第十話 渇望
カン、カン、カン。今にも朽ち落ちそうな階段を、シースルーのシャツを羽織った女子がリズムよく降りていく。その後ろには、漫然とした足取りの天元が続く。
天元が住まうボロアパートで一夜を共にした彼女は、家まで送ってほしいとねだった。宇髄くんの後ろに乗るの好き。バイクに鍵を差し込んでいる天元に、彼女は笑窪を寄せた。天元は何も言わずにヘルメットを渡す。後ろに乗った彼女が、昨夜よりもいっそう強く深く抱きしめてきた。腰に回されたその腕を一瞥したのち、天元はバイクを前に押し出し、早朝でまだ人の姿もまばらな道へと出るのだった。
「この辺りで大丈夫。うちの前、一方通行でややこしいから」
そう言われてコンビニの駐車場に入れば、彼女はちょっと待ってて、と店内へ入って行った。
天元は前掛けにしていたショルダーバッグからスマホを取り出す。誰からも、なんの連絡も来ていない。それでもメッセージアプリを開き、一番上に表示されているメダカのアイコンをタップする。そうして過去のやりとりをさかのぼっていた天元だったが、あるとこでぴたりと指を止めた。里山でかき氷を食べたときの写真だ。宇治金時のかき氷には白玉が三つ添えられていて、どっちが二個食べるかで軽く揉めた。天元としては、そこまでして白玉を食べたかったわけではない。からかいたかっただけなのだ。は普段、自分から何かを欲することがほとんどない。そんな彼女が見せた食い気がかわいく思えて、悪戯心を刺激されたのだった。
「お待たせー」
シースルー女子はそう言いながら、ペットボトルのコーヒーを差し出した。なかなか受け取ろうとしない天元に痺れを切らしたのか、彼女は天元のショルダーバックにペットボトルを突っ込む。
「また遊ぼうね」
軽やかに言うと、手をひらひらと振りつつ、住宅街の方へと消えていった。
天元は胸元のコーヒーを見おろしたのち、伏せていたスマホ画面へと再び目を落とす。口を丸く開き、かき氷を頬張ろうとしている。画面を左にスワイプさせる。二枚目の写真には、頬に手を当て、目を糸のように細めて笑むが映っていた。おいしい、でも冷たい。そう言う彼女の声が、耳に蘇るようだった。そのとき、
「……っ」
じくり、と胸の奥が痛んだのだ。
――感覚なんて、失ってしまったかと思っていたのに。
昨日の夜、用にと買ったヘルメットをあの女子に貸し、バイクの後ろに乗せ、家に連れて行ったあの時から、思考も感情も麻痺した。
このまま何も考えず、何も感じずにいられたら、どれほど楽だったか――。
「宇髄」
低く深く響いた声。振り返ればそこには、目に鈍い光を宿した杏寿郎が立っていた。片手にはレジ袋が提げられており、中のアイスクリームが透けて見えている。
「……煉獄」
天元が杏寿郎の姿に驚くことはなかった。むしろ冷静に、ああそう言えばこいつの寮はこの近くなんだっけ、と、杏寿郎のサンダルに目を落としながらそんなことを考えていた。
「あれは……あの女性と君は……」
杏寿郎の拳は固く握られ、かすかに震えている。天元は、まるで宙に描かれている文字でも読むかのように、感情のこもらない、ぼんやりとした声で答えた。
「お前の想像してる通りだよ。あいつとヤッた」
嘘だ。最後までしたわけではない。彼女は何度も気をやったが、天元の体は反応を示さなかった。挿入しなければセックスではない。しかし互いの体に触れ合ったことは、事実だ。
「――ざけ、るな……」
唸るような声が途切れ途切れに聞こえた。天元がバイクから降りるのと、杏寿郎が腕を振りかぶるのは、ほとんど同時だった。天元の視界は一瞬暗転し、次に光が差したときには硬く冷たいアスファルトに倒れていた。そこでようやく、殴られたのだと気がついた。
「ふざけるな……!」
こめかみに青筋を立てた杏寿郎は、天元に馬乗りになるとその胸ぐらを掴み、再び拳を打ちつけた。鈍い音の合間に、どちらのものとも分からない声が漏れる。
コンビニから出てきた女性客が悲鳴を上げるまで、天元は少しも抵抗する素振りを見せず、殴られるがままだった。
「信じていたのに。君なら……君なら、のことを見落とすことはないだろうと、思って……」
はたはた、と水滴が落ちてくる。天元はかすむ視界の中で目を凝らすようにしながら、杏寿郎を見上げた。振り下ろす手を止めた杏寿郎が、喉を押し開くようにして言葉をこぼした。
「俺は宇髄に、なりたかったんだ」
その双眸からは、涙が溢れ出していた。杏寿郎の目から転がり落ちた涙が、血に濡れる天元の頬を、口元を伝っていく。
「なのに、どうして裏切った」
杏寿郎が去った後、天元は地面に落ちてしまったスマホを拾い上げた。ヒビの入った画面には、メダカのアイコンと「」の文字が表示されていた。手の甲で鼻や口から滲み出た血を乱雑に拭いつつ、メッセージを開く。
『宇髄くんに渡したいものがあるんだけど、今日って時間あるかな』
天元は口元に手を押し当てたまま、息を震わせた。
――まただ。また俺は、逃げた。
逃げることが悪いとは思わないと、は言っていた。今はその痛みに向き合えないだけだから、と。傷はいつかカサブタとなって癒えるはず、と。
でも、じゃあ。目の前にあることから逃げ続けた先には、何がある? 傷の上から塩を塗っているようなものだ。癒えることを自ら阻んでいる。カサブタなんか、できっこない。
――怖かった。
自分の中で制御できないほどに肥大化していったへの思いや、求めたものが手からすり抜けていくことが。だから目を逸らそうとした。俺はそうやって逃げ続けてきたんだ。実家からも、からも。
煉獄なら、どうしただろう。きっと今自分の目の前にあるものを、それがどんな姿であれ、そのまま背負うのだろう。見放すことなど、ないのだろう。
「俺は、お前になりたかったよ……煉獄」
(2022.07.17)
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