06.交錯
ジャケットの内ポケットに入れていたはずの名刺が、波間に浮かんでいた。
あ、だめ。七海さんの名刺。だめ。行っちゃだめ。七海さんが書いてくれたメッセージが、消えちゃう。
ざぶざぶと海に入って名刺を追うが、どんどんと沖の方へ流されていく。
ああ、もう少しで手が届く。よかった、失くさずに済んだ――。
「おいで、ェ」
ふ、と顔を上げれば、暗い夜の海に浮かぶ人の姿。
――悟。
ハッ、と目を開けると、そこには見慣れない天井。辺りにはダンボールが数箱。それを見て、ああ、ここは自分の家だ、と気づいた。引っ越したばかりの新しい家には、まだ慣れない。
漁村での任務で一時的に意識を失った私は、硝子に処置を受け、三日後には仕事復帰をしていた。任務は七海さんが引き継ぎ、即日祓ったという。やっぱり、一級術師はすごい。七海さんにはお礼をしなくちゃいけない。そう思いつつ、私も七海さんも任務が立て込んでいてなかなかタイミングが掴めず、時間だけが過ぎていった。
「……はあ」
寝汗で濡れた首筋を拭いながら、時計を見上げてため息を吐く。
一週間前、携帯に届いていた一通のメッセージ。それは、悟の妻を名乗る女性からのものだった。話したいことがあるのでお会いしたい、という旨。日付は今日の正午、場所は都内の老舗ホテルだった。
悟の連絡先を削除してから、彼と高専で会うことはなかった。出張続きなのだろう。なんで連絡つかないの、と家に押しかけてくるかと思っていたけれど、今のところその気配もない。家バレしているので引っ越そうかと考えていたけれど、そんな暇ないしどうしようと思っていたので、悟がこちらに関心を寄せていないことに少しホッとしていた。
とりあえず引っ越すのはまだ先でいいや、なんて思っていたところに「五条悟の妻です」というメール。どうして私の連絡先を知っているのだろう。連絡先を知ってるということは、家を知っててもおかしくないのでは。そんなことを思って、私は逃げるように引っ越しをした。そんなのきっと、意味ないのに。
**
「主人がいつもお世話になっております」
ホテルのラウンジ。大きな窓側のソファ席に座る着物姿の女性は、初めまして、という私の言葉を遮ってそう言った。瞬きをすることなく、ビー玉のような丸い瞳をこちらに向けてくる。若い。私よりも年下。二十歳そこそこだ。敵意を隠すことなく向けてくるので、彼女にとって自分がどれほど悪人なのかを知る。
立ったままの私に、彼女は少しハッとしたように咳払いをして「おかけください」と言った。向かいのソファに浅めに腰掛ければ、間髪入れずに、目の前にスッと紙が置かれた。これは――。
「私、妊娠してるんです」
白黒のエコー写真。その中央には白い豆のような形をした胎児が写っていた。悟の、子ども。
「……おめでとうござい――」
「本当にそう思ってます?」
私は、知らない女性の懐妊を心から祝えるほどの善人ではない。別にそれが悟の奥さんだから、ではなくて。よかったな、とは思った。五条家にとっても、五条家当主の悟にとっても。五条の血を継ぐ子ができて。無事に生まれたらいいな、とも思った。
でもそんな思いを口にしたところで、私を憎々しく睨みつけるこの人は納得しないんだろう。だから黙り込んでいると、彼女は悲痛に満ちた声で言った。
「今でも主人のことを?」
――あの海で、私は悟を見た。
あれは、対峙した者が望む人間の姿を真似る呪霊だった。海に立つ悟を見て、嫌悪した。呪霊にではなく、自分に。まだ未練を残していたのかと、我ながら呆れてしまったから。女々しい感情を呪霊とともに葬り去りたくて近づくうちに、呪霊が片手に名刺を持っていることに気づいた。七海さんの名刺。私の心を読んだのだろう、呪霊が笑った。そうしてまた姿を変えた。今度は、七海さんに。動揺してしまった。戦意が音を立てて崩れ落ちた。そこで私は、海に沈んだ。
「……いえ。その感情はもう、死にました」
あの海に沈んだとき、悟への感情も底に置いてきた。今ごろ魚の餌になってる。
彼女は膝の上に置いた手をぎゅっと握り合わせていた。左薬指に光る結婚指輪を見ても、何も思わなかった。
「私、これから母になるんです」
「……はい」
「あの人は、父になるんです」
「ええ、はい」
「私たちの間にいるのは、お腹の子だけで十分。余計なものは排除すべきなんです」
彼女の声が耳に届いたその瞬間に、二の腕に痛みを感じた。振り返ると、背後に黒スーツの男性が。手には注射器を持っていて、その針は私の腕に刺さっていた。
うそ、まずい、やられた――。
「なに、を……?」
「発情誘発剤です。あなた、邪魔なんですよ。私たちの幸せな暮らしに波風を立ててほしくない。分かってくださいますよね? ……だからさあ、もう早くテキトーなアルファにうなじでも噛まれて、誰かのモノになってくれない? そうしたらあんたの厄介なオメガフェロモンも封じられて、悟さんを惑わすこともないんだろうから」
視界がぐらぐらと揺れる。体が熱を上げていく。息が、ままならない。
女性は立ち上がると、黒スーツを従えて去っていく。待ってよ、ねえ、エコー写真忘れてるよ。大事な赤ちゃんの写真、置いてってあげないで。
「ま、って……」
ラウンジにいる他の客が、こちらを見ている。ああ、まずい。こんな高級ホテルのラウンジにいる人間なんて、大半がアルファだ。ほら、やっぱり。あっちからも、こっちからも、誰もが瞳孔の開いた目で近づいてくる。
テーブルのエコー写真を取り、霞む視界の中で、イスに体をぶつけながら這うように歩いた。腕を掴まれる、荒い吐息が肌にまとわりつく、虫唾が走るような下卑た言葉を囁かれる。やだ。やめて、離して、やだ、誰か――。
ぐっ、と手首を掴まれ、アルファの群れから引き離された。ぼやける視界の中で、プラチナゴールドだけが鮮明にきらめいた。
七海さんだ。
声にならない。七海さんも何も言わず、ただ足早に私を引っ張って行く。
エレベーターに乗って着いた先は、ホテル上階の客室だった。
「家入さんに連絡をしました。彼女が来るまでここで休んでいてください。部屋には誰も近づけません」
私の目を見ずに早口で言った七海さんは、そのまま部屋を出ようと踵を返した。そのとき、持っていたエコー写真が床に落ちてしまった。
「……妊娠しているんですか?」
静かな声だった。七海さんはエコー写真に視線を落としたまま言った。
「五条さんとの――」
「ち、違います! それは奥さんの、悟の奥さんの……忘れて行ったみたいなので、返そうと思って」
七海さんは膝を折って写真を拾い上げる。写真の片隅に刻印された五条姓の女性の名を確認すると、「そうですか」と息を吐いた。
「返せますか。あなたから、五条さんの奥さまに」
「……え、っと、なんとか面会できるようにお願いしてみます」
「人が良すぎます。彼女はあなたに発情剤を打ってレイプさせようとしたんですよ」
その強い言葉で、はたと気づく。
「どうして七海さんがここに?」
悟の奥さんと会うことは誰にも話していなかった。なのに、どうして。
七海さんは眉根を寄せたまま、少し決まりが悪そうに言った。
「見てしまって。漁村での任務で意識を失ったあなたを見舞った際に、五条さんの奥さまからのメッセージを。もしかすると何か起きてしまうのではないかと。……出過ぎた真似をしてしまいました。すみません」
「いえ、そんな……」
「これは私が預かります。では」
七海さんはエコー写真をジャケットの内ポケットにしまうと、部屋のドアノブに手を掛ける。
「待って」
縋るように腕を掴めば、七海さんは制止した。
「離してください」
こちらを振り返らず、低い声で唸るように言う。そんな七海さんの腕をぎゅっと掴む私の手は、かすかに震えていた。必死だった。行ってほしくないと、全身が叫んでいた。
「あなたはヒートを起こしている。その状態で触れられると、ラウンジにいたあのアルファたちのように私も理性を失ってしまいます」
「いいです、七海さんなら……いいんです」
「今のあなたは正気ではない。言ったでしょう。第二の性に心まで支配されてはいけないと」
はあ、はあ、と息が上がる。今こうして会話が成立しているのも奇跡だと思えるほど、少し気を抜けば我を失ってしまいそうだった。
七海さんの腕を掴んだまま、もう片方の手で胸ポケットを探る。そうして、皺くちゃになった名刺を取り出した。それを見た七海さんの目は、サングラスの向こうで大きく開いた。
「これを取り返したくて海に入ったんです。でも呪霊が七海さんの姿になって、動揺してしまって……それで、死にかけました。あのときは来てくださって、ありがとうございました。今日だって、七海さんは私を助けてくれた……、っ!」
限界が近かった。七海さんとこんなに間近で、目を合わせて。七海さんが少し動くだけで、その甘い香りに頭の中がぐらりと揺れてしまう。――これはただの発情ではない。七海さんに抱いてほしくて、たまらなくて、おかしくなりそう。
「……すみません」
そう言って、七海さんは腕を掴む私の手を剥がそうとした。けれど私は引き下がらなかった。
「じゃあ、お詫びだと思って」
名刺に残る一文。インクは海水に浸って薄れてしまったけれど、それでもかすかに読み取れる。『言いすぎました。今度お詫びを』の文字に、七海さんは目を伏せた。
「……後悔しても知りませんよ」
突然、七海さんとの間に流れる空気が湿り気を帯びたように思えた。瞬きする間に腰に回された腕は、硬くて熱くて。抱き寄せられた拍子に、七海さんの胸元に顔を埋めてしまった。
――ああ、このネクタイ。七海さんのネクタイなのに、これを見ると悟を思い出してしまう。
顔を背けた私に気づいたのだろう、七海さんはネクタイをしゅるりと外した。足元で蛇のようにとぐろを巻いたネクタイを見おろしていると、頬にぬくもりが広がる。七海さんの指。こうして直接肌に触れられるのは初めてだった。肌から溶け込んできた熱が全身をめぐって心臓に届いたとき、ばくんばくんと激しくなった鼓動に、呼吸が奪われそうになった。
「……あ、あっ、の」
息。息が、できない。
言葉を紡ぐことも難しくて、目で訴える。七海さんは眉根をぴくりと動かすと、頬に触れていた指を顎の方へと滑らせた。そうして顎をくいと持ち上げられれば、七海さんと視線がまっすぐ合う。影が、落ちてくる。
「っ、ふ……」
寄せられた唇は、初めこそ遠慮がちに触れ合う程度だったが、そのうち隙間を埋めるように押し重なった。息が吹き込まれ、萎んでいた肺が膨らむのを感じた。
「息、できますか」
ゆっくりと離れた唇をぼうっと見つめていると、七海さんが静かに聞いた。私はそれに頷き返して、
「……キス、しちゃいましたね」
と、ぽそりと囁くように言った。
「いえ。今のは空気を送るための処置です」
きっぱりと言い放たれ、「へ?」と間抜けな声を漏らしてしまう。すると七海さんは、小さく淡く笑った。そうして、私の顎にそっと手を添える。
「今からするのがキスです」
片手でサングラスを外しつつ、もう片方の手を私の後ろ首に当てて、ぐっと顔を寄せる。
あとほんの少しで唇が重なる――そのときだった。
コンコン、ゴッン、ガゴッ、ガッ、ガギィッン。
ドアをノックする音が、蹴るような音に変わり、最後には金属がねじ曲がる音になった。
破壊されたドアノブが虚しい音を立てながら床に落ちたかと思えば、錠を失ったドアが蹴破られた。そこに立っていたのは――。
「お取り込み中だった?」
(2024.07.20)
メッセージを送る