床についていたお亀が見世の騒がしさに目を覚まし、何事かと思い仲居部屋を出たとき、仲間の女とぶつかった。慌てた様子の女に事情を訊くと、女は震えながら言った。 「総悟さんが、さんをさらって逃げたみたいで……」 お亀は耳を疑い、もう一度聞き返した。しかし女はそれ以上なにも言えず、ただ首を振るばかり。 家中に多くの足音が慌しく鳴り響いている。「さがせ、さがせ」という主人の声に、お亀は目の前が真っ暗になった。 「さんが――」 お亀は女を押し退け、走った。 の部屋の障子を勢いよく開ける。そこは蒲団が敷かれたまま、燭台の灯りもついたままで、いつもとなにも変わらない。今にも首をかしげたが、「お亀?どうしたの」と言って現れそうなのに。 文机のそばに置かれる、がよく着ていた半纏。それを見るとお亀は、 「そんな、そんな……」 と声を漏らし、その場に崩れこんだ。さんがいない。 這うようにして文机まで行くと、半纏を掻き抱き、声をあげて泣いた。 さんが、いない。 浜辺の小屋に、二人は身を寄せ合っていた。朝を待って上方行きの船に乗り、この町を離れる。 「大丈夫だ」 おそろしさに震えるの肩を抱いて、総悟は何度もそう言い聞かせる。 「大坂で家を借りて、そこで暮らすんだ。はじめのうちは食っていくのも大変かもしれねぇが、そのうち暮らしも安定してきて、お前は俺のがきを五、六人生んで、一緒に爺と婆になっていく」 の頬は冷たくなっている。何しろわびしい小屋だから、隙間から入ってくる風が身に染みるのだ。 総悟はつづける。 「近所のやつらにも、あの夫婦は若いころ美男美女だったのに今じゃ見る影もないなって、好き勝手言われながら老いてくんだ」 顔を上げたはかすかに笑った。それを見て総悟も笑い、を強く抱きしめた。 「大丈夫だ」 じきに、夜が明ける。 朝日が昇り、家々からにぎやかな声が聞こえ始めたころ、但馬屋を訪れた一人の男がいた。 しかし見世には誰もおらず、ふしぎに思いながら男が突っ立っていると、中戸が開いて女が一人出てきた。 「あ、ああ、松五郎さん」 の義姉は松五郎を見ると一瞬目を見開き、その後で引きつった笑みを見せた。 「九右衛門さんはいらっしゃいますか?錠前の具合を見に来たんですが」 松五郎が頭を下げてから言うと、義姉は狼狽した。 「すみませんね、今はちょっと用で出ていて……。ああ、でもどうぞお上がりください。戸棚には私が案内します」 こんな朝早くから出かけているなんてと松五郎は思ったが、おとなしく義姉に連れられて中戸を通り、廊下を進む。母屋を出て、内蔵へ案内される。 ふしぎなことに、途中会った奥向き女中などは松五郎の顔を見ると、先ほどの義姉のように目を見開く。と別れたことを知っているのだろうか。別れた後ものこのこと家へやって来る自分に驚いているのだろうか。松五郎が考えを巡らせていると、「あれです」と義姉が足を止めた。 「それで、申し訳ありませんが、私はこれで……。後でお茶を運ばせますので」 「いえ、お構いなく」 「すみません。では、よろしくお願いしますね」 そそくさと蔵を出て行った義姉に、松五郎は眉根を寄せる。但馬屋の女達が自分を見る顔を思い出し、いやな気分になった。あの義姉も今ごろ女中たちと、俺を哀れな男だと笑っているんじゃなかろうか。そう思うと拳を握る力が強くなった。 しかしそうもしていられないと思いなおし、仕事に取り掛かろうと金戸棚の元へ歩き出した。途端に鈍い音がし、松五郎は思わず声を上げた。向こう脛が痛い。何だと思って足元を見下ろすと、そこには車長持が置かれていた。これで脛を打ったのだ。開け放されていて、中には何も入っていない。 松五郎は気を取り直して金戸棚へ進んだ。鍵が開いている。いや、閉まらなくなっているのだ。これは急いで取り替えた方がいいと、松五郎が持って来た道具を広げていると、蔵の外から声がした。 「どこにもいない!」 「くそ、どこへ逃げたんだ!」 松五郎は手を止めて、耳を傾けた。 「さんの行きそうな場所は」 「さっぱりだ。仲居の亀に聞こうとしたが、寝込んでしまって何の役にも立たない」 「総悟の里へ逃げたってことは考えられないでしょうか」 「あいつは勘当されている。家へは連れ帰らないだろう」 最後のは但馬屋の主人の声だ。 駆け落ちだ。松五郎は瞬間に悟った。握った拳が震えだし、噛みしめた歯はぎちぎちと軋んだ。 そうして血走った松五郎の目が捕らえたのは、あの車長持だった。 「どうかなさったんですか?」 と総悟の行方をはげしく言い合っていた見世の者たちは、その声でいっせいに口を噤んだ。九右衛門は何も知らない松五郎の姿を見ると、頭を抱え込んでしまった。 「松五郎……が、手代と逃げた」 松五郎は目を見開き、そんな、と声を漏らす。誰も何も言わず、皆しばらく黙り込んでいたが、 「私は仕事に戻ります。金戸棚の錠が壊れたままでは、いけないでしょうから」 と、松五郎がよわよわしく言った。 「それと、すみません。戸棚にはお見世のお金が入ったままなんですよね。万一私が変な気を起こして盗みを働かないよう、どなたか中の金子を別へ移していただけませんか」 こんなときでも職人の心を忘れない松五郎に、九右衛門は唇を噛んでを思った。こんなにいい男を捨てて逃げるなど、なんて愚かな妹なのだろう。九右衛門は松五郎の言うとおり、番頭一人を使わせた。 蔵へ向かう途中、松五郎が立ち止まって空を仰いで呟いた。 「今日はいい天気だ」 それを聞いた見世の者一人があっとひらめいて、途端に声を上げる。 「港だ!」 九右衛門が奉公人たちを引き連れて港へ向かった後、松五郎と番頭は蔵で黙々と金子を長持へと移し替えていた。最初に番頭が車長持を指して、あれにいれればいいと言ったが、松五郎が首を振った。「あれは錠が壊れてしまっています。こちらの長持のほうがいいでしょう。あの錠は後で私が直しておきますから」。 番頭はその言葉を呑んで、ついに車長持には指ひとつ触れぬままだった。途中、松五郎がこの金戸棚にはぜんぶでいくらの金が入っているのか訊いたが、番頭は知らないと言った。知っているのは主人と番頭頭、それに帳場の半兵衛ぐらいだと。松五郎は頷くだけだった。 「さあさあ、船を出しますよ。皆さまの安全を祈って、住吉さまへのお賽銭を」 船頭が大声で言うと、乗客の前に柄杓を差し出して銭を集めた。 そうしてと総悟が乗った船は港を出た。乗合船というのは色んな客がいるもので、大坂の小道具売りや奈良の具足屋、醍醐寺の法印、高山の茶筅師、京の呉服屋などで、たいそうにぎやかだった。 「今日の海は順風だ。はやく大坂に着くでしょう」 船頭の言葉に、は胸を撫で下ろした。振り返ると、岸辺がもうあんなに遠くなっている。の震えもようやくおさまり、総悟に大坂はどんなところだろうと囁くほど調子が戻ってきたようだった。 京の呉服屋が、の羽織る半纏が男物なことに目を細めて見ていたが、総悟が睨むと顔をそむけた。 乗客たちが酒を酌み交わしながら盛り上がる中、二人は大坂での暮らしに胸をふくらませながら、ぴったりと体を添わせて離れなかった。 「しまった!」 そんなとき、一人の飛脚がぽんと手を打った。 「大事なもんを忘れてきてしまった。状箱だ!刀にくくりつけたまんま……」 酒の注がれた汁椀を放り出し、わめきはじめた。そうして磯の方を見ながら、 「そうだ、仏壇!仏壇の脇にもたせかけておいたんだ。しまった、しまった」 と大声でわめく。飛脚があまりにも激しく動くので、船がゆれる。 「それじゃあ飛脚の意味が無いじゃないか」 「たまげた野郎だ。おい、金玉はちゃんとついてんのか」 乗客が呆れたように言えば、男は真面目な顔をして念入りにさぐったあと、 「はいはい、確かに二つございます」 とはっきりと言った。その様子に一同は大口をあけて笑い、「とぼけた飛脚だ」と面白がった。 と総悟だけは顔を強張らせている。総悟は岸のほうを振り返り、目を細めた。 そんな中、一人の男が言った。 「間抜けな奴め。こいつに預けられた文が哀れだ。おい船頭。船を戻してやってくれ」 「だめ!」 がとっさに声を上げた。男も船頭も飛脚も、首をかしげてを見る。 「すまんな。許してやってくれ」 男が言うとは泣きそうな顔になり、総悟を見上げた。しかし総悟は遠くの方を見ていて、には気づかない。 「総悟さん」 船が進向を変え、港へ戻りはじめる。「今日の門出は験が悪いな」と人々が話す中、総悟はの肩を引き寄せた。 「」 近づいて来る岸に人だかりがあるのを、は見つけた。但馬屋の男達だ。 あともうすこしだったのに。この飛脚が状箱さえ忘れてこなかったら。 「たすけて……」 船はまっすぐ港へ向かっている。九右衛門がこちらを指して声を上げている。もう、どこへも隠れることはできない。 二人はすぐにとらえられ、力づくで引き離されると、は厳しく監視された駕籠に乗せ、総悟には縄をかけて歩かせ、町へ連れ戻した。 捕えられたその日から、総悟は座敷牢へ入れられた。但馬屋の離れに閉じ込められる総悟にが会うことはもちろん許されない。 「、」 日ごとに弱っていく総悟は、それでも我を忘れたようにの名を呼び続けた。 何度も死のうと思った。舌に歯を押し当て、ひと思いに噛み切ろうとするが、その度にが頭を過ぎるのだ。 「……」 まだ死ぬわけにはいかない。命を捨てれば、にはもう二度と会えない。まだ、命が惜しい。 「一目でいい。に会わせてくれ」 そう言って、わが身の恥も人の非難もかまわず泣いた。 男泣きとはこういうのを言うのだろうと、見張り番の者たちもその有様を見て哀れに思った。 はひどく嘆いた。自害してはいけないからと、お亀はの簪もすべて隠した。は七日間の断食をして、いつも神社へ出かけて祈った。 「私がさらってくれと頼んだのです」 このままでは総悟は、人さらいの罪で死罪になってしまう。は必死に命乞いをした。 「いけないのは私です。私の命をお取りください。だからどうか、総悟さんの命はお助けください。どうか、どうか」 命乞いをしながら、は不意に総悟が言ったことを思い出した。「あんたは、男のために死にたいと思ったことがあるか」、「あんたはそんな女になるなよ。あんただけは」。 「――おそれられてもいい。総悟さんさえ生きてくれればそれでいい。だからどうか、代わりに私の命を……」 目をつむって手をすり合わせるの後ろで、お亀はしずかに涙を流していた。 満願七日目の夜だった。の枕元に老翁が現れたのだ。 「お前も兄の言う通りに亭主を持てば、こんなにつらい思いをすることもなかったのに。男のえり好みをしたためにこのようなことになったのだ。お前が捨ててもいいと思っている命は長く、命を惜しんでいる総悟は、すぐに最期を迎えるぞ」 翁はそれだけを告げると、ふっと消えた。 は飛び起きて、隣で眠っていたお亀を揺すり起こした。 「総悟さんはまだ、あの離れにいるの?生きているの?ねえお亀、お亀……」 はらはらと涙を流すの手を握り、お亀は何度も頷いた。 「私が兄さんに言えば、総悟さんは奉行所に呼ばれることもないの?私は盗まれてなんかないって言えば、総悟さんは……」 「きっと大丈夫です。旦那さまも奉行所に引き渡すつもりはないと仰っていました」 「本当に……?」 お亀は頷く。本当は嘘である。九右衛門は明日にでも総悟を奉行所へやると息巻いているのだ。しかしお亀にはそう言うことでしか、を落ち着かせることはできないと思ったのだ。だがは泣き止まなかった。 「でも――老翁が現れて、総悟さんがもうすぐ死ぬとお告げがあったの」 言って、はああっと声を上げてはげしく泣いた。 数日後、総悟が奉行所へ呼び出され、そこで思いもよらぬ嫌疑で詮議にあうこととなった。それは、但馬屋の金戸棚にあったはずの七百両がなくなったことに関してだった。 総悟が奉行所へ呼ばれる前、松五郎が但馬屋を訪れていた。先日の錠前が出来上がったことを伝えたあとでこう訊いた。金戸棚の中の金子は長持に移したが、全額きっちりあっただろうか、と。帳場の半兵衛が数えてみると、七百両も足りなくなっている。皆一同に、「と一緒に金子も盗み出した」と総悟を疑ったのだ。 詮議の中で総悟は、すでにを盗んだ罪に問われているだけに何の弁明もかなわず、死罪が決まった。 何も知らないは、朝から雨が降りつづけるのを見つめたまま、部屋で横になっていた。いつもに付きっきりだったお亀もなぜか今日はいない。家の中は静まり返っている。 うまくいっていれば今ごろ大坂でこの雨を見ていたのだろうか。はそう思うと悲しくなり、また泣いた。人はどこまで涙を流せるのか。まだ涙は枯れない。 そのとき、すっと障子が開いた。お亀だった。頭から足先まで濡らして、顔は蒼白だ。お夏が何も言わずに見上げていると、お亀は呆然として言った。 「総悟さんは、処刑されました」 お亀は崩れ落ちて顔を覆った。とてもを見ることができない。 「人さらいだけでなく、見世の金子を盗んだ罪で……」 の代わりに自分がと、お亀は総悟の処刑を見に行ったのだ。後生、目に焼きついて離れぬ光景だった。 お亀は気配がして、ふと顔をあげた。がお亀の横を通り過ぎ、部屋を出たのだ。そのまま縁側へ出て、裸足のまま外へ下りた。雨に濡れながらは、「総悟殺さばも殺せ」と歌いだした。そうして、声を上げて笑う。 「ああ、さんが……」 さんが、狂ってしまった。 総悟と親しくしていた者たちは「せめて跡だけでも」と言って、亡骸を埋葬し、その目印に松と柏の木を植えて塚をつくった。 は毎日そこへ通った。は変わらず狂ったままだったが、塚の前にいる間だけは、昔の美しいの姿に戻るのだ。 六月になり、じめじめとした心地のわるい天気が続いていた。いつものように塚へ行った帰り、お亀がの手を引いて但馬屋へ入ろうとすると、怒鳴り声が響いた。 「どういうことだ!車長持の中から七百両が?」 「ええ、はい。虫干しをしていたところ、蔵の車長持の中に……」 半兵衛が九右衛門の前に身を小さくしている。 「それじゃあ総悟は、盗みなどしていなかったということ――」 九右衛門は店先に立つとお亀を見ると、はげしく狼狽した。 「松五郎を呼べ。話を聞く」 言いつけられた丁稚は頷いて、見世を飛び出した。そのとき丁稚とぶつかり、よろめいたをお亀が支えた。大丈夫ですかとお亀が声を掛けると、お夏が呟いた。 「松五郎よ。全部あの男がいけないの、あいつがいたから……そうよ、あんなやつ初めからいなければ」 はお亀の頭から簪を引き抜くと、お亀を振り払おうともがいた。 「松五郎、殺してやる……」 「おやめくださいさん!誰か、誰か手を貸して!」 お亀が叫ぶと、奉公人たちは慌てて駆け寄り、腕を振り上げるを押さえた。わめく妹の姿を、九右衛門は蒼白になって見世の中から見ている。 簪を取り上げられたは、とつぜん暴れるのを止めて、店内に目を留めた。 「ああ、総悟さん」 ぼんやりとした声で、九右衛門の隣をじっと見つめたまま言った。途端に九右衛門は驚いて後ずさりした。 「あそこに居るのは総悟さん?離してお亀、総悟さんよ、総悟さん」 皆がの指す方を見たが、そこには誰もいない。 「ほら、ほらあのお姿。総悟さん、総悟さん」 そう言って微笑むに誰もが恐れをなして離れていったが、お亀だけはの腕をしっかりと掴んだまま離さなかった。 「誰もいません。さん、総悟さんはもういないんです」 言うと、はお亀を見た。そうして悲しそうに笑んだの目にはもう、狂った色は見られなかった。 それからも、は総悟の塚へ通いつづけた。総悟の死から百か日、はお亀を連れ、花をたずさえて塚へと歩いていた。蝉時雨の中、坂道をのぼっていると突然、が花を放って走り出したのだ。 「生きていても仕方がない。ねえ、そうでしょう。総悟さんは一人でさびしいでしょう。あんたは私がいないとだめだから」 塚へ着くと口早にそう言って、隠し持っていた守り脇差を抜いた。 「私も行くから」 意を決して刀を喉に突き立てようとしたとき、「おやめください!」という叫び声がした。一瞬の隙を見てお亀が脇差を払い落とし、そのままの頬を叩いた。 「目を覚ましてください!今自害なさったとて、なんの意味もございません」 お亀が肩を掴み、を揺すりながら言った。そうして一筋の涙をこぼした。 「総悟さんは最期まで命乞いをしていました。でもそれは、死をおそれてのことではありません。さんにもう一度、会うためです」 お亀の頬はみるみる内に涙で濡れる。そうしての顔を総悟の塚へ向かせた。 「総悟さんが惜しかった命、あなたはそうも簡単に投げ捨てるんですか」 の視界は霞み、涙がこぼれ、嗚咽がもれた。 「あなたは生きていなくてはいけないのです」 胸がつぶれそうなほどに泣いた。それは悲しみではなく、総悟への申し訳なさと、恋しさと、感謝がいりまじった涙だった。 「そのお気持ちが本心からのものでしたら、髪をお剃りになり、今後もずっと亡き人をお弔いになってこそ、総悟さんも浮かばれることでしょう。私もともに出家しますから……」 お亀を見ると、もう泣いてはいなかった。しっかりとした目でを見据えている。 さきほどが放り出した花はお亀が拾い集めていた。それを塚の前に置いたお亀に、は言う。 「お亀、ありがとう」 袖で涙を拭い、息を大きく吸い、深くはいた。 「わかりました。お亀の言葉に、従います」 夏の花々が美しく塚を彩るのを充分に目に映すと、はその場を去った。 塚の前の花々が風にゆれた。遠ざかっていくお夏の背を、蝉時雨が見送る。 ―完― (2010.1.7) メッセージを送る |