最終話 泡沫の熱
「ごめんね、こんなところまで来てもらっちゃって」
横長に広がる雲を挟み、夕日の赤と、夜の群青とが空を分けていた。
平日だからなのか、昨日バーベキューが開催された河川敷には、こちらに向かって手を振るの他に人影はなかった。
は「宇髄くんに渡したいものがある」というメッセージのすぐ後で、「渡すはずだった物を、昨日の河原に置き忘れて来ちゃったみたい」と電話をかけてきた。ポケットに入れてたけど、立ったり座ったりするうちに転がり落ちたみたいで。電話口の向こうでそう話すに、一緒に川まで行こうかと言えば、「実はもう来てるんだ」と笑った。
「見つかったよ」
土手の上でバイクを停めている天元のもとへと駆け寄りながら、は声を弾ませた。天元はヘルメットを被ったまま、シールド越しにを見やる。が、その顔を直視することはできなかった。
「これ、宇髄くんに」
の手のひらに乗せられた、鐘の形をした小ぶりのシルバーアクセサリーのようなもの。そこには十字架のモチーフが刻まれていた。
「ガーディアンベルっていうらしいんだけど、知ってた?」
「……いや」
「なんかね、アメリカのバイク乗りの間では、これが交通安全のお守りらしいよ。地面から湧き上がってくる魔物を祓ってくれるとかなんとか」
どれほどの時間、河川敷を探し回っていたのだろう。の額や首筋に滲んだ汗が、夕日を浴びて時折り輝いていた。
「なんで俺に」
チリン、と鈴を鳴らしてみせるに、天元はくぐもった声で尋ねた。
「いつもバイクに乗せてくれるお礼」
「……いつもって、まだ二回ぐらいしか乗せてねぇよ」
「そうだけど、でもほら、事故にも遭ってほしくないし。ガーディアンベルって、人からプレゼントでもらうと効果も倍らしいよ。……えっと、そんなに高い物でもないからさ、気にしなくて大丈夫だよ?」
予想外の反応だったのだろう。黙り込む天元に、は「宇髄くん?」と声を潜めた。
少しの間を置き、天元はヘルメットに手を掛けた。
「――え……」
ヘルメットの下から現れた天元の顔に、は目を見開いた。頬は腫れ、所々にあざが浮かび、唇は切れて血の痕が残る。咄嗟にその傷へ触れようと手を伸ばしただったが、天元がさっと顔を逸らした。
「俺は――」
昨夜のことを告げる間、天元は俯いていた。どれほど時間が経っただろう。たったの数分だったかもしれない。けれどそれが、終わりも見えないほどに長く感じた。
から伸びる影は、バイクに跨ったままの天元の上体をすっぽりと覆い隠す。
「ごめん」
か細い声が、沈黙を静かに裂いた。
「私がそうさせちゃったんだよね。宇髄くんを拒むようなことしたから……」
ごめんなさい。はもう一度そう言って、頭を下げた。
「――悲しいとかは、ないわけ?」
その言葉は、喉を押し破り、身を転がすように出てきた。答えは分かっていたはずだった。だから、の感情を確認するような言葉は吐かないつもりだったのに。
顔を上げたの目には、悲しみではなく、後ろめたさが滲んでいるように見えた。天元は鼻先で笑う。これじゃあどっちが不貞を働いたのか分からないなと思ったのだ。
「なるほどね。執着してないわけだ、俺に」
天元はおもむろにスロットルをひねり、バイクを発進させた。
「宇髄くん!」
しかし膝に乗せたままだったヘルメットが転がり落ち、反射的に速度を緩める。バックミラーには「待って」と追いかけて来るが映っていた。
天元はバイクから降りると、元来た道を戻る。ヘルメットを拾い上げようと腰をかがめたが、そのまま力を無くしたようにして地面へ膝を突くのだった。
影が落ちてくる。顔を上げれば、息を切らしたが、「宇髄くん」と眉を震わせながらこちらを見おろしていた。天元はが口を開こうとするのを制するように、言葉を吐き出した。
「分かってんだよ、最初から。お前が俺を好きになることはないって。それでも一緒にいると、お前がいつもケラケラ笑ってるから……だから、期待しちまったじゃねえか。夢、見ちまったじゃねえか。もしかしたら煉獄のこと忘れて俺を――って。でも、そんなことあり得るわけがねぇんだよな。だって俺は……弱い。情けねぇほどに弱くて、卑怯なヤツだから」
ふっと影が消えた。がその場に膝を突き、天元と真正面から目を合わせたのだった。の口元は、ふるふると震えていた。唇を結び合わせることで、その震えを抑えようとしているようだった。
「弱いのは、卑怯なのは宇髄くんじゃない。私だよ。寂しさを埋めてもらおうとして、宇髄くんの優しさを利用した。傷つけた。……ごめん」
「――謝るな」
「ごめんなさい」
「謝るんじゃねえって! それよりも……言ってくれよ――好きだって」
次第に力を無くしていくその声には、懇願するような色が滲んでいた。
「無理だなんて分かってんだよ。けどなんでこんな、俺だけがこんなに、お前のこと――」
天元は言葉を切った。
何かが込み上げてくる。体の内側で「違う」と叫んでいる。
「俺は……」
――こんなのは違う。俺は母親のようにはならない。自分の思いを一方的に押し付けて、相手の自由を根こそぎ奪うなんて、そんな横暴はしたくない。
なら、俺が望むこととは、一体――。
「宇髄くん」
すうっと伸びたの指が、いつの間にか溢れていた天元の涙を掬った。天元はかすむ視界の中で、今にも泣き出しそうなの目を、一途に捉え続けた。
「もう傷つきたくないって思ってた。そんな逃げてばかりの私を、宇髄くんは受け入れてくれた。いつでも否定せず、やさしく包んでくれた。感謝してる。そばにいてくれたこと」
――俺が望むことは、なんだ。
母は自分の承認欲求を満たすため、父からの関心を得るために息子を使おうとした。
じゃあ俺はどうだ。自分の幸福のために、を支配しようとして、空回りして、他人も自分も傷つけたのではないか。
「」
――逃げるから、つらくなる。逃げた自分が罪悪感の塊となって、傷口に塩を塗り続けるからだ。
「……もう、いいから」
今この時を逃したら、きっと俺はこれから先、ずっとずっと逃げ続けることになる。
「もういいからよ」
今、ここに在る現実から目を逸らすな。見えるだろ。彼女が何を望んでいるのか。彼女にとって、何が幸せか――。
「お前だって……自分がどうしたいか、もう分かってんだろ?」
頬に当てがわれるの手を離し、けれど掴んだその腕をほどくことはなく、天元は続けた。
「俺が言えたことじゃねーけどよ。逃げんのはもうやめだ」
今目の前で、すぐにでもこぼれ落ちそうなほどの涙を浮かべるこの人は、俺が大事にしたかった女だ。――でも、できなかった。俺じゃなかった。
けれど、きっと。呆れるほどに正義感が強くて、馬鹿正直なあいつなら、きっと。
「好きか。煉獄のこと」
沈みゆく夕日がひときわ赤いひかりを放つ中、天元の口から溢れたのは、そんな穏やかな声だった。
「私……」
潤んだ声が消えていく。天元はの頭に手を置き、くしゃりと撫でた。すると彼女は、大粒の涙を一つこぼし、そして頷くのだった。
顔を覆ったの手のひらから、銀色の鐘が転がり落ちた。天元はそれを拾い上げ、
「大事にする」
そう言って、チリン、と鳴らした。は唇を結び、涙の伝う頬をゆるやかに押し上げ、微笑んだ。
俺が望むこと。それは、やわらかくあたたかな熱を与えてくれた彼女が、どうかもっと、もっと、幸せに――。
桜舞うキャンパス内は、卒業生たちが身にまとう晴れ着の色にあふれていた。
桜木の下のベンチに座る天元もまた、スーツに身を包んでいた。背もたれに身を預けて、ポケットに手を突っ込んだまま、にぎわう人の波を眺めている。
「おめでてぇな」
そう独りごちる天元の視線の先。そこには、杏寿郎と並んで歩く袴姿のがあった。
紺地の着物に、臙脂の袴。夜空に大輪の花々が咲いているようなその様を目に映しながら、京香と恋人として過ごした、あの日々を思う。
――たとえ、泡沫のように刹那で消える熱だったとしても、それは確かにここに在った。
今後の一生を変える出来事ではなかったのかもしれない。けれど、春が来れば気持ちが上向くと思えるほどの変化は、もたらしてくれたようだった。
「あっ、宇髄くんだ」
「宇髄!」
と杏寿郎は、天元の姿に気づくと大きく手を振った。そうして、人の波を掻き分けつつこちらへ駆け寄ってくる。
天元は傍らに置いた荷物を退かそうと、ポケットから手を抜く。その拍子に、鈴の音が鳴った。ポケットの中に入れていたバイクの鍵。そこに付けていたガーディアンベルに、指がぶつかってしまったようだった。
チリン、チリン。ポケットに片手を入れ、鈴を鳴らしてみる。すると、なぜだか胸の内側に浮遊感を覚えた。
――ああ、どうやら春も、悪いものではないらしい。
杏寿郎とは、もうすぐそこまで近づいて来ている。天元は二人に手を振り返しながら、その唇に淡い笑みを灯すのだった。
- 完 -
(2022.07.22)
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