第二話 変化


 野原の緑を目に映しながら、煉獄さんと私は止めどなく話をした。ほとんどが煉獄さんの家族の話で、私はそれをうなずきながら聞いた。
 弟の千寿郎さんが生まれた日のこと、お母さまが他界した日のこと、それから今日に至るまでのこと。時折、表情を曇らせながら話すので、

「つらいなら話さなくても良いんですよ」

と言った。すると、ふっと笑った煉獄さんは、こう返した。

「なぜだか君には話してしまう。不思議だ」

 煉獄さんは、鬼を狩る仕事をしていると言った。鬼と聞いても驚かなかった。家に来る相談者の中にも、身内を鬼に喰われたと話す人が大勢いたから。
 鬼は夜に動く。だから今日も陽が落ちたら出立すると言うので空を見上げると、いつの間にかそこは夕焼けに染まっていた。

「どうする。一緒に来るか?」
「――えっ?」
「冗談だ!」

 煉獄さんは高らかに笑ったが、このまま家に帰るよりも、煉獄さんについて行く方が安心できると思った。

「君をここまで連れて来たのは俺だ。責任を持って送り届ける」
「……うちの親から、ものすごく怒鳴られると思いますよ」
「もとより覚悟の上だ! それに怒鳴られるのには慣れている、俺の父もよく声を荒げるからな!」
「……それを言われると反応に困ります」
「そうか? 自由に反応してくれて構わない!」

 自由に。その言葉の意味を咀嚼していると、煉獄さんは「皺ができているぞ」と、私の眉間に指を押し当てた。

「あったかい」

 まるで息を吐くかのように、言葉があふれた。この熱はずっと忘れたくない。煉獄さんが指を離してからもなお広がり続けるぬくもりに、私は目を閉じた。



 両親は煉獄さんの気迫に押されたのか、一つも声を荒げることなく、私を責めることもなかった。
 礼儀正しく頭を下げて家を出た煉獄さん。その後を追うと、足を止めることなく顔だけをこちらに向けて言った。

「また会おう。手紙を送る」
「――あの、私、読み書きが……」

 煉獄さんは立ち止まる。
 学校に行かなかったから、という言葉は呑み込んだ。気恥ずかしい思いを抱えながら、うつむき加減で、声を振り絞る。

「でも……ひらがなは、なんとか読めます」

 上目で様子を伺うと、煉獄さんは口角をきゅっと上げて笑んでいた。

「夜は冷える。君も早く家へ入るといい。では、またな!」

 そうして煉獄さんは、瞬きする間に夜の闇へと消えていった。
 思い返せば、彼は私の話を無理やり聞き出そうとはしなかった。人の懐に入ってくるのが上手だけれど、入ったところで詮索することはなく、ただそこに居て、辺りを照らしてくれるような人。
 煉獄さんが夜の闇を駆けて行ったとき、不思議と、火の粉のようなものがちらちらと舞ったように見えた。闇すらも、彼の放つ光を覆いきることはできないんだ。



 それからは、「また会おう」という言葉を頭の中で反芻しながら過ごす日々だった。
 暮らしも変わった。逃げ出したせいで女中の監視が厳しくなるものだと覚悟していたが、それは逆効果だと考えたのか、今までと変わりはなく、むしろ一人になれる時間が増えたように思えた。
 昔から母はよく私に、人の役に立てて嬉しいでしょうと言った。これは人助けよ、と。今まではそんな母の言葉に言い返す気力も湧かなかったので、ただうなずくだけだった。
 けれど、もう違う。あの日、煉獄さんに手助けしてもらった小さな抵抗で、両親も気づいたようだ。この子はモノじゃない。意思がある。そんな当たり前のことに、彼らも私も、やっと気づけた。

 そしてある日、相談者から罵られ、殴られていたことを知らなかった父は、その事実を把握すると、家に人を上げなくなった。もうやめていい、とも言った。私は何度も何度も、大きくうなずいた。母は相談者たちからの報酬が得られなくなったことを惜しんだが、父は頑なだった。
 思えば事の始まりは、私が亡霊の少女に川へ誘われていたところを父が引き止めたあの一件。きっと父はそういったことから私を守ろうと、家へ閉じ込めたのだ。そのうちお金に目が眩んで、娘を飯の種にしたあたりは許容できることでもないけれど、始まりは子を思う親の心。いびつな家族の形が、少しずつ整っていくような気がしていた。



「会いたいなあ」

 縁側で膝を抱え、澄んだ初夏の空を見上げていると、そんな言葉が口を突いて出る。
 煉獄さんと別れた日から、庭の緑は輝きを増す一方だった。母が熱心に育てている芍薬も見頃を迎えていて、白く清廉なその花姿が庭に華やかさを添えている。
 そんな草花たちを眺めていると、野原でのことが思い返される。あのときの声が耳に蘇ってくるようで、私は目を閉じた。

 ――目を閉じて、次に瞼を開けるころにはきっと、見える世界が変わっている。煉獄さんは、そう教えてくれた。

 カァ、という声が間近で響く。なんだと思って目を開けると、そこには一羽の鴉が佇んでいた。脚に紙をくくり付けている。

「え、なに……?」

 鴉は脚を差し出し、カァとまた鳴く。それは「取れ」と言っているように聞こえた。鴉に触れたことなどない。怖々と手を伸ばし、紙をほどく。そうして中を開くと、そこには文字が書かれていた。

『あす、むかえにいく。
 れんごく きょうじゅろう』

 たった二行。普通の人ならば一瞬で読めるであろうその文章を、私は一字ずつ声に出しながら、時間をかけて読み終えた。そうしてまた頭から読み返す。それを何度も繰り返し、指で文字をなぞった。力強くて、でも角張ってはいない、曲線の美しい字。
 うれしい。とても、うれしい。けれど、返事はどうしよう。何も返さないわけにはいかない。
 庭の芍薬に目を止めると、裸足のまま縁側から下り、一輪手折った。そうして鴉へ花を差し出す。

「楽しみに待ってますって、伝えてくれる?」

 鴉はひと鳴きしたのち、花を咥えて飛び立った。
 ――いいな、あの鴉は。煉獄さんがいる場所を知っているんだ。明日と言わず今日、今すぐに、私も会いに行けたら……。
 空へ溶け込んでゆく鴉を見上げながら、そんなことを考えた。

「れんごく、きょうじゅろう」

 手紙を開き、また読み上げてみた。名前を呼ぶだけで、胸がくすぐったくなる。口元がゆるんでしまう。

 もう、今日を早く終わらせよう。早々にお風呂を済ませて、布団に入ってしまおう。明日が来ることがこんなにも待ち遠しいなんて、初めてだ。