第五話 心残り
陽は、まだあると思っていた。けれどそれを一掃するかのように、夜はすとんと落ちてきた。
その晩はなかなか寝付けず、縁側に出て夜空を見上げながら、煉獄さんを想った。
――汽車へ乗って、どこへ行くんだろう。
前に煉獄さんは、陽が落ちたころから夜明けまで働き詰めだと話していた。この月の下で、煉獄さんは今ごろ、何をしているんだろう。汽車に乗っている間だけでも、ゆっくりと休めていればいいな。
分厚い雲に覆われ、月は姿を隠してしまった。途端にあたりは闇に包まれる。
もう一度、月が現れるまで。そう思って空を見上げ続けたが、雲はなかなか途切れず、月は一向に姿を見せない。
あたたかい風が頬を撫でるようにして吹いた。何度も触れた煉獄さんのぬくもりを思い起こし、目を閉じる。
どうしようもないほどの想いが募り募っているということには、気づいていた。誰かを恋い慕う日が来るなんて想像もしていなかった。
胸に手を当ててみる。煉獄さんのことを考えるだけで、鼓動が速くなる。まだ数える程度しか会ったことはない。けれど落ちるのは、こんなにも一瞬なんだ。
もう一度、風が吹いた。やさしく、あたたかな風。途端に心地良い眠気が襲い、私は部屋へと戻るのだった。
障子の隙間から差し込む朝陽に目を覚ます。空にはまだ紺色が混じっていたが、夜明けはもうそこにあった。
ふと気配を感じ、上体を起こして部屋の隅を見やる。朝の光が届かない、ほのかに暗いその場所で、影が揺れている。
「……煉獄、さん?」
そうでないことを願った。
それでも、こちらへ一歩踏み出したのはやはり、
「煉獄さん」
黒の隊服に、炎のような羽織。駅で別れたときと同じ格好で、腕を組んで立っていた。違うのは、その姿形がおぼろげであるということと、そこにはもう――。
「逝ってしまわれたんですね」
「君には死んだ後も会えると、どこかで安心している自分がいた」
煉獄さんは自らの最期をひとしきり話し終えた後、そう言った。
二人で縁側に腰掛け、庭を見据えながら言う煉獄さんの隣で、私はうつむいた。
「君が目を潰したいと思うほど手放したかったその能力を、こうやって利用するような形になってしまったこと、申し訳なく思う」
いつだって生命力にあふれていた煉獄さんは、死とはかけ離れた人だと思っていた。けれどそれは、全くの思い違いだった。彼は毎夜、死がうごめく闇の中で、命を賭して刀を振るっていた。
なぜ私は、自分だけが生と死の間に立っていると思っていたんだろう。何もせず、ただ視ていただけなのに。煉獄さんはその間もずっと、境界線の上を身一つで走り続けていたのに。
「心残りがあって、こうして君のもとへ来てしまった」
顔を上げ、煉獄さんの方を見る。昇ったばかりの陽を浴びても、もう以前のような輝きを放つことはない。霞をまとっているようかのようだ。
直視できなくて、したくなくて、私は再びうつむく。
「約束をしていたな。煉獄家へ連れて行くと」
こみ上げてくるものを抑えようとすると、眉根がぎゅっと寄ってしまうのを自覚した。皺ができているぞ。煉獄さんはそう言って、眉間に指を当ててくれたっけ。
「千寿郎から読み書きを教えてもらえるように、と」
「……そうでしたね」
私は自分の眉間に指を当てがい、皺を伸ばすように擦った。
とっさに悟ってしまった。煉獄さんの心残りは、約束を果たせなかったこと。それが叶えば、すぐにでも成仏する。してしまう。
だって煉獄さんには後悔がない。すべてを全うして逝った。弔ってくれる人も大勢いる。あの世で待っている人もいる。心残りの有無に関わらず、四十九日を迎えればきっと、煉獄さんの魂は天に昇っていく。
「ではさっそくだが――」
「野原に行きませんか?」
唐突な提案に、煉獄さんは目を丸くした。しかしすぐに「行こう」とうなずいてくれた。
煉獄家へ行けば消えてしまう。まだ、行ってほしくない。
あの日、煉獄さんが連れて来てくれた野原は、あんなにも命で輝いていた。それが今は、草花たちが魂を抜かれたように横たわる、ただの殺風景な場所になってしまっていた。それは季節のせいか、煉獄さんがもうこの世の人ではなくなったせいなのか。
おむすびを分け合ったときのように、私は木の下に腰掛けて野原を目に映していた。煉獄さんはそんな私のそばに立ち、何も言わずただ、空を見上げていた。
そうやって野原に通うことが、それから何日も続いた。煉獄さんは夜明けになると現れて、陽が沈むころには消えていく。
夜の間はどこにいるんだろう。まだ鬼を狩り続けているんですか。誰かの朝を、守ろうとしているんですか。
そんなことを訊けるわけもなく、互いに言葉も交わさず、煉獄さんは私が歩くと後をただ付いて来た。前は、私が煉獄さんの背中を追っていたのに。
歌舞伎座にも行った。中へと入っていく人々の姿に、あの日の煉獄さんと自分を重ね合わせ、手のひらを握った。みんな笑ってる。
後ろに立つ煉獄さんを見やると、腕を組み、彼もまた歌舞伎座を見つめていた。
「幕の内弁当、食べたいですか?」
煉獄さんが目を見開いたのは、私が数日ぶりに口をきいたからだろう。
しかし煉獄さんは言葉を返すことなく、少し目線を下げ、口角をきゅっと上げるだけだった。
いつものごとく、夜が来て煉獄さんがいなくなると、私は縁側で膝を抱えて、月を見上げ続けた。
あんなに時間が足りないと思っていたのに。もっと一緒に過ごしたいと願った煉獄さんが、こんなに長く傍にいるのに、私は煉獄さんに話し掛けなかったし、煉獄さんもまた、そんな私に気を遣ってか、声を掛けてくる様子はなかった。
言葉を交わせばきっと、煉獄家へ一緒に来てほしいと言うはず。終わりが来るのが怖くて、どうしようもなく怖くて、話すことができなかったのだ。
――そもそも、どうしてそれにこだわるのだろう。唯一の心残りが、私を自分の生家へ連れて行けなかったこと?
けれどそれが彼の願いならば、素直に聞いてあげるべきなんだろう。あんなにお世話になった人の望みなのに。消えてほしくないから話を聞かないなんて、とんだ性悪女だ。
手のひらを見つめた。指先がぷるぷると震えはじめる。
「……やだな。もう思い出せないや」
手からこぼれ落ちていくぬくもりの記憶。あんなに忘れまいと思っていたのに。
震える指をもう片方の手で押さえつけ、膝に顔を埋めた。
そのとき、あたたかい風が吹いた。
「――私、煉獄さんに出会って知ったんです。この世が、こんなにたくさんの色を持っているんだって。こんなにもたくさんの命であふれているんだって」
顔を上げ、左へ向ける。
「どうして死んじゃったの?」
隣に腰掛けた煉獄さんは、困ったように眉を下げた。
「今はここにいる」
そうやって差し出した手が、私の頭に触れる。
「もう、煉獄さんのぬくもりを……忘れてしまいました」
触れてもらったって、何も感じない。その手は私の体をすり抜けていくだけ。
煉獄さんは伸ばした腕を引っ込め、自らの手に視線を落とす。
「視えることがこんなにもつらいと思ったのは、初めてです」
膝を抱えたまま、つぶやくようにそう言った。
「前に誰かが話していました。火葬の前、故人の棺に花を入れる瞬間が一番こみ上げる、と。生前の思い出があふれてきて、今生の別れがもうすぐそこに迫っていることを突きつけられるようだから。……そんな瞬間が、ずっと続いているような感覚なんです。煉獄さんのその姿を見ていると、あなたの死を、まざまざと突きつけられる」
ふと、煉獄さんを見やる。彼は赤い瞳をじっとこちらへ向けていた。
そんな煉獄さんへ手を伸ばす。
「こんなに近くにいるのに、もう戻ってはこないんだって。触れ合うことはできないんだって」
ここに体があれば、肩に触れているはず。腕に、手の甲に、触れているはずだった。
再び震えはじめた指を鎮めるため、ぐっと手のひらを握り締める。
涙はまだ出ない。煉獄さんの魂が現れたあの晩から一度も、泣いてはいなかった。
「良かった。君が、抱えているものを吐き出してくれて」
煉獄さんの唇は、かすかに笑みを含んでいた。
「俺は君のぬくもりを覚えている。正確に言うと肌の記憶ではなく、君に触れたときに感じた、自分の胸の内のぬくもりを」
息が漏れる。何かがこみ上げてくる。眉根がぎゅっと寄ってしまう。
「そんなことを言われたら、どう反応していいのか分かりません」
「自由に反応してもらって構わない」
煉獄さんはそう言って、「皺ができているぞ」と手を伸ばす。煉獄さんの指先が眉間に近づいたとき、私は目を閉じた。
――ああ、本当だ。
「あったかい」
肌の記憶ではない。そのぬくもりは、確かに胸の内で覚えていた。
「」
瞼を開くと、煉獄さんが上体を少し屈め、私をまっすぐに捉えていた。
「……煉獄さんにちゃんと名前を呼んでもらったの、初めてです」
「君は初めてのことが多いな」
そうして控えめに笑い、煉獄さんは続ける。
「君は俺に、教える喜びを感じさせてくれた。初めてのものを見るたび、知るたびに感動するから、もっといろんなことを教えてあげたいと思った。だからその喜びを、今度は君が、千寿郎に教えてやってくれないか?」
「……私が、千寿郎さんに?」
「千寿郎は、自分を責める節があってな。人には人の道がある。俺は自ら望んで父の後を継いだが、千寿郎は自分もそうあらねばならぬと思い、そうできない自分を責めている。自分には、何の取り柄もないとさえ」
そう言って、煉獄さんは少し目線を下げた。けれどすぐにまた私を見据え、力強い眼差しで言葉を続ける。
「君に読み書きを教えることを通して、千寿郎には、人の役に立てる喜びを感じてほしい。そうすることで、何か道が開けるのではないかと、そう思ってな」
「……そういうことだったんですね。だから私のもとへ」
「気を悪くさせたなら申し訳ない。兄馬鹿だと罵ってくれてもいい」
「いえ、腑に落ちました」
煉獄さんは首を傾げる。
「私ごときのために、煉獄さんが思いを残すはずがないですもん」
「それは違う。ごときなんて言うな」
ぐっと眉根を寄せたその険しい表情を、私は初めて見た。しかし煉獄さんの眉間にできた皺は、すぐに消えた。
「君に残した思いは、たくさんある。けれど俺はもう死んだ。それを口にしたところで、もう覆らない」
それはまるで、自らに言い聞かせているかのようだった。
下げていた視線を戻し、煉獄さんは私の目を見据える。
「生きていく君に俺ができることはただ一つ、君と千寿郎を引き合わせることだと思った。君たちが出会うことで、互いの世界はもっと広がる。俺はそう信じている」
吸い込まれてしまいそうなほど強いその眼差しの中で、私は頭を垂れた。
そこまで言われて、断る理由なんてもう見つからなかった。
「分かりました」
もうそのときが目の前まで迫ってきている。煉獄さんに、別れを告げる準備をしなくちゃいけない。