俺が教職課程を取っていることを知った時のの顔は、今でもよく覚えている。

「宇髄くんが教師?」

 狐につままれたような顔で、そう声を漏らした。が、すぐに表情を戻し、「そうなんだ」と言ったきり黙り込んでしまった。なんで教師を目指そうと思ったの、とは尋ねてこなかった。気にならないのかと訊けば、

「気になるけど、そういうの話すのって気恥ずかしいんじゃない?」

 確かに改まって話すのは照れるな。そう思って話題を畳もうとしていたら、彼女は物知りたげな目でじいっと見つめてきた。普段は何事にも執着していないように振る舞うが、そうやってたまに見せる好奇心というか、俺のことを知ろうと身を乗り出してくる瞬間というか――それが、たまらなくかわいかった。

「仕方ねぇな。よく聞いとけよ? 昔々あるところに、才能に満ち溢れた美少年、宇髄の天元くんがいました」

 まるで寝物語を聞かせるように切り出せば、はくすくすと笑った。「恥ずかしいなら無理に話さなくていいよ」と言われたが、その時の俺はもう、自分が歩んできた道のりの全てをに知ってほしいとさえ思っていた。なので、気恥ずかしさはあったが、ぽつぽつと打ち明けたのだ。
 ――海外放浪中に、一人の美術教師と知り合った。絵で食っていけたらと漠然と思っていた俺は、彼に「なぜ芸術家ではなく教師の道を選んだのか」と尋ねた。すると彼はこう答えた。「表現を通して子どもたちの役に立ちたかったから」と。子どもは感情をぶつける場所が分からずに溜め込んでしまう。創造する場があれば、喜怒哀楽を吐き出すことができるんじゃないかと思って。
 そんな彼の言葉で、俺は感情の置き場がなかった幼少の頃の自分を思い起こした。勉強漬けの日々だったが、いつからか、母の目を盗んでノートの隅に絵を描くようになった。目にしたものをただ描いた。机上の文房具、図鑑の動物、庭の草花。そのうち色鉛筆で風景画を、高校に上がる頃には絵の具で抽象画のようなものを描くようになった。絵を描くことで感情が整理される気がしたのだ。
 あの頃の俺のように、体の内側でどんどん膨れ上がっていく風船に対して、成す術もない子どもたちがいる。そんな彼らにとって、美術という表現の時間がガス抜きになればいい。教師。ああ、そんな道も悪くないかもしれない――そう思ったのだった。
 俺が話し終えると、は静かに微笑んで「応援してる」と言った。その目はどこか潤んでいるようにも見えた。


 中学の美術教師になった俺と、一般企業に就職したは、大学卒業とともに同棲を始めた。
 あれは忘れもしない、出勤初日の四月一日。学生時代から乗り続けてきたバイクで、電車通勤のを駅まで送った。改札に向かう人だかりを前にが立ちすくんでいるように見えたので、

「今夜は家でぱーっと飲もうぜ」

 そう言って背中をぽんっと叩けば、は「そうだね」と力が抜けるように笑んだ。

「じゃあ、行ってきます」
「おう、行ってらっしゃい」

 歩き始めたの背を見送っていると、彼女は不意に立ち止まり、こちらへ振り返った。

「行ってらっしゃい、宇髄先生!」

 満面の笑みで、大きく手を振ったのだった。
 反則だ、と思った。完全に油断していた。先生と呼ばれるなんて。それも、あんな顔で。
 とにかくその時のの姿や声が脳裏に焼き付いて、今でもたまに思い出しては頬がゆるむ。事情を知らないは、一人でにやける俺を見るたび「なに……?」と気味悪がるのだった。
 そんなだが、同棲を始めてすぐの頃、めずらしく目を輝かせながらこう言った。

「ねぇ、宇髄くん。“家”って聞いて思い浮かべる景色が、私と宇髄くんとで同じって……すごくない?」

 ちょっと意味がよく分からない、と眉根を寄せれば、はぐっと顔を近づけてきた。

「あー家に帰りたいな、と思うその家が、宇髄くんと私は同じなんだよ」
「……まあ、そりゃそうだろ。一緒に暮らしてんだから」
「それってなんか、ちょっとすごいことだと思わない?」

 同じベッドで寝起きし、食卓を囲み、娯楽を共にする。そうやって時間や空間を共有することで、互いの思い抱く「家」の像が重なっていく。元は別々の「家」に生まれた他人同士が、だ。

「確かに、すげぇな」

 は「でしょ」と、世紀の大発見でもしたかのように誇らしげに言うのだった。


 ただの他人同士から、血よりも深い繋がりを持つ他人同士にはなれないものか。そんなロマンチストの端くれのようなことを考えているうちに、一緒に暮らし始めて三度目の春が来た。
 仕事帰りに寄り道をして帰れば、はいつものように「おかえり」と出迎えた。どこに行ってたの、とは聞かない。自分から話さないことは無理に聞き出さない。それが大学時代から変わらない、二人の間の共通認識だ。
 風呂を済ませ、つい先ほど買って来たそれを手にリビングへ戻る。はアイスを食べながら、メダカの泳ぐ水槽を眺めていた。学生の時に飼っていた育三郎という名のメダカ。そこから始まった血統は脈々と受け継がれ、今この水槽を泳ぐのは四代目育三郎とその子ども達だ。

「ん、なに?」
「え?」

 は不意にこちらを振り返った。悟られてしまっただろうかと、俺は後ろ手に隠し持ったものを強く握り締める。

「何か拾って来たの? あ、川の石はだめだよ。またタニシが出てきちゃう」

 そんなの言葉に、思わず笑いがこぼれてしまう。

「違ぇよ」

 この手にあるのは、川の石なんかよりももっと小さくて、硬くて、派手な石だ。
 ――これを見たら、彼女はどんな顔をするのか。きっと今まで誰にも見せなかった表情を、また一つ俺に教えてくれるのだろう。

「なあ、

 そばにいたいと願った彼女が、こうして当たり前のように隣にいる。互いの像を重ね合わせた「家」のもとに――。
 その尊さを実感し、一瞬、ぶるりと震えてしまった。そんな幸福に満たされた振動はきっと、手に握ったこのダイヤモンドにも伝わっていたことだろう。
 
「結婚して」



- 完 -


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