は、気づけば総悟を目で追うようになっていた。たまに目が合うだけで心臓がはねあがり、頬があつくなるのを感じる。一方、総悟のほうには何ら変わった様子はなく、いつも通りに仕事をこなしている。それがには切なかった。 そしては、義姉が存外聡い女だということを知った。の心のうごきをいち早く察したらしく、総悟と少しでも話そうものなら、どちらかに何かと用を言いつけては引き離す。しきりに松五郎とはいつ会うのかを尋ねる義姉に、この人はあの手代を嫌っているのだとは悟った。それは毎晩、見世と奥とを仕切る中戸を「火の用心」と言いながらきっちり閉めきる徹底ぶり。そのときの音が、には雷鳴のように聞こえるのだった。 は総悟と過ごせるときが無くなってしまったことを嘆いたが、それでも時折り義姉の目を盗んでは、中戸を少し開けた隙間から、見世で働く総悟の姿をうかがっていた。 「さん。何をしてるんです?」 接客をする総悟を盗み見ていたは、不意に肩を叩かれ体を震わせた。振り返ればお亀が首をかしげて立っている。 「なんだ……お亀か。よかった。義姉さんかと思った」 は安堵し、息をはいた。「何を見ていたんです?」と、隙間をのぞこうとするお亀を止め、慌てて戸を閉めた。何もないのと言うに、お亀は「そうですか」とそれ以上追及しなかった。 「それにしてもさん。近ごろめっきり遊びに出なくなりましたねぇ」 「あ、ああ。なんか飽きちゃったしね」 「男に?」 「そうよ」 お亀は目を丸くして、次に格子の外を見て言った。 「明日は嵐かもしれない。せっかくのお花見なのに」 「もう、お亀ったら。……ねえ、その花見。やっぱり私も行かなきゃだめ?」 女だけの花見なんておもしろくない。誰もがめいっぱいに着飾って、花を見るより人に見られ行くようなものなのだ。見栄えのする娘を連れて自慢げに人目にさらす母親などは、の姿を見ると憎憎しい顔をする。自分の美しさを心得ているは妙な闘争心を燃やさないが、毎年一度のこの花見にはいい加減うんざりしていた。 「来たくなければどうぞ」 「そう、じゃあ――」 「でも総悟さんも来ますよ」 えっ、と返すと、お亀はすでに顎を引いて二重顎をつくっていた。 「世話役を兼ねた護衛で。いつもの干からびた爺さんじゃないから、女たちも大喜びですよ。さんが来ないとなったらそれはもう、ますます喜ぶでしょうねぇ」 お亀は上目遣いで、がどう出るかうかがっている。はいつもより余計にまばたきをしながら、決してお亀の顔を見らずに口早に言った。 「そこまで言うなら行ってあげるわよ」 「そうこなくちゃ」 お亀はぱんと手を打って笑った。お亀も聡い。なにも言っていないのに、もうの心を知っている。 お亀が義姉だったらどんなにいいだろうとは思う。九右衛門があの人と離縁してお亀と一緒になればいいのにと、心から思うときがあるほどだ。あの義姉がいる限り、が総悟と一緒になることは出来ないと悟っていた。だから近ごろは余計に、とつぜんに兄がお亀に惚れることを願っていたのだ。 翌日。但馬屋の女たちは女駕籠をつらねて出かけた。一行の後ろを総悟がついて来るのを駕籠からうかがうと、はひとり微笑み、道中胸を高鳴らせてばかりだった。 村里の子どもたちがすみれや茅花を摘むなか、女たちは草がまばらなところへ花茣蓙などを敷き、花見幕を張って楽しんだ。華やかな小袖に身を包む但馬屋一行を、周りの花見衆は他の女たちには目もくれず、「あれが今日の酒の肴」と嬉しがっていた。 但馬屋の女たちはというと、そんな男たちにはかまわず、総悟が輪にいるだけで大盛り上がりだった。茶碗で酒をがぶ飲みにして、すでに出来上がっていたり、前後不覚の有様となってしまったりしている者もいる。はひとり輪から外れて、つまらなそうにしていた。義姉も付いて来ていたのだ。と総悟を注意して見ているので、これでは総悟の隣で酌をすることさえ出来ない。 そんなとき、大勢の人に取り囲まれて、曲太鼓を打ちながら太神楽の獅子舞がやって来た。但馬屋の女たちを見つけるとこちらへ向かってきて、獅子頭の身振りを見せた。これが見事な趣向でこさえられた演戯で、皆こぞって見物した。女は何でも見たがるものだから、何もかも忘れてただひたすら「もっと、もっと」と言って獅子舞が終わるのを惜しんだ。しかしなぜかこの獅子舞の方も、但馬屋一行のところにとどまって、巧みな曲芸を見せ続けてくれるのだ。 しかしだけは獅子舞を見ようともせず、 「歯が痛いわ。私、向こうで横になってるから」 とお亀に伝え、一人で幕の内へ入っていった。幕までの途中、見知らぬ男に声を掛けられたが、人を呼ぶと脅して追い払った。 「さんはもう桜に飽きたみたいね」 獅子舞ではなくひたすら酒に夢中の数人の女は、茣蓙に残って囁き始める。傍らには総悟もいたが、おかまいなしだった。 「そりゃそうよ。毎日桜見をしてれば、それは飽きるでしょうよ。それも日ごとに違う男と」 「松五郎さんもかわいそう。さんの好色ぶりに気づいていないんでしょう?」 「でも旦那さまも奥さまも、松五郎をたいそう気に入ってるから、そのうち夫婦になんて話もあるんじゃないの」 「そうなればさん、あの裏店に嫁ぐの?あの人が飾師の女房だなんて、なんだか考えられないねぇ」 総悟は獅子舞の方へ目をやった。人だかりの最前列で楽しむの義姉の姿を確かめると、なおも噂話に花を咲かせる女たちに気づかれぬよう、そっと茣蓙から離れた。 花見幕の中で、は積み重ねられたたくさんの着替えの小袖の陰で、袖を枕に横になっていた。 「さん」 総悟が声をかけると、は背を向けたまま言った。 「総悟さんが女に囲まれてるところなんて、見てられなかったの。私はお酌だって、そばに居ることだってかなわないのに」 総悟はゆっくりと近寄ってきてを見下ろす。は顔だけをむけて笑った。 「嫉妬よ。みっともないでしょう?」 目尻から転がった涙を拭いながら、はまた笑った。 「泣くか笑うか、どっちかにしてくれよ」 呟くように言うと、総悟はに覆いかぶさった。 「俺もいい加減、嫉妬で気が狂いそうだ」 は目をぱちくりとさせて見上げている。と思えば、みるみる内に頬を赤らめていく。とても好色と言われる娘とは思えない様子だった。 「女がおそろしいんじゃないの?」 「言ったろ。さんだけはおそろしくねぇって」 私には皆川の呪縛がおよばなかったんだと、は思った。 自分の顔の両脇にある腕、圧し掛かる重み、見上げればすぐそこの総悟に、は頬を緩めた。 「総悟さん、私に惚れたのね」 「よく言うぜ。中戸の間から覗き見してた女が」 「うれしい」 は総悟の首に腕を回し、総悟はその白い首筋に顔をうずめた。ひらりと額に舞い落ちてきた花びらに、はようやく二人のすぐ上に桜木があることに気づいたが、花をめでる余裕などもうなかった。 例の獅子舞はというと、総悟が幕の中から出てくるのを見て、かんじんの面白いところを途中でやめてしまったので見物客は皆興ざめした。しかし、あたりの山々にも霞が立ちこめ夕日も傾いてきたので、但馬屋一行も片づけをはじめた。は最後に菫を摘んで、機嫌よく駕籠へ乗り込んだ。 総悟は一行が遠ざかっていく中、少しの間その場に残り、獅子舞の芸人たちに「今日はお陰で、どうも」と礼を言った。獅子舞が、総悟がと結ばれるために仕組んだものでも、目先のことだけで浅はかなの義姉は気づくこともないだろう。 花見から帰ってすぐに、は松五郎と縁を切った。存外すぐに話がついたので、長い間頭を悩ませていたあれはなんだったのだろうとは思った。もう松五郎と会うこともない。は貰った玉簪をくずかごに投げ入れた。 たとえいつも総悟と睦み合えずとも、また義姉の目を盗んでどうにかすればいい。今はただ同じ屋根の下にいられるだけで、総悟を想うだけで満足だった。 そんなだったから、まさかふたたび兄の口から松五郎の名を聞こうとは思ってもいなかった。 「。今度、金戸棚の錠前を松五郎に直してもらおうと思うんだがね」 九右衛門の部屋へ呼び出されるなりそう言われ、は大きなため息をついた。 「またなの。どうして家の金物はそうも簡単に錆びちゃうのかしらね」 だれかが夜毎に水でもさしてるんじゃないの、とが言えば、九右衛門は咎めるような目をやった。 「それに兄さん。どれほど松五郎さんを信用しているのよ。だって、金子の棚を?私でさえ触れられない棚なのに」 「腕の立つ男だ。おまえも言っていただろう?それにあの実直さだ。まさか盗みなどするまいよ」 「……じゃあいいわよ。頼んだら?」 「そう言ってくれると思ってな、実は明朝に来てもらうようにしている」 笑う九右衛門に、は呆れた。金子の棚を触らせるなど、主人の自分の他には番頭頭ぐらいにしか許していないのに。まるで松五郎を跡継ぎにしたいと遠まわしに言っているようなもの。 そう思ったとたん、は立ち上がった。 「もう松五郎さんのことで私に一々断るのはやめてちょうだい。関係ないんだから!」 まさか、と思ったのだ。自分たち夫婦が子宝に恵まれないから、松五郎を婿養子にするなど馬鹿馬鹿しいことを言い出すのではないかと。 九右衛門はの言葉を聞いて愕然とした。 「まさかおまえ。おい、またか、また他の男を……。いつになったら身を固めるつもりだ」 「いずれ」 言い放ち、障子に手を掛けて部屋を出ようとしたとき。 「もう許さんぞ。、松五郎と夫婦になれ」 九右衛門の腹にまで響くような声がの動きを止めた。 「これ以上男をえり好みして浮名を立てられれば、但馬屋の恥だ。おまえにはもったいないほど、松五郎は心のいい男だ。なんの不満もないはずだぞ。、飾屋へ嫁に行け。これは兄の、この家の主の言い付けだ」 は振り返ってすさまじい剣幕の兄を見た。その背後に、ほくそ笑む義姉の顔を見た気がした。 睨みつけ、兄とは対照的に、冷ややかな怒りを込めて言う。 「人の言いなりにはならない。たとえ兄でも但馬屋の旦那でも、それが何だって言うの。私は私の好い人と一緒になる」 はげしい音を立てて障子を開ききると、はそのまま走った。中戸を力いっぱい開けると雷鳴が轟いた。すると、ちょうど外で客を見送ったばかりの総悟が目に飛び込んだ。 「総悟さん!」 は総悟の元へ駆け、しがみ付いた。その勢いで総悟は後ろへよろめく。 涙に濡れた顔を上げ、は喉の奥が詰まりそうになるのを抑えながら言った。 「総悟さん、私を盗んで」 総悟はの言葉に目を見張った。見世の奥からの名を呼ぶ主人の怒号が聞こえてくると、は「いや、いや」と言っていっそう強くしがみ付く。それを見た総悟は「ちょっと待て」と言うと、走って見世の中へ入っていった。が力なくその場に崩れると、総悟はすぐに戻ってきて、を助け起こした。前掛けを外して羽織を着ている。にも半纏を掛け、言った。 「行こう。貧乏暮らしは知らねぇが、となら辛抱できる」 総悟はの手を引いて、夜の闇の中を走り出した。 次へ |