3. 流暢性、ありき
夜の病院は薄暗く、陰気なにおいがする。
彼は病院の匂いが苦手だった。子どもの頃に耳の手術をしたことがあり、そのときに耳の中に注射を打たれると聞いて恐ろしくて暴れまわった、あの時の恐怖を今も思い出すからだ。胃の腑をそっと撫でられるような、そんな心地をずっと味わっている。
祖母が倒れて入院してから、今度は関西の都市部で働いている姉が倒れて意識が戻らないと連絡があった。祖母は高齢なので仕方のないことなのかもしれないが、姉は数か月前から「忙しい」の一点張りで連絡が取れていなかったため、両親は大慌てで姉の元へ出かけていった。彼はこちらに残り、祖母の面倒を見るようにとの指令が下ったため、祖母の容体が思わしくないという連絡を受けて、夜の病院の待合で呆けている。
人気のない待合は、よくない記憶を呼ぶのには十分だった。姉の容態を知らせてきた母は涙声で、途中から父に代わった。「お姉ちゃんなら大丈夫だ」という父の言葉は薄っぺらで、自分にも容易に嘘だと見抜けるものだった。
実際そのときの彼は知りようはなかったが、父と母が直面していたのは怨霊『リカ』による彼の姉の体の強奪騒ぎで、『リカ』の行方が術式主の乙骨にも感知できなかったため、高専側では大変な騒ぎになっていたし、彼らの両親が娘の安否を神経をすり減らしていたのも、無理はない。
今の彼に話を戻そう。彼は幼い頃から、姉への『特別扱い』を薄っすらと嗅ぎ取っていた。彼の姉はあまり自分の意見をおおっぴらに言うタイプではなく、どちらかと言えばおっとりとしていて、周囲の意見に流されるほうだった。
自然と両親もはっきりと物を言う彼の方に構いがちであったが、彼らの祖母はどちらかと言えば、姉をよく気にしている素振りを見せた。与えられるものは全く同じものを与えられる。けれど、祖母が孫の様子を聞くときにまず姉の様子を聞く。自分の話も姉の話も嬉しそうに聞くし、どちらのことも歓待してくれる。けれど、ひとつしかない目線は姉を追っている。そういう扱いの差を、彼は幼い子どもの頃から薄々と感じ取っていた。
反抗期と呼ばれる時期には、それがとてつもなく気に入らないことに思えて、おどおどした様子の姉に当たったことも幾度かある。最近ではそういった姉の態度に苛立ちを覚えることも減ったが、大学入学の前に姉だけが数か月間祖母の家で生活していたことは、今でも彼の胸に飲み下せないしこりとして、残っている。
それだというのに、祖母の危篤に立ち会っているのは、自分なのだ。姉でなくて申し訳ないという気持ちと、ざまあみろという嘲りが喉元をついて、吐きそうだ。
あの優しい祖母はもう、死んでしまうのだろうか。待合から少し離れた先、祖母が連れていかれたドアの向こうの様子は何も、伺い知れない。姉はどうなったのだろうか、何か怪我をしたのか病気なのか、……それとも。
近しい人間が死ぬかもしれないというときに、大抵の人間は祈ることしかできない。祈りの価値は形にならない。彼は今それを、心から痛感している。
乙骨は彼女を背負って森の中を駆けた。時折飛んでくる呪力の塊が彼女に当たらないように祓い、肉薄しようと駆け出すがそれをよりも早く、呪霊が姿を消す。
特級過呪怨霊『棺那比』は、山岳信仰と災害への畏怖から生まれた地域固有の呪霊だ。一つの地域内での山への信仰と畏怖を形にした呪霊のため、地域内では絶大な呪力を発揮するが、地域外では威力はよくて一級ほどに低下するという縛りを持った呪霊だ。羂索が目を付けなかったのも、その辺りの縛りがあったから興味が薄かったのだろう。――しかし、だ。
今まで行ってきた解析と、現状が全く一致しない。実は『リカ』に襲撃される前に様子を見に行った一キロ先の『隣家』の父親は、この呪霊に呪われていた。諸事情から完全に祓うことはできず、父親から引き剥がした程度だが、数時間前の呪霊には、こんな力はなかった。しかし今、彼女の体を奪った『棺那比』は乙骨の攻撃を交わし、呪力の上下が激しいため位置探知さえ容易ではない。体の持ち主である彼女が側にいるため、どうにかなっている程度の状況だ。
――カァン、カァン。
骨を割るような、軽い音が幾度も響く。次の瞬間に鋭く尖った骨がこちらへ飛んでくる。それを横っ飛びに飛んで避けながら、乙骨は背中の彼女に聞いた。
「なぜあの呪霊があんなにも強いのか、わかりますか?」
「いえあの、初めてみたのでなんとも……。おばあちゃんはあの社の『棺那比』様は山の神様で、怖い神様だとしか」
予想通りの返答に内心舌打ちをし、そのまま枝を蹴って別の枝へ移動した。彼女の魂を背中に抱えている以上、抜刀はできない。しかし抜刀のために彼女を手放してしまえば、乙骨が感知できない隙に呪霊は彼女の魂まで食らうだろう。
そもそも、彼女の体の術式は正エネルギーで飽和していたはずだ。いくら精神的肉体的に追い込まれてそれが薄らいでいたとしても、その体に入り込めてあの呪霊が無事なのは、どういったことか。……まさか、
「『リカ』か……?」
答えに思い至って、思わず樹上で立ち止まる。すぐに骨の弾丸が振って来て、飛んで避けた。
そういうことなら納得がいく。『リカ』の呪力は彼女の呪力と相反して打ち消されるため、『リカ』自身は動けないだろうというのが高専側の計算だった。しかし考えに反して『リカ』は動くことができ、またその『リカ』が入った後の体でも『棺那比』が自由に行動できている。
彼女たちの系譜の術式は正の出力ではなかったのか? 背後の彼女は不安げな顔つきだ。しかし彼女たちの出力エネルギーが通常の反転術式と同軸の『正』だったことは確認済みだ。乙骨自身もコンビニで彼女に接触しながら、何度も確認した。
考えていても埒が明かない。一度で仕留めるべきだ。乙骨は樹上の影に彼女を下ろした。彼女に強い自覚はないが、現在の彼女は魂のみの状態だ。樹上から落ちたとしても、肉体と同様にはならない。
「聞いてください、今のあなたは魂の状態です。あなたは木の上から落ちても死にませんし、あの骨の弾丸はあなたが呪力を放出すれば当たらないでしょう」
「え?」
「僕は一度アレを捕まえに行きます。あなたはここにいてください。……『リカ』」
呼び出した『リカ』には既に管理権限が戻っている。申し訳なさそうな顔をする『リカ』の額を撫でて、その額に額を合わせる。
「彼女を守って、……できるよね、『リカ』」
「うん、憂太、う"ん、リカがんばる、憂太ぁ」
「うん大好きだよ、リカ」
リカも、という叫び声を背後に駆け出す。『リカ』が再度乙骨のコントロールから外れないかどうかは、『なぜ外れたか』がわかるまでは不確定要素ではある。が、しかし、今は彼女の体、術式に何か秘密があるという勘、予測に乗るしかなかった。
呪霊に向かって駆け出し、刀を抜く。彼女の体は呪霊に奪われて一時間近く経とうとしている。早く取り戻さなければ、呪力に犯されて魂を肉体へ戻すことができなくなってしまう。
脳裏に春先の風の匂いが香った。そんなのは、嫌だ。刀を上段に構え、『彼女』の姿をした呪霊に向かってその刀を、呪力を叩き込んだ。
どぉん、と地を震わすような振動がした。いつか公園で見た、乙骨の背後で浮いていた『リカ』という呪霊――乙骨は『術式』と呼んでいた――は、じっと主人の駆けていった方を見ている。彼女はなんとなく後ろめたく思って、『リカ』から目線を逸らした。
「『リカ』、お前のこと、嫌い」
「え?」
「憂太のこと盗った、きらい」
「彼が私を助けたから?」
「盗ったもん!! 嫌い!! きらい、だいっきらい!!!!」
口の上、目があるらしき亀裂からぼたぼたと涙のような液体が垂れてくる。『リカ』の口調や話す内容に何か既視感があると思っていたが、思い至った。小学生ほどの女の子だ。大好きなお兄さんを取られたと泣く少女に、この『リカ』の口調は似ている。
「違うよ、彼は、乙骨さんは、今だけ私を助けてくれただけで、何も……」
「盗ったもん、うわぁぁあああああ!!!!」
大泣きし始めた『リカ』の声に、『棺那比』が反応してやって来てしまわないかびくびくしたが、大丈夫そうだった。確か入っていたはずと思いながらポケットからハンカチを取り出し、リカの溢れる涙を拭う。涙の量があまりに多いのでハンカチはびしょびしょになってしまったが、『リカ』はそうされることで更に地団駄を踏むように暴れた。木がわしわしと揺れて、体が宙に浮く。乙骨は魂の状態だから死ぬことはないと言ったが、全く信用できなかった。駄目だ、地面に落ちる。そう思って落ちていく先の地面を振り向くと、そこにはなぜか、いつも湖畔で会うあの子どもがいた。
だめだ、落ちたら、彼が死んでしまう。
乙骨は今の自分は魂だと言った。それなら浮くことだって可能だろう。浮け、浮け、今浮かなくてどうする、浮け!!
念じていると、いつまで経っても地面に叩きつけられるような衝撃はなかった。見れば子どもは大きな目をますます見開いて大きくしており、どうも視野的に、彼女は中空に浮いているようだった。
『お姉ちゃん、やっぱり、幽霊だったんだ!!』
『そうみたい……』
子どもも始めから自分を幽霊だとわかっていたのか、といつまでも気づかなかった自身に呆れながら、もう少し地面に近いところまで降りていく。上からは『リカ』も不承不承といった様子で降りてきて、子どもを大いに驚かせた。が、『リカ』の姿にも驚くばかりで怖がる様子もないので、この子どもは随分胆力があるように思う。
『どうしてこんな時間に、こんなところに?』
『あのお兄ちゃんが来てから父さんが目を覚ましたんだ、きっとお姉ちゃんの知り合いなんだと思って、お礼が言いたくて……』
彼の父親の様子がおかしいという話をしてから、やはり乙骨はその様子を見に行っていたのだろう。子どもは興奮して目を輝かせていたが、瞬間響いた轟音に、びくりと肩を竦ませる。
『お兄ちゃんは今ちょっと忙しいから、君は家に……』
そこまで言いかけた時に、『リカ』が唸って二人の頭上に踊り出る。頭上から落ちてきたのは、大きな岩だった。『リカ』がその岩を受け止めて、横へ投げ捨てた。『棺那比』が近くまで来ているようだが、乙骨の姿はない。まさか。じっとりとした汗が背中を伝った。カァン、カァン。あの骨を割る甲高い音がまた近くで響く。『リカ』は彼女を抱えて後方へ飛んだ。
「待って『リカ』さん、あの子が……」
「『リカ』に命令しないで!!」
取り残された子どもの元に、女が舞い降りる。彼女と全く同じ姿、同じ顔、同じ身長。しかし背後には黒い靄を纏い、女は子どもを見てにやりと笑った。
「おい娘。その魂、我に食らわせるならこの餓鬼は生かしても、いいぞ」
乙骨はどうしたのだろう。まさか何かあったのか、それなら『リカ』は? 『リカ』には乙骨の死はわからない? でも彼女は取り乱していない……。数秒で目まぐるしく思考が回転し、状況打破の方法を検索しようとする。が、見つからない。
無為な時間だけが、過ぎていく。
その頃乙骨は、自身の頭上から落とされた岩の下から抜け出すのに、難儀していた。呪力で練った岩で押し潰されることはないため、割ってしまえばいいのだが異常に硬い。『リカ』がいればもっと楽だったろうが、こちらへ呼び出すわけにもいかない。姿の見えない『棺那比』は十中八九、彼女のところだろう。頭上に術式が展開されているため、ひとつ岩を割れば間髪入れずに二、三の岩が落ちてくる。岩を往なしながら頭上の術式を破壊する必要があったが、即死しない程度でも動きを止めることに特化した術式のため、抜け出す間に次の岩が降ってきて術式を破壊できない。
乙骨は一呼吸をすると、体内の呪力を刀へと練り上げ、岩ごと術式にぶつけた。『リカ』のコントロールを失っている期間があったため、『リカ』内の呪力ストックも少々心許ない。呪力はできる限り残しておきたかったが、仕方がない。だっと駆け出す。少し先では『リカ』が呪霊と対峙しており、彼女の魂もまだその傍らにあった。
――これはもう、どうしようもならない。祓ってしまわなければならない。
自身の信仰の厚い地区、地域から離れた現在の『棺那比』は特級ではない。かつ、あの呪霊を祓うだけなら、特級の状態であろうと高専としては祓えないわけではなかった。それをここまで野放しにしていたのは、あの土地がもともとの忌地だったことに依る。
忌地だった故、災害が多く呪霊が溜まりやすく、そして山岳信仰と畏怖が積み重なってこの呪霊が生まれた。現在はこの呪霊と彼女の系譜の者が管理していたため、災害も呪霊発生も少なかった。そのため、高専は呪霊を祓うことよりも現状維持を選択した。呪具の継承を彼女の祖母と、彼女へ望んだのだ。
しかし、あの呪霊は彼女の肉体に入り込んでしまった。今の乙骨にとって、封じるには『時間』という部分での手数が足りない。早くしなければ、彼女の体が汚染されてしまう。また、時間経過とともに呪霊の力が増していることも気にかかっていた。あの呪霊の持つ術式に、時間経過での呪力増幅があるのだろうか。それとも。
彼女が湖畔で会っていた、隣家の子どもがなぜかここにいる。彼女の体に入り込んだ呪霊は子どもを捉え、子どもは頭を半分ほど靄に食われて虚ろな目をしている。あの子どもは明らかに呪力への耐性がない。早く祓わなければ、手遅れになる。刀を構えたとき、しかし呪霊がこちらに気づいて子どもを盾のように掲げた。
「『リカ』!!」
「あい」
『リカ』を呼び寄せ、跳躍する。肉薄し一瞬で決めるつもりだったが、カァン、と音がした。あの岩の術式を彼女の魂の頭上で展開したのだ。「ちっ」 舌打ちをして、練っていた呪力をそちらへ投げつける。砕ける岩の下で頭を抱えた彼女を抱きかかえ、振ってくる岩を払うと、乙骨は彼女を覗き込んだ。
「あの呪霊を祓います」
「え?」
祓えるのか、という疑問の顔を彼女はした。こちらの細かい事情を説明している時間はないため、指輪に呪力を流して『リカ』と接続を始める。高出力の呪力で術式ごと吹き飛ばし、すぐに子どもを回収して反転術式を流す。子どもへ脳障害が残る前に祓いきるには、それしかないだろう。呪霊に向かって指を翳し、呪力を収束させる。それを知覚したあの呪霊は、彼女のガワは、笑った。
「領域展開『逢魔藪不知』」
正直なところ、この土地でこのレベルの呪霊が領域を展開することは『ない』。乙骨はそう思っていた。収束させた呪力を散らすこともできず、彼女の魂の守りを固めることもできなかった。
彼女の体の中の呪霊は領域へ取り込まれた乙骨を見てにんまりと笑い、闇の奥へ消えていく。立ち現れたのは、深い森、山岳だった。周囲には『リカ』も彼女の姿もない。この山の中から鎮守の祠を見つけ、内部の神体を破壊すること。それが領域から脱出する条件だと、術式の開示があった。次の瞬間、乙骨は『リカ』から受け取った呪力をそのまま練り上げ、山へ向かって放った。
指先から放たれた呪力の弾丸は山肌へぶち当たり、土砂崩れを起こす。乙骨は追って二度、三度と同じように呪力を放った。実際に、この呪霊の領域から最速で脱出するための、最善に近い方法であった。それでも。
呪霊が、彼女の魂を食らうには、その一瞬で十分に事足りたのだ。
がらがらと土砂と共に崩れる呪霊の領域から走り出て、地面に倒れ伏す子どもと、彼女の体に駆け寄る。彼女の魂の気配は、もはやこの体の中だった。子どもの方へ手をかざし、反転術式を展開する。それと同時に、彼女の体を持ち上げ、唇をこじ開けた。
薄く開いた口の中へ、同じく反転術式を吹き込む。人工呼吸と同じ要領ではあったが、肉体の中に感じられる生命は、徐々に薄くなる一方だった。
「領域展開『逢魔藪不知』」
女が呟いた瞬間に黒い水の塊のようなものが現れ、乙骨と『リカ』を包み込んだ。乙骨は慌てた様子でこちらを見たが、指先までがつぷん、と飲み込まれる。彼女には何が起こったのか全く理解できず、呆然として女の姿を見るしかできなかった。
「ようやく」
自身の体を乗っ取った『棺那比』は緩慢な動作でこちらを振り向く。ああ、駄目だ。それが振り返るのを見ながら、彼女は思った。これは、詰みだ。こちらを振り向いたそれは、女は、笑っていた。とても自身と同じ顔をしているとは思えない、艶やかな笑みだった。
「我のモノになる」
体の背後に浮き出た黒い陰が、『棺那比』が、大きく口を開ける。その口の中に飲み込まれるまで、彼女は目を閉じることができなかった。つぷん、と乙骨が飲まれたときと同じ、水気の音がした。
闇の中。目を開くと、闇の中であった。
ぼやぼやと考えてから、あの黒い陰に飲まれたことを思いだす。ここは死後の世界か? それにしては、自身の輪郭がはっきりしているように思う。首をめぐらすと、少し先に針の先のような小さな点が見えた。そちらへ足を踏み出す。一歩、二歩、三歩。目の前へ広がったのは、山の裾野とそこにある田畑。山の中から村を見る女と、視線の先の男たち。
乙骨は『棺那比』が男神だとか女神だとか、そういう類の話はしなかったが、山の神様というのであれば自然と女神なのだろう。彼女は幼い頃からそう思っていた。山から男たちを見る女は微笑んで、男たちを自分の山の裾野へ引き入れる。それが何度か続いて、一人の尼がやって来た。尼は何かの力を使い、山へ男を誘う女神の頭を押さえつけてその上に座り込み、深々と煙管を吸った。尼の力に押さえつけられた女神は煙に巻かれ、それから男を山へ誘うことができなくなった。
これは女が、『棺那比』が見せているものだ。取り込んだ彼女に対してわざわざ見せている。それを悟って、彼女はぞっと背筋を震わせた。背後の闇はもうなく、生い茂った木々とぐにゃぐにゃと上下する傾斜がある。山へ取り込まれたのだ。
自覚した瞬間には走り出したつもりだった。
けれど実際は、山は、山の中にいる時点で彼女は女の手の中だ。走って逃げる彼女を、女が追いかけてくる。わかっている、逃がされていて、狩られる兎のようにせいぜい楽しませろと、女がせせら笑っている。足を踏み外して、小さな崖の下に落ちた。かわいそう、なんて白々しい女の言葉が降ってくる。ぜいぜいと息が上がる。こわい、こわい、こわい。
山に終わりはなく、どこまでも続いている。崖の上からこちらを見ている女は、にんまりと笑っていた。彼女と同じガワを象った体が、異形の形に膨れて、みきり、みちり、と音を立てて軋んでいく。
むちゅり、と肉の弾ける音がして、肩の辺りの皮膚が裂けた。そこを突き破って三本目、四本目と腕が生えてくる。むちゅ、ぐちゅ、にち、ごり。自身と同じ形の体が破壊されていく。女に犯されて、侵されていく。
幾本も生えた腕がゆらゆらと揺れながら伸びてくる。ぴくりとも動くことができなかった。腕は彼女の頬を撫でる。皮膚を裂いて生まれた腕は、赤い血でしとどに汚れていた。血錆の匂いだ、と恐怖でぼやけた脳が知覚する。
「ねえ」
女の声音は自分と同じものに聞こえる。きっと女の頭を押さえつけていた尼の後継が彼女なのだ。だから女は、『棺那比』は彼女を犯して侵して冒して殺しつくしてしまいたい。彼女が怯えて震えて、無様に命乞いをして泣いて懇願する姿を『棺那比』はただ、見たいのだ。
異形の腕が、指先がねっとりと頬を撫でる。鋭く尖った爪先が頬の皮膚の先をなぞる。一度、二度、三度。爪先は皮膚を突き破って、鮮血が湧き出たその痕を更になぞる。四度、五度、六度。
「あ、ひ、」
「あら、痛い?」
「ひ、やめ、……」
「ふふ、やぁだ」
『棺那比』はにんまりと笑って、噴き出た血の中に指を突き入れた。耳の近くでぶちゅ、だとか、ぶち、だとか何かが断線する、ねじ切る音。頬を突き破った爪がカツンと歯に当たって、硬質な音を立てる。
懇願の言葉は出なかった。けれど震えて『棺那比』を見た彼女を、女は恍惚として嘲った。笑いながら突き刺した指を引き抜く。激痛に崩れた彼女の髪を、白い手が掴んで顔を上げさせた。
「乙骨というあの人間、とてもおいしそうね」
同じ姿をした女は嗜虐的な笑みで彼女を覗き込む。口の中に溢れる血が喉を押して、吐き気がこみ上げる。喋ることはできなかった。
「現代の人間はどれも細っこくて食べでがないと思っていたけれど、あの男は違う。とてもおいしそう。
……一緒になったら、一緒に食べようね。お前だって、きれいな男を食べたいだろう? あれを恐怖と怒りで踏みにじって、ずたずたにして、私の足に縋って懇願するのを踏みつけて、足の指に口づけをさせよう。きっと震えるほど、下腹が濡れるだろう、ナァ?」
女はにんまりと笑った。下劣だ、と彼女は思った。下卑た想像をする人間は男でも女でも、驚くほど醜悪な顔をする。自分と同じ顔がその驚くほどの醜悪さを見せてくることに、自分だけでは飽き足らず乙骨までも嬲り者にしようとする好色さに、吐き気がした。
「なんだその顔は! 悔しいか、悔しいかえ? アッハッハッハ、ああ愉快、愉快」
違う、悔しさではない、苦しみでもない。これは違う、これは、紛れもなく、怒りだ。
ぎゅっと拳を握る。自分でも知りえなかったほど、腹の底から怒りが湧いてくる。みんな自分勝手だ。あの尼と自分は別人だし、悔しいだとか彼女も乙骨へ懸想しているような口ぶりで『棺那比』は話す。けれどこの女にしろリカにしろ、乙骨が自分のものだとかやらないだとか盗っただとか、言いがかりにもほどがないだろうか。彼女は乙骨を盗るつもりも欲しいとも言っていない。それは確かに顔のいい男だと思うが、あれは駄目女製造機なのではないか? 気が利きすぎる上、こちらを最優先しすぎるきらいがある。あんなのは絶対、付き合ったら最後、他の男とは付き合えなくなるタイプの『駄目な男』だ。
それを先ほどからリカも、この女もけらけら、きゃらきゃらと煩い。だからなんだと言うのだ、乙骨が欲しい? 知らない、一人でさっさと口説きに行けよ、私の体は関係がない。怒りに溢れたまま、頬から流れる血を拭った拳を握る。今だに笑い続ける女に、足を踏みだす。きゃらきゃらと笑っていた女はようやく彼女の様子に気づき、ぎょっと表情を変えた。慌ててこちらへ手を伸ばして掴みかかろうとしてくるが、もう遅い。逆にその手を払うと、じゅっと肉の焼ける匂いがした。ぼとりと落ちた腕を踏みつけて、女の胸元に掴みかかった。
何かよくわからないが、人生の中で一番と言っていいほど、今、腹が立っていた。自分の体と同じ顔だろうがなんだろうが、関係ない。女の胸倉をつかんで頬を張る。じゅっと女の頬が焼け、ピンク色の肉があらわになる。女は一瞬呆然としたが、俄然と表情を怒らせて同じようにこちらの頬を張ってきた。頬の傷に当たり頭蓋が響くように痛むが、それよりも身の内の怒りが勝った。
乙骨がどうだとか、もはやどうでもよかった。彼女は、この女をとっちめ、殺しつくしてやらなければならない。その義憤と欺瞞、そして乙骨に殺されてから感じていた抑圧された恐怖と不安や不満、ついでに数か月間の多忙に寄るストレス過多。そういったものをごちゃ混ぜにした感情にかられ、腕を振り上げる。女も彼女も一歩も引かなかったものだから、髪は乱れて唇は切れて血が飛び散り、そこそこに凄惨な有様だった。
さて。
ここで『棺那比』と彼女の領域に部外者ながら飛び込んでいた『リカ』は、なんとなく手を出しあぐねていた。現在の『リカ』は術式内の根幹となった『折本里香』の残滓が強化されている。これは彼女の体に刻まれた術式によるもので、またその縁があったせいでこの二人の醜い争いの場に巻き込まれることなってしまった。
『リカ』としては彼女だろうが呪霊だろうが、憂太に近づくものはすべて敵である。目の前で醜い争いを繰り広げている二人に割って入ってもいいという気持ちはあった。これは要するに、彼女の体についての主導権争いだ。だから万一『リカ』が勝てば、この体は『リカ』のものになる。里香の意識の中には再度の受肉を望む声がないわけではない。ただ『リカ』を押しとどめるものは、きっと憂太はそれを望まないのだろう。その感情で感覚だった。
彼女が女に掴みかかって、がむしゃらに拳を何度もぶつける。それを受けて女は彼女の腕に嚙みついた。幼稚で醜い争いで、『折本里香』がそこに紛れ込むのは容易い。しかし『リカ』として、気乗りしない、手を出しあぐねている。リカ内部の『折本里香』は地団駄を踏むように暴れている。
でもね。ああ、ほら、やっぱり。
満身創痍の彼女にちらちらと呪力の流れが生じ始める。彼女の呪力ではない、彼女に呪力はない。あれは憂太が吹き込んだ呪力だ。
彼女は何が何だか理解していないが、ちらちらと降る呪力を纏って、血まみれの傷が癒えていく。痛みが薄らいだ隙に、彼女は女に向かって拳を握った。乙骨の呪力に後押しされて力を取り戻した彼女に、女はぎょっとした顔をして、慌てて逃げ出そうとした。もはや、退屈な諍いだった。『リカ』はもう興味を無くして明後日のほうを見ている。彼女が起きるときに、一緒に上がっていかなければこの内部領域に取り残されてしまう。憂太に早く会いたい、よく頑張ったねいい子だねって褒めてもらうんだから。憂太、だいすき。
「いい、加減に、観念してください!」
握り込んだ拳を女の横っ面に叩き込む。弟が昔、人を殴るときは親指を握り込んでいるとそれが折れてしまう、と言っていたことをふと思い出す。殴られた女は後ろへ倒れ込んで、彼女はその上に馬乗りになって数度手のひらでその頬を打った。どこかのタイミングで非常に体が軽くなり、女を打つ力が増したように思う。馬乗りになって数度打つと女は「ひどい、やめてぇ、ひどい、」と哀れっぽく泣いてこちらを睨むので、なんだかこちらが悪いことをしている気分になる。
仕方ない、少しどいてやろうかと力を弱めた途端に、また女がこちらへ向かって腕を突き出し目を潰そうとする。その手を押さえて、深々を息を吐いた。
「観念しろって、言いました」
「う、うう"う"~~」
女は唸り声をあげ、こちらを睨む。地面の砂を握ってこちらへ投げつけてくるが、風に砂は風に攫われて消えた。多分、そういうことなのだろう。先ほど見た回想で尼がこの女の首根っこを摑まえてその上で煙管をふかしていたように、彼女はこの女を捕まえてもう悪さをしないように見ていなければならない。
女は押さえつけられたまま、じたばたと藻掻いている。今は何か外部からの供給があるからいいが、再度均衡状態になればまたこの女は暴れ始める。この女の首根っこを掴んでいた尼の残滓も弱くなっていることがわかった。女が千年近く掛けて暴れ続けたからだ。
「あなた、私と来る?」
彼女は呆れを込めて女を見た。好色で、おそらく傅く男がいないと楽しくないと平気で言うタイプの女。男が、他人が自分に尽くすことに何の疑いも衒いもない女。他人を嗜虐して嬲り殺して遊ぶのが何よりも好きな女。自分とはあまり似ていないの性質の女だったが、涙塗れの顔でこちらを睨んでくる様は、なんとなく憎めない。
「誰が、!」
女がこちらに唾を吐きかける。「そう」 彼女は小さく返事をして、指先を女の喉元へ当てた。自分の指先の輪郭が溶け、女を包み込み始める。「ひ、ぃ、なんだ、やめろ! ヤメロ!!」 女は馬乗りで押さえつけられたまま、恐慌して藻掻いた。
「あなた、いつまでも暴れるから。尼の封印も壊れかけているので、きっと持って一代か二代。ならばここで、取り込んでしまったほうが、良い」
「なにを、おまえ、何をぉ、ぉ」
「乙骨さんのいう呪術とか、よくわからないけれど。
多分あなたを取り込んでしまうことは、私はできる。おばあちゃんも、あなたの面倒を見て一生を過ごした。私の先に生まれてくる子どもたちに、あなたはもういらない」
女が藻掻く。爪で彼女をひっかき、足を蹴り上げる。それでも彼女の優位性は変わらず、女は小さな小さな飴玉になった。それを摘まみ上げて、あ、と口を開ける。「やめてぇぇ、」 小さな飴玉からは悲鳴が聞こえたが、彼女は気にも留めず、その飴玉をガリガリと噛んで砕き、飲み下した。どぶの底をこそげたような、クソのような甘い味がした。
「、さん、起きて!」
意識が浮上する、浮き上がる感覚。ふ、と瞼を開けてみると、乙骨がこちらを覗き込んでいた。目を開けた自分を認めて、乙骨がほっとした表情をする。ぼやぼやとしていると、乙骨が身を屈めて息を吹き込んできた。そうか、先ほど女と乱闘していたときに急に体が軽くなったのは、乙骨のおかげなのか。口から直接吹き込まれるものに、ぼんやりと彼を見る。
「体は大丈夫ですか? あの呪霊は、なぜ……」
女がどうして、彼女の中に取り込まれた状態なのが不思議なのだろう。彼女は少し笑って、食べちゃいました、と呟いた。乙骨が吹き込んだものが体の中を渦巻いている今、押さえ込んだ女がこちらへ出てくる気配はない。ずっとこのまま女を押さえ込んでいれば、女の自我も薄れていくだろうこともわかった。
「みんな、乙骨さんを寄越せとか盗ったとか、煩いから、あれは食べてしまったんです。すごく、まずかった」
「はあ……」
釈然としない顔を乙骨はしている。あの女に使われて森を走り回った体は悲鳴を上げていて、節々も筋肉も既に痛み始めている。もうひと眠りしよう。そう思って瞼を閉じかけると、慌てた様子の乙骨が再度彼女を呼んだ。「さん、ちょっと、待って!」 その声に応えることはできず、意識は沈んでいく。乙骨に抱えられている、背中に回る手のひらが熱くて、心地よく眠れそうだった。
「おやすみなさい」