第三話 幕の向こう
陽が登るとともに目が覚めてしまった。朝食はろくに喉を通らず、女中に訝しがられた。
髪を念入りに梳かし、手持ちの着物が地味なものばかりであることを恨めしく思いつつ、箪笥の奥底から引っ張り出した薔薇をあしらった帯を、群青色の小袖に合わせた。
縁側に座り、何度も深呼吸をする。それでも、高鳴る胸は一向におさまることを知らない。
「おはようございます! 煉獄です!」
静まりかえった空気を裂くような声が、この奥座敷まで突き抜けてきた。
慌てて玄関へ向かうと、戸の向こうに人影が浮かんでいた。煉獄さんだ。口元がゆるみそうになるのを堪えながら、
「はい、ただいま」
と言うと、「うむ!」と返ってきた。
草履に片足を入れていると、とたとたと足音が近づいてくる。振り返ると、母が怪訝な顔をしてこちらへ向かってくるところだった。
芍薬を勝手に手折ったこともあり、逃げるようにして戸に手をかけるも、「」と呼び止められてしまう。
「出かけてきます」
「――庭の芍薬」
まずい、と思った。
そうして押し黙っていると、
「見事な芍薬でした! あんなに立派なものは見たことがありません。あれはご母堂さまが?」
少し開いた戸の隙間から、煉獄さんが顔をひょっこりと覗かせていた。
母は一瞬目を丸くしたのち、うつむき加減で、つぶやくように言う。
「気に入ったなら良かった」
「とても」と笑う煉獄さんと、少し口元をほころばせる母とを交互に見たのち、
「いってきます」
と、外へ出る。そこでふと、いってきますだなんて本当に久しぶりに口にした言葉だなと思った。
煉獄さんは母へ「陽が落ちる前には戻ります」と声を掛け、戸を閉めた。
あの母をも懐柔するなんて、煉獄さんはすごいな。そう思いながら見上げると、煉獄さんは「ん?」と首を傾げた。首を振ると、煉獄さんは「そうか!」と、すたすた歩いていく。私は早足でその後を追う。
煉獄さんは先日の服装とは異なり、赤みのある深い茶色の羽織に着流し姿で、少し寛いだ印象だった。聞くと、今日は一日休みらしい。誘ってもらったお礼を言いつつ、今日はどこへ行くんですかと尋ねる。
「歌舞伎だ!」
「……えっ、歌舞伎?」
「観たことがあるか?」
「ないです」
「だろうな! だから連れて行こうと思ったんだ」
「でもそんな、いいんですか。私きっと何も分かりませんよ」
「それでいい。あれは雰囲気を楽しむものだ!」
「もっと教養のある方と一緒に観られた方が、煉獄さんも楽しいでしょう。弟さんとか……」
「千寿郎は学校がある。なかなか休みが合わなくてな」
少し曇った声でそう言うので、私はそれ以上何も言えず、唇を横一文字に結ぶ。
――本当は弟さんと観に行きたいだろうに、こんな私が代わりだなんて。なんだか申し訳ない。他に誘える人はいなかったんだろうか。
そう思っていると、額をぶつけてしまった。足を止めた煉獄さんの背中にぶつかってしまったようだった。
「よもや、つまらぬことを考えていたな?」
「――いえ別に何も」
「俺は君と観たいと思った。だから誘ったんだ」
顔だけをこちらに向けて笑った煉獄さんに、息が止まりそうになる。
「光栄です」
なんとか声を振り絞ると、煉獄さんは満足げにうなずき、再び歩き始めた。
あの人は生きてる、死んでる。そんなことを思いながら、なるべく周りを見ないようにうつむきながら歩いていた。けれど今は、前を向ける。煉獄さんの背中だけを見ていれば大丈夫。そう思えた。
「……竜宮城?」
歌舞伎座を見上げてそうこぼすと、煉獄さんは高らかに笑った。
中へ入ると、そこは人でごった返していて、とっさに煉獄さんの袖を掴む。
「怖いか?」
「いえ、あの、はぐれそうで……」
煉獄さんは「そうか」と言って、私の手を取った。
「君は小さいからな! しっかり握っておくといい」
「……はい」
熱で溶けそうだ。手に汗をかいていないだろうかと、どこか落ち着かない気持ちになる。
煉獄さんは幕間に食べようと言って、弁当屋へ向けてずいずいと進んでいく。手のぬくもりに胸を高鳴らせる私の横で、煉獄さんは幕の内弁当を指し、「とりあえず六つもらおう!」と目を輝かせるのだった。
劇場に入ると、目を見張ってしまった。舞台には黒、柿色、萌葱色の幕が下り、赤い提灯が場内をぐるりと囲む。晴れ着姿の観客が多いこともあり、そこは華やかな色であふれていた。
「すごい……」
「これからもっとすごくなる」
煉獄さんは「こっちだ」と手招きをする。そうして最前列の席に着くと、「すでに圧巻だろう」と笑った。
「これ、幕が下りる時、私たち大丈夫ですか?」
「というと?」
「幕がこっちに落ちてきませんか? 下敷きになったりとか……」
「心配無用だ! この幕は横に開く。君はおもしろいことを言うな」
ほっと胸を撫で下ろす私に、煉獄さんは弁当を一つ差し出す。
「腹は減っていないか?」
「あ、ちょっとだけ……朝まともに食べられなくて」
弁当を受け取ると、煉獄さんも自分の分を開け、「いただきます!」と手を合わせる。私もそれに倣って手を合わせ、蓋を開けた。いなり寿司、卵焼き、煮物に焼魚、蒲鉾や佃煮。何品ものおかずに、思わず声が漏れてしまう。
「あ、煉獄さん。さつまいもの甘煮も入ってますね」
「そうだな! わっしょい!」
「……わっしょい?」
首を傾げながら隣の煉獄さんを見やると、弁当はもう空になっていた。驚きで言葉を失っていると、「うまい!」と言いながら、煉獄さんはもう一箱を手に取る。この調子だと、幕が開く前に全部食べ切ってしまうのではないか。
そんなことを考えながら、私も箸を持ち、煮物を口に含む。「おいしい」とつぶやくと、煉獄さんは「だろう」と笑んだ。
「幼い頃、よく両親と一緒に能や歌舞伎を観に行ってな。特に歌舞伎へ行く日は、前の晩から目が冴えてしまったものだ。ここに来れば幕の内弁当が食べられると思ってな」
「昔から食いしん坊だったんですね」
「まあそうだな!」
「歌舞伎で好きな演目はあるんですか?」
「九代目團十郎の暫を観て心打たれた。今でもあの、腹の底から湧いてくるような“しばらく”という声を覚えている」
「煉獄さんの大きな声は、その團十郎さんの影響なんでしょうか」
「どうだろう! そもそも俺はそんなに声が大きいだろうか?」
「まあ……私が出会った中では」
「そうか!」
ははは、と笑い、いなり寿司を一口で食べては「うまい!」と唸る。
そのうちに場内の明かりが落ち、囃子が聴こえてきた。横開きにすーっと開いていった幕の向こうには、見たことのない色であふれていて、その鮮やかな世界に息を呑むしかなかった。
「夢に見そうです」
歌舞伎座を出ると、空はすっかり茜色に染まっていて、斜めに差す太陽に目を細めた。
そうして人混みから脱すると、煉獄さんはどうだったかと訊いた。
実は帰り際、劇場内で何人かの亡霊を見た。しかしそれらの影は、穏やかな顔をしてすうっと消えていった。生きている間に一度は歌舞伎を観たかった、そんな人々が来ていたのだろうか。
心残りがあるからあの世に行けず、この世をさまよっている。成仏すれば姿は消え、魂は浄化される。「そのことを改めて感じました」とはさすがに言えず、私は「夢に見そう」と答えたのだった。
実際、そう思っていた。きっと今晩の夢には、あの色鮮やかな舞台が出てくるだろう。
「目を閉じてもまだ、傘を持った菊五郎さんがすぐそこに居るような……」
「うむ! 最後の場面は圧巻だった!」
「はい。土手の淡い桜に、あの五人の青い着物がよく映えていて。目の前にずらっと並ぶから、緊張してしまいました。私、菊五郎さんと目が合ったような気がします」
「それは縁起が良いな! 俺は左團次と目が合ったように思う!」
無邪気に言う煉獄さんの横顔を見上げ、ふと思う。
もっと後ろの席だったら、舞台以外のものに気がいってしまっただろう。死者の影が気になって、きっと落ち着かなかった。だから煉獄さんは最前列の席を取ってくれたのかもしれない。
煉獄さんの、言葉にはしない一つひとつのやさしさが、もうすでにはち切れそうな胸をさらに満たす。
息をふうっと深く吐いていると、「ん?」と口角を上げた煉獄さんがこちらを見やるので、私はとっさに話題を振る。
「演目って……最後のは、なんという演目でしたっけ」
「何だっただろう」
顎に手を当て、記憶をたどるように斜め上へと視線をやる煉獄さんの隣で、私は劇場で買った筋書きを開いた。
そうして『弁天娘女男白浪』の挿絵をじっと見つめていると、煉獄さんが横から覗き込み、
「そうだ、それだ。『白浪五人男』とも呼ぶみたいだな」
「本当に圧巻でした。この筋書きも、買ってくださってありがとうございます」
「気に入ったようで良かった。しかし読みながら歩くと危ないぞ」
そう言って、煉獄さんは笑った。
「煉獄さん」
「なんだ!」
「私、ここに何が書いてあるのか読めなくて」
そうだった、というように目を少し見開く煉獄さん。
「観ていて、なんとなく話は掴めたんですけど、聞き取れない言葉も多かったから。この筋書きを読めたら、もっと理解できるかなって」
文字が読めれば、きっと世界は広がるんだろう。書ければ、今日のお礼を何十枚と記して、煉獄さんへ送れる。
「弟の千寿郎は勉学が好きでな。成績も優秀だ」
「おっしゃってましたね。自慢の弟さんだ」
「千寿郎に読み書きを教わると良い」
はたと立ち止まると、煉獄さんも足を止め、こちらを振り返った。
「……煉獄さんは教えてくれないんですか?」
「勉学なら千寿郎の方が適任だ。剣術なら、俺が教えよう」
剣術はちょっと、と言うと、煉獄さんは「だろうな!」とうなずいた。
「今度うちへ来るといい。千寿郎にも話をしておく」
煉獄さんには、すでにもういろんなことを教わっている。今日だって、知らない色を教えてくれた。
たった数カ月前まで、生と死の間でただ漂っていたのに。そんな私が今ここで、煉獄さんの隣で、息をしている。
「――約束、ですからね」
煉獄さんは大きなその目をさらに見開いた。じっと視線を向けてくるので首を傾げると、
「君が笑えるようになって良かった」
と、腕を伸ばし、私の頭に手を置いた。
――ああ、私、笑ってたんだ。
暗闇の中で見失っていた感情が、いつの間にかここにあったことに、今やっと気づいた。煉獄さんが照らしてくれた。だから、見つけられた。
「そうだな! 約束だ!」
光を放って生きる人。夕日を背景に笑う煉獄さんが、ただひたすらにまぶしかった。