取り出していく。そして最後に出したのは、透明の密封袋に入った何かだった。悟が袋のチャックをゆっくりと開けていく。途端に、体温がぐんと上がった気がした。

「……まっ、て……その、匂い」

 悟が透明袋から取り出したのは、ネクタイだった。くすみがかった黄色に黒い斑点模様のそれが放つ匂いに、視界がくらりと揺れる。

「いいでしょ? "お偉い方との会食があるんだけどネクタイだけ忘れちゃってさー"なんてデタラメ言って借りてきたんだ、七海に」
「なん、の、ために……」
「喜ぶかなあって」

 声を発することすらままならない。呼吸が荒くなっていく。下腹部が疼いて仕方ない。自分が自分じゃなくなっていく。

「欲しい?」

 悟はワイシャツの襟にネクタイを通しながら、にやりと笑んだ。
 もう立っているのもつらくて、その場にへたり込んだ。ふ、と影が落ちてくる。悟が私を見おろしていた。
 ――悟も気づいてたんだ。私が七海さんに発情したこと。そりゃそうか、あんな、七海さんを見た途端に分かりやすく熱を上げて。

「しんどいんでしょ。手伝ってあげるよ」
「……必要、ない」
「無理しちゃってさ」

 七海さんのネクタイを巻いた悟は、私の前にしゃがみ込んで目線の高さを合わせてくる。目が合ったらおしまいな気がして、私は自分の手で顔を覆い隠す。けれど悟はそれを許さなかった。私の両手首を片手で鷲掴むと、すぐ後ろの壁に押し当てる。両腕を頭上で拘束されてしまった。突然のことに驚いて、思わず悟を見上げる。目が、合った。

「っふ……!」

 鼻先にネクタイを押し付けられ、体中に七海さんの匂いが充満する。

「僕の場合は家の連中が血眼になって見つけてきたけど、そうやって自然に出会うこともあるんだねえ。まさしくウンメイってやつ?」
「む……ぅ、んッ」
「ほんっと、面白くない」

 冷ややかな声だった。キラキラして宝石みたいだと思っていた彼の目には、今は一つも光なんてなくて。青の瞳が、暗い紫のような色に染まって見えた。呼吸が奪われていくのは、押し当てられたネクタイのせいか、それとも、目の前で冷え切った眼差しを向けられるせいか。

「これからも七海の物を持ってきてあげるよ。それを僕がこうやって身に着けて、君に触ってあげる」

 つう、と首筋を指でなぞられる。それだけで気をやってしまいそうだった。
 悟は私の目元に手を当て、瞼を下ろさせる。悟の声も止んで、しんと静まる。こうして目を閉じて匂いだけ嗅いでいると、目の前にいるのが悟ではなく七海さんだと錯覚しそうになる。
 見えない世界の中で、唇に熱が落ちてきた。下唇を甘噛みされ、舌が滑り込んでくる。だめだ、受け入れちゃ、だめなのに。ぬるぬると絡み合う舌が心地よくて、腰のあたりに電気がぴりぴりと走っているかのような感覚が襲う。

「だらしない顔しちゃって」

 悟の声に、目をゆっくりと開ける。久しぶりのキスに、体は力を失ってしまった。口の端からよだれが垂れていたのだろう、悟が指先で拭ってくれた。
 悟のキスの仕方は覚えてる。だから、七海さんの物を身に着けて私の視界を奪ったって、悟が七海さんの代わりになれるわけないんだ。
 悟は抵抗しなくなった私を抱き上げて寝室へ運んだ。ベッドの上におろされたとき、背中に硬い物を感じて、あっ、と思う。首輪。つけなきゃ。
 首輪をつける私を、悟は何も言わずに見ていた。そうして自分はネクタイを外し、私の首輪の上から巻きつける。七海さんの匂いは、まだ色濃く染み付いている。

「もういいの?」

 悟が唇をゆるめながら聞いた。

「……好きにしたら」

 ――もういいや。どうだっていい。今日だけ。今日が終われば、もう一生この人とはセックスしない。今は目先の快楽に身を任せてしまいたい。もう、抗うのは疲れた。


◇◇


 目覚めると、悟はもういなかった。首に巻かれていたはずのネクタイもなかった。
 カーテンの隙間からは白いあかりが差し込み、朝が来たことを告げている。鎖骨や腰、内腿に残されたキスマークが、昨夜の情事が夢ではなかったことを物語っている。

 ――やってしまった。

 枕に顔を埋め、発情期とはいえ簡単に理性を投げ捨てた自分を呪った。
 セックス中、私は貪るように悟を求めたし、彼は心底楽しそうに応えてくれた。昔に戻ったのかと錯覚しそうになったけれど、ふと現実に引き戻したのは、彼の指で光る指輪だった。彼は結婚指輪をつけたまま、私を抱いた。悟が私の体に触れて熱を与えるたびに、その熱をプラチナが冷ましていく。――よかった、と思った。指輪をつけたままにしてくれて。じゃなきゃ、淡い期待を抱いた勘違い女になってしまうところだったから。



(2024.07.17)


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