01.都市伝説


 元カレである五条悟が既婚者になって、もうじき三カ月が経つ。
 呪術界の御三家の一つ、五条家の当主である悟は、生まれたときから後継を切望されていた。血を絶やさないことはもちろん、より優秀な遺伝子を残すことが求められる。そのため五条家は、悟が「運命の番」と結ばれることを強く望んでいた。運命の番との間に生まれた子は、アルファの中でも特に優れた能力を持つといわれているからだ。現に、悟の両親も運命の番である。

 悟と私は、運命の番ではない。だから、期限付きの交際になるということは最初から分かっていた。悟は気にするなと言ったけれど、五条家は彼の誕生とともに運命の番を探し続けていた。一生のうちに運命の番と出会える確率は極めて低い。けれど五条家には先代という前例がある。先代の際にも、金と権力を使って運命の番を見つけ出してきたという。その結果、無下限呪術と六眼を併せ持った子が生まれたのだから、先代の運命の番、つまり悟の母となった女性を見つけてきた家令はその功績を讃えられ、今や家令筆頭となっているそうだ。
 そんな五条家の事情を知っていたので、私は悟と番の関係を結ぶことを拒んだ。いつか悟が運命の番と出会ったとき、私が彼の足枷にならないために。それと、自分のために。だって、アルファは複数のオメガと番えるが、オメガである私は、一度アルファと番ったら死ぬまで関係を解消できない。悟が運命の番と結ばれて子を成すのを、私は蚊帳の外からただ見ているだけ。そんなの生き地獄だ。
 だから、ヒート中のセックスでうなじを噛まれないよう、発情期の七日間だけは首輪を着けて自衛していた。その気になりさえすれば実力行使で無理やり番うことだってできたはずなのに、悟は私の思いを尊重してくれた。

 ――ごめん。
 
 あのときの言葉が、表情が、記憶に深く刻まれている。
 悟が、運命の番と出会ったのだ。「運命なんて都市伝説でしょ」とまともに取り合っていなかった悟が、五条家の家令筆頭が血眼になって見つけ出してきた女性と対面した途端、心を変えた。私に別れを告げて、運命の番である女性と結婚した。
 いつかその日が来るかもしれないと覚悟していたはずなのに、あっけない最後に愕然とした。喪失感の沼に全身浸かったようだった。

 悟と別れてからの日々は散々で、仕事にも身が入らず、呪霊の攻撃を喰らって気を失うなんてほとんど日常茶飯事。ついには夜蛾学長から待機命令を受け、一カ月ほど仕事を与えられず家に引きこもっていた。
 京都校を卒業してからずっと関西にいた私は、出張に来ていた悟と意気投合して付き合うようになり、それを機に上京して東京の呪術高専所属となった。こっちに友人なんていない。悟しか知らない。私の世界をつくっていたのは五条悟だったのだと気づいて、また喪失感に苛まれた。

 一カ月間の自宅待機中、このまま一人で死んじゃうんだ、と根拠のない絶望に襲われた。すがるような思いで連絡した相手は、家入硝子だった。東京に来て連絡先を交換した唯一の人。交換したのはなにも話が合うからというわけではなく、彼女が高専所属の医師だから。オメガである私の身に突発的な症状が出た際に対処するため、連絡先を交換していたのだった。
 彼女は電話に出て開口一番に「どうした。ヒートか?」と言った。自分以外の人の声を聞くのがずいぶんと久しぶりで、私は電話口で大泣きした。その後、彼女は食事を持って家を訪ねてくれた。当時の私が彼女について知っていたのは、家入硝子という名前と、高専の医師であるということ、そして連絡先。彼女もそうだろう。私の名前と、高専所属の二級術師ということと、連絡先。たったこの三つだけのはずなのに、彼女は私の好物ばかりを持ってきてくれた。そして、何も言わずに頭を撫でてくれた。この世には悟以外にも人がいた。当たり前だけどそんなことを実感して、私はまた泣いた。
 その日以降、私はすっかり硝子に懐いた。「私に発情するなよ? 私はベータだから満足に相手してやれないからな」と呆れたように笑う彼女もまた、満更でもないような気がした。同性の友達なんて初めてだった。昔から、私は周りの同性から「男を誘惑している」と疎まれてばかりだったから。うれしくて、楽しくて。硝子と過ごすうちに、悟とのことはすっかり昔の思い出になった――。



「高専を卒業して一般企業に就職した後輩がいるんだけど、今度こっちに戻ってくるらしいんだ」

 ある日、いつものように硝子の医務室で茶菓子をつまんでいると、彼女が紅茶を飲みながら言った。

「こっちって、東京に?」

 硝子の元には良い品が集まる。ティーバッグ一個で千円近くするこの紅茶も、いつもお世話になっているから、と他の術師が差し入れたものらしい。私はいつもありがたくその恩恵にあずかっている。
 硝子は私の問いに、首をゆったりと横に振って言う。

「術師として、この呪いの世界に」
「……へえ、物好きだね。わざわざ地獄に舞い戻るなんて」
「どこにいたって地獄みたいなもんだろ。言いたいことも言えないこんな世の中じゃ」
「ポイズン?」

 硝子は「それ」と私を指差し、ハハッと笑った。彼女は一見クールだけれど、意外とよく笑う。

「硝子は言いたいこと言ってる方だと思うけど」
「そう? まあ、言っても聞かない連中ばっかりだから、言えてるって実感がないのかもな」

 へえ、と相づちを打ったとき、携帯の着信が鳴った。見ると、補助監督からだった。硝子に断りを入れて電話に出ると、先の任務の報告書の一部が間違っているから至急修正してほしい、とのことだった。至急って、と私が渋ると、「だって明日から一週間お休みされますよね? だったら至急です」と厳しく返された。そうだ。三カ月に一度の発情期が、予定では明日から始まる。だから事前に一週間の休みを申請していたのだ。

「あー、私行かなきゃ」
「オッケー。明日からだよな? 何か必要な物があったら連絡してくれていいから」

 ヒート中は家の外に出れない。もし出てしまえば、その辺のアルファを刺激してしまうかもしれないから。
 硝子にお礼を告げて医務室を出ようとしたとき、ふと気になることがあり、「そうだ」と立ち止まる。

「その出戻り術師って、なんて名前なの?」

 今後、任務に同行することもあるかもしれない。事前に知っておけば挨拶もスムーズにいくだろうと思ったのだ。
 硝子の携帯が鳴る。きっと緊急案件だろう。眉根を寄せて画面に視線を落としながら、硝子は言った。

「七海。七海建人」


**


 報告書の修正を終え、今日はもう仕事もないし帰ろうかと身支度をしていると、悟の気配を感じた。
 高専の教員である悟は普段、教職員室か自室、もしくは地下の個室にいるため、高専所属の術師が使う休憩室には姿を見せない。付き合っているときは私を訪ねて来ることも多かったが、別れてからは鉢合わせるのが嫌なのか、休憩室には近づきもしなかった。なのに、なんで今。

「大丈夫?」

 休憩室のドアを開けて私の姿を確認すると同時に、悟は言った。
 三カ月ぶりに見る悟は、髪が少し伸び、心なしか雰囲気も落ち着いたように見えた。左薬指には指輪。そういうの、つけない人だと思ってたのに。結婚すると変わるのかな。やっぱり、相手が運命の番だと特別なんだろうな。
 見たくないのに、どうしても視線が左薬指に向いてしまう。もういっそ何も見ないようにすればいいか、と目を閉じる。

「……何が?」
「ほら、もうすぐアレでしょ」

 まさかと思い瞼を押し上げれば、悟はいつの間にか私の目の前に立ってこちらを見おろしていた。

「僕と別れて初めての発情期だろうから、大丈夫なのかなって」

 確かに、悟と別れてから初めてだ。前の発情期には、私たちはまだ恋人関係で。悟は出張が入らないよう調整して、ヒート中の七日間、毎日抱いてくれた。
 でも別れた今、そんな気遣いは余計なお世話だ。

「自分でなんとかできるのでお構いなく」

 もう過去のことなのに。思い出すとあの感覚が生々しいほどに蘇ってくる。体の奥底で眠っていた熱がふつふつと滲み出してくる。

「なんとかって――」
「ほっといてってば!」

 触れようとしてきた手を払う。ああ、術式解いてるんだ。
 振り払った手前、対面しているのが気まずくて、悟に背を向け、広げていたポーチやら手帳やらをバッグに詰め込む。

「……ていうか、普通に話しかけてくるんだね」
「え? うん、ダメだった?」
「だめというか……だって、私のこと避けてたんじゃないの?」
「避けるー? なんで? 僕はいろいろ忙しくて不在がちだったし、君は一カ月自宅待機だったらしいじゃん。単にすれ違ってただけじゃない?」

 すれ違いって。それ、付き合ってる人同士で使う言葉なんじゃないの。

「もしかして……私たち、付き合う前の関係に戻ったと思ってる?」
「うん」

 思わず振り返ってみれば、悟はあっけらかんとした調子で続けた。

「だって、こっちの事情理解してくれてたでしょ。それに嫌いになって別れたわけじゃないんだし、お互いに」

 こめかみに、呪霊の攻撃を喰らったときのような衝撃が走る。同時に、胸の内側に込み上げてくるこの感情は――怒りか、悲しみか。

「悟って……分かってはいたけど、ほんっとに自分勝手だね。確かにそうだよ。悟の事情は分かってたし、嫌いになって別れたわけじゃない。だから、つらかったんだよ。……せっかく忘れられたと思ったのに」

 声が震えないよう押さえつけたつもりだけれど、最後はもう堪え切れなくて、掠れてしまった。

「戻れるわけないじゃん、前みたいになんて」

 グッと拳を握り締めて俯けば、悟の左薬指が目に入った。嫌味なほどに真新しく輝くプラチナが、私の視力を奪っていくように思えた。涙だ、と気づいたときにはもう床に水滴がぽつぽつと垂れ落ちていて、私は自分の目を手で覆う。
 そのとき――心臓がドクン、と大きく跳ねた。

「七海」

 胸の鼓動がうるさくて、ドアの開く音に気づかなかった。ドアの方を振り向いた悟が口にした「七海」の名前が、かろうじて聞こえたぐらい。
 悟の体でドアが見えない。そこにいる人を見ようと、顔を覗かせてみる。――居たのは、一人の男性。ドアノブを掴んだままその場で固まっているようだった。プラチナゴールドの髪につるなしのサングラス、皺一つないスーツ、緩みのないネクタイ。その全てを視認する前に、全身が熱を上げ、呼吸が奪われていくのを感じた。
 ――これは、ヒートだ。
 なんで? 発情期は明日からのはずなのに。

「あ、わ、わた、し……」

 悟の放つオーラが変わったのは、アルファとしての性が刺激されたからか。悟が「七海」と呼ぶあの人の性をまだ知らない。もしアルファなら、この空間に私がいてはまずい。
 悟が私の名前を呼びながら手を伸ばしてくる。それをすり抜け、私は窓を開けて外へ飛び出した。ああ、ここが一階で良かった。
 なけなしの理性を振り絞りながら走るうちに、駐車場に停まる黒塗りの車が目に飛び込んだ。この状態で外にいるのは危険だ。ヒートが治まるまで密室に閉じこもらないと。
 幸い鍵が開いていた。つい先ほどまで使われていた車なのか、車内には人の気配が残っていた。しかし残っていたのは気配だけではなかった。車に乗り込んだと同時に、めまいが襲う。匂いだ。脳が溶けそうなほどに甘いこの匂いは、一体――?
 匂いは、左側の後部座席から漂っている。鼻を近づけるうちに、シートに顔を埋めていた。

「っ、あ…ぅ」

 だめだ、この匂いを嗅ぐだけで、下腹部がじくじくと疼く。
 誰? ここに座っていたのは、誰? 抱いてほしい、今すぐ、ぐちゃぐちゃになるほどに、激しく。

「何やってんの」

 体がびくりと跳ねたのは、不意にドアを開けられたからじゃない。無意識のうちに自分の下腹部に触れ、あっけなく達してしまったから。

「み、ない、で……ほっといて」

 一人でシていたところを見られてしまった。ドアに手をかけたままこちらを見おろす悟を直視できない。顔を隠しながら身をよじり、悟が開けた方のドアから離れた。

「ほっとけないでしょ。こんな状態で」

 ズン、と身が沈むと同時に、声が降ってきた。私に覆い被さる悟は、目隠しを外していた。オメガの放つフェロモンに当てられているのか、顔が少し上気している。

「そんなんじゃ足りないよね。中途半端にイくのはよくないよ?」

 やめてほしい。そんな、熱のこもった目で見おろさないでほしい。

「……ふ、あっ」

 頬に触れられるだけで、達したばかりの敏感な体が反応してしまう。悟は唇の端を緩めて、顔を寄せてくる。

 ――いやだ。結ばれるはずのない人に施しを受けるなんて、そんなの、みじめだ。

 唇が重なる直前。私は枯れそうな理性を振り絞って彼の頬を叩き、ドアノブに手を掛けた。そうして車から這い出ると、あてもなく走り続けた。
 頭では分かってる。硝子のところに行くべきだ、と。でも頭が働かない。医務室がどこにあるのかすら思い出せないほど、混乱している。どんどん人間としての理性をなくしていく。繁殖本能に支配されていく。だめ、だめだ、消えたい、いやだ、こんな体、いやだ。

「……あ、」

 体がぴたりと静止する。建物の影から現れたのは、先ほど悟が「七海」と呼んだ男性だった。七海、七海建人。硝子が言ってた、出戻り術師――。
 車で嗅いだあの甘い匂いがぶわりと強くなる。彼が向けてくる眼差しが、足先までを震わせる。視界が暗転していくなかで、名前を呼ばれた気がする。誰の声か分からない。意識が遠のいて、いく。


◇◇


 目が覚めると、視線の先には真っ白な天井が。鼻をくすぐるのは薬品の匂いと、紅茶の香り。

「何が起きたか覚えてるか?」

 体を起こす私に、デスクに座る硝子が背を向けたまま言った。
 自分の腕を見ると、注射痕があった。硝子が緊急抑制剤を打ってくれたんだ。

「ヒートが……なんでだろう、明日からなのに。ちゃんとピルで調整もしてたのに」
「誘発されたんだよ」
「……誘発?」

 ギィ、と椅子が鳴く。硝子が「知らなかったのか」と、こちらに顔を向けた。
 
「運命の番と初めて出会ったとき、ヒートが誘発されるんだ」
「え、えっ……うん、めい?」
「まさかお前の運命の番が七海だったとはな」

 ハッと笑った硝子は、呆然とする私に今までのことを話した。
 意識を失った私をこの医務室まで運んでくれたのは、七海さんだったらしい。彼は私のオメガフェロモンに当てられていた。自力で立つのも精一杯なはずなのに、成人女性を担いで歩いたこと、そして、運命の番が放つ強烈なほどのフェロモンには抗うことなどできないはずなのにギリギリで理性を保っていたことに、硝子は「驚いた」と言った。硝子は七海さんにも緊急抑制剤を打ったらしい。その後、彼は次の任務に向かったと。

「……悟は?」

 硝子は、私がぽつりと口にした名前に目を細めた。
 彼女は、私が悟と付き合っていたことを知っている。運命の番との出会いを理由に別れたことも。私も、硝子と悟が同期だと知っている。たまに悟や歳の近い術師、補助監督たちと連れ立って食事に行っていることも。硝子と私の関係は、悟を介さずとも成立している。悟を理由に仲がこじれることはない。でも、お互いに進んで「五条悟」の名前を口に出すことはなかった。だから硝子は、目を細めたのだと思う。

「ここに来なかった?」
「来てないけど。どうして」
「……ヒートを起こしたとき、その場に悟もいて……つまりその、当てられちゃってたみたいだから」
「自分でどうにかしたんじゃないか? もしくは家に帰ったか。私はあいつに打ってないよ、コレ」

 そう言って硝子が指したのは、使用済みの抑制剤の注射器だった。二本ある。一つは私に、もう一つは七海さんに使ったものだろう。
 硝子は明言しなかったけど、「家に帰った」ということは、奥さんを相手にしたということだろう。彼のことだから、きっと高専の敷地内に自宅へ瞬間移動できるようにしている。私と付き合っていたときも、そうだったから。

「五条が気になるのか? 七海のことよりも」
「えっ、や、いや、そんなことは……。運命の番だなんて突然のことで、いまいちピンと来ないというか……七海さんのこともよく知らないし」

 硝子は、ふぅん、と喉を鳴らしてデスクの方を向き直った。私はその背に向かって言う。

「ていうか、抑制剤打ってすぐ任務に出ていくってことは、向こうもそこまで気にしてないんじゃない?」
「今やるべき仕事を優先しただけだろ。立派な大人なんだし、それが当然」

 まるで子どもに言い聞かせるような口調に、一応大人である私の顔は熱くなった。恥ずかしい。そりゃそうだ。いくら運命の番に出会ったといっても、日常の生活があるわけで。全てを放り出して二人で身を寄せ合うなんて……いや、でも私は、あの甘い匂いを嗅いだとき、全部失くしてもいいと思った。この匂いさえあればいいって。まあでもそうか、それはヒートのせいであって、衝動が落ち着いた今なら、また別のことを考えるんだろう。理性的に。

「……人間って欲深いね」
「だから進化してきたんじゃない?」

 そうか、とやけに納得したとき、ぐぅ、とお腹が鳴った。すると硝子はこちらを振り返って「欲深いな」としたり顔を浮かべた。そして、私のお腹を指しながら言う。

「今やるべきことは?」
「……ごはん食べる」

 正解、と頷いた硝子に促されて、私はのっそりと上体を起こし、ベッドから下りる。
 医務室から出ようとした私に、硝子が「そうだ」と声を投げた。

「七海に聞かれたよ、お前の名前」

 そこまで気にしてない、わけではなさそうだ。
 まだ鮮明には記憶できていない七海建人という人の顔や出立ちを思い浮かべれば、どくん、と胸が鳴った。気持ちは全然追いつけていないのに、体はすっかり彼に囚われてしまったようだ。

 ――そうか。出会ってしまったんだ、ついに、私も。運命の番に。




(2024.07.16)


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