第八話 よろめき



『明日のバーベキュー、一緒に行かない?』

 バイト終わりにスマホを確認すると、からそんなメッセージが入っていた。
 夏休みも二週目に入ったが、天元とは里山に行って以降、たまにメッセージのやりとりをするのみで、顔を合わせてはいなかった。
 杏寿郎がマンションを訪れたあの夜、首筋へのキスを繰り返したのち唇へと顔を寄せた天元に、はきっぱりと言ったのだ。「やめて」と。心の準備がまだできてなくて。天元から少し距離を置きながら、はそう言った。天元は「悪い」と呟くと、ドライヤーを手にの髪を乾かした。しかし、毛先にまだ水気が残るうちに手を止め、「明日もバイトで朝早いから」とのマンションを出たのだった。
 天元はスマホを見おろしたまま、唇を噛んだ。明日は英語クラスでのバーベキューが開催される予定だった。担当講師がこの夏で母国に帰るとのことで、その送別会も兼ねて、クラスのリーダー的存在が企画したのだ。出欠アンケートが回ってきたのはひと月近く前の話で、天元は何か理由をつけて欠席しようと思っていたが、「炭火で焼くお肉っておいしいよね」と声を弾ませるに促されるように「出席」と回答したのだった。まさかひと月後、こんな複雑な気持ちを抱えながらバーベキューの日を迎えることになるなんて、あの時は思いもしなかった。

『迎えに行く』

 そんな短文を打ち、送信ボタンをタップする。既読はすぐに付いた。『ありがとう』という返事を確認すると、天元はスマホを仕舞い、バイクに跨った。
 脳裏に焼き付くのは、彼女とは別れたと言った杏寿郎を見る、の目。唇へのキスを拒んだ時の、目。そこに浮かぶ色は、杏寿郎を見る際のそれとまったく違った。
 ――結局あいつは、煉獄のことを……。

「……くっそ」

 ヘルメット越しに頭を打てば、拳がひどく痛んだ。その痛みを抱えたままスロットルをひねり、夜の繁華街を駆け抜けて行くのだった。



 キャップにTシャツワンピース、スポーツサンダルというラフな格好で出てきたは、マンション前に停まるバイクに目を丸くした。そうして「宇髄くん」と、瞬きを繰り返しながら言う。

「バイクで行くの?」
「おう。まさか俺が歩いて行くとでも思ったのかよ」

 天元がバイクに跨ったままそう返せば、はマンションの駐輪場の方を指しながら、
 
「うちに置いてけば? バスに乗って行こうよ」
「バス? そんなのめんどくせーだろ」
「でも、バイクで行ったらお酒飲めなくなるよ?」

 それでもいいの、とでも言うように眉根を寄せたに、天元は目線を下げる。
 ――警戒されているのかもしれない。あの夜、無理にキスをしようとしたから。
 そんな思いがよぎったのだった。

「……乗りたくねえってのかよ」

 天元は独り言のように呟いたが、耳の良いが聞き漏らすはずもなかった。は天元の腕に収まっていたグレーのヘルメットを取ると、スカートであることにも厭わず、よいしょ、とバイクに跨ったのだ。

「宇髄くんのビールは全部私が飲むからね」

 笑みを含んだ声だったが、天元はそこによそよそしさを感じた。そしてそれは思い過ごしではないことを、その後すぐに悟る。は天元の腰に腕を回すのではなく、ベルトの辺りをきゅっと握るだけだったのだ。それはどこか、体を密着させることを避けているようにも見えた。
 天元はそんなになんの言葉も返すことなく、ゆるゆるとバイクを発進させるのだった。



 とメダカを弔いに行った川は東の方にある。しかし、今日のバーベキューはその真逆、西の方にある川辺で行われることになっていた。この街は、東と西で景色がまるっきり変わる。東の方には繁華街や観光地が密集しているが、西は住宅地や広大な敷地を持つ寺社仏閣が点在するぐらいなので、川のほとりからは山並みがよく見えた。
 河川敷近くにバイクを停めてヘルメットを外した途端、さまざまな音が耳に飛び込んできた。土手の下の河原でバーベキューをするグループは複数あり、肉を焼いたり、レジャーシートに座って酒を飲んだり、ビーチボールでバレーをしたり、川遊びをしたりと、各々が好きに動いては笑い声を上げていた。

「運転ありがとね」

 はバイクから下りると、ヘルメットを外して天元に差し出す。天元がそれを受け取れば、彼女の視線はすぐに河原の方へと向けられた。
 左右に走っていたの目の動きが、ぴたりと止まる。天元はその目線の先をたどった。そこには、黙々と肉を焼く杏寿郎の姿があった。

「なあ、

 太陽はまだまだ高く、痛いほどの陽射しを浴びせてくる。名前を呼ばれたは天元の方へと顔を向けたが、陽の光が天元の持つヘルメットに反射したのか、ぎゅっと目を閉じた。

「好きだ」

 河原の方で、ひときわ大きな笑い声が上がる。土手の上と下とでは、まるで世界が違うようだった。
 がゆっくりと瞼を押し上げていくのを、天元は目を逸らさずに見つめていた。
 
「ありがとう」

 は彼女特有の輪郭のはっきりとしない声で、そう返した。
 自分から話さないことは聞かない。それが、天元との間の共通認識だ。だから、天元は喉元までせり上がった言葉をぐっと押し込めた。

「飲みすぎるんじゃねーぞ。お前、酔うとタチ悪ぃからな」
「そんな簡単には酔っ払いませんよ」
「どうだか」

 は頬を緩めると、「宇髄くんの分のお肉も確保しとくね」と手を振りつつ、土手を下りて行った。
 小さくなっていく背中に、先ほど押し殺したはずの言葉が息を吹き返し、天元の口先からぽろりとこぼれ落ちた。

「……お前は、どう思ってんだよ」



 バーベキューの間、も杏寿郎も天元も、互いに言葉を交わすことはなかった。杏寿郎は肉を焼くばかりで、は女友達と一緒にちびちびと酒を飲み交わし、講師から妙に気に入られている天元は他の学生も交えて談笑するという、三人三様の過ごし方をしていた。
 まるで焼き場担当かのように肉を焼き続けていた杏寿郎だが、陽が傾いてきたころから、頻繁に中座するようになった。クラスの輪から離れたところで電話をしている杏寿郎に、がちらちらと視線を向けていたのを天元は見逃さなかった。そして、俯き加減でスマホを耳に当てている杏寿郎の横顔に、天元は悟った。元カノからの電話だろう、と。きっとも察していただろう。
 ――別れ方がまずかったか、もしくは相手が執念深いのか。
 きっと両方だろうな。弱ったように目を閉じる杏寿郎の姿に、天元はそんなことを思うのだった。


 辺りが暗くなると、今度は花火の準備が始まった。天元は花火を選ぶ人たちの輪から離れ、静かに流れる川をぼうっと眺めていた。すると、

「宇髄くん」

 不意にそう声を掛けられた。顔だけを向ければ、胸元のざっくりと開いたタンクトップにシースルーシャツを羽織った女子が、後ろ手を組み、微笑を浮かべて立っていた。

「あっちで花火やろうよ。ほら、体が大きい宇髄くんには、一番おっきな花火をあげるから」

 そう言って手筒花火を差し出した。天元は曖昧な返事をしながら、どこか気だるそうに花火を受け取る。そうして、「ほらほら」とシースルー女子に促されるまま、にぎわう輪の中へと入って行った。
 天元が小石の上に置かれた蝋燭で火を点けていると、

「宇髄くん」

 今度は別の声でそう呼ばれた。たった数時間言葉を交わしていないだけなのに、耳はもうずいぶんと前から、その声を求めてた。聞きたかった声に、天元はすぐさま顔を上げた。と同時に、手筒花火の先から火花が噴き出し始める。

「あっ、ちょ、待て待て! 近づくな!」
「えー?」

 火花に構わずこちらに近寄って来るに、天元は片手を突き出すようにして「待て」を繰り返した。は酔いが回っているのか、目をとろりと溶けさせている。しかし天元から言われた通りに立ち止まると、不意に横を向き、ふわふわと手招きをした。

「こっちこっち」

 誰に向けて言ってんだ。の視線の先は暗がりになっていて、天元の方からはよく見えなかった。かすかに首をひねる天元の右手から、ざああっと音を上げながら赤い火花が噴き出でる。勢いはまだ衰えない。火花とともに起こる白い煙が、風下にいたの方へと流れていく。それを思い切り吸い込んでしまったのか、は突然むせ始めた。
 そんな彼女の背に手を伸ばしたのは、天元ではなく――

「平気か」

 杏寿郎の言葉に、はこくこくと頷く。そんな二人のやりとりを、天元はただ見つめていた。天元の手から放たれていた火花の音が、光が、しぼんでいく。

「どうしたんだよ」

 そこかしこで放たれはじめた火花で、夜闇は塗り潰される。赤や緑、黄などのさまざまな色が飛び交う中で天元が問えば、は思い出したように「そうだ」と声を漏らす。

「誰の花火が一番長持ちするか、勝負しようよ」

 突拍子もないその提案に、天元は「はぁ?」と目を丸め、杏寿郎は「なるほど」と頷いた。は手に持っていた線香花火を二人に渡し、蝋燭の方へ来るように手招きする。
 これも酒の力なのか、三人の間に漂う気まずさなど忘れてしまったかのように、は「早くおいでよ」とせがんでいる。どうしたものかと、天元は思わず杏寿郎の方を見やる。すると杏寿郎もまた、天元へと顔を向けた。しかし天元は杏寿郎と視線がかち合うと、すぐに目を逸らした。

「よし! 勝負だな!」

 杏寿郎が声を張りながら駆け寄れば、は嬉しそうに「うん」と頭を振る。そうして天元の方へと期待を込めた眼差しを向けてくるので、天元は根負けしたように息を吐いた。

「……ったく、負けても喚くなよ?」

 一本の蝋燭を囲み、炎に向かって三人同時に線香花火を垂らす。
 じくじくと小さく唸るような音を上げながら、花火の先端が丸まっていく。火玉が出来上がったと思えば、ぱちん、と弾けるように火花が舞った。束の間、息を殺すようにして自分の花火を見つめていた三人だったが、その沈黙を破ったのはだった。

「あーだめだ、手が……」

 の手元はふらふらと揺れていた。「アルコールが指先に到達しちゃったみたいです」とおどけ笑うその振動で、の火玉はあっけなく落ちてしまった。
 残る天元と杏寿郎は、呼吸も瞬きも忘れたかのようにして花火を見つめる。ぱちん、ぱちん、と弾け続ける火花に「すごいね二人とも」と手を叩く。しかし、どこからか鳴り始めたバイブ音に、彼らの集中力はぷつりと途切れてしまう。

「――あっ」

 声を漏らしたのはだった。杏寿郎の手元から、火玉がぽとりと落下したのだ。

「負けてしまった」

 杏寿郎は眉尻を下げ、困ったように笑った。そうしてすぐに立ち上がると、ポケットからスマホを取り出し、「もしもし」と応えながら遠ざかっていくのだった。天元の火玉も、離れていく杏寿郎の背中を見送るうちに、いつの間にか消えていた。



 会がお開きになると、は女友達と電車で帰ると言った。お酒たくさん飲んじゃったし、さすがにバイクの後ろに乗るのは危ないだろうから、と。天元としては腰に縛り付けてでも送って行くつもりだったが、が女友達と楽しげに笑い合う姿を見て、「気ぃつけてな」と身を引いたのだった。
 終電が出ちゃうから、と慌てて駆け出したたちの背を見送ったのち、天元もバイクに跨った。一人になった途端に、疲労感が身を包んだ。夜空を見上げながら、はあ、と深い息を吐く。
 ――あのとき……。
 天元の脳裏に焼き付いているのは、咳き込むにためらうことなく手を差し伸べる杏寿郎と、それを拒むことなく受け入れるの姿。
 それが、とても自然だった。とても。まるで、第三者が間に割り入ることなど到底できないのだということを、突きつけてくるようで――。

「宇髄くーん!」

 空を見上げているのに、なぜだかあの黒い天に向かって落ちていきそうな感覚だった。しかし名前を呼ぶその声で、そんな不思議な感覚はすうっと引いていった。
 声の方へと顔を向ければ、こちらに手を振りながら土手を駆け上がってくる姿が。それは、先ほど手筒花火を渡してきたシースルー女子だった。

「バイクなんだね。だからお酒飲んでなかったんだぁ」

 無遠慮にバイクへ近づきながら、「かっこいい」と声を弾ませる女子。そんな彼女とは対照的に、天元は少し身を引き、どこか警戒するように目を細めていた。

「あーなんか、走ったら暑くなっちゃったな」

 彼女はそう言いながら、ゆるやかにウェーブのかかった長い髪を一つに結び上げていく。

「私さ、宇髄くん」
「……なんだよ」
「え? なになに、なんか警戒してる感じ?」
「いや別に。で、何?」
「えっと、あのね、終電逃しちゃって。それで……バイクで送ってもらえるとすごく助かるなあって」

 どこか気恥ずかしそうに言った彼女は、唇を甘く噛み、上目で天元を見上げる。
 さあっと吹いた風にさらわれるように、ポニーテールがたなびく。その様を目に映しながら、天元は言った。

「タクシー呼ぶか」
「――えっ、あ、待って!」

 スマホを取り出そうとした腕を掴まれ、天元はどこか怪訝そうに眉根を寄せた。

「夜中に一人で乗って怖い思いしたことあるから、タクシーはちょっと……」

 彼女が何を望んでいるのか、天元にはすぐに分かった。もっと言えば、川辺で花火を手渡してきた時点で察していた。
 そして彼女もまた、天元の気がよろめくのを見抜いたようだった。口元に嬌笑を浮かべ、天元の腕を淡く撫でる。天元は奥歯を噛み締めながら、彼女の細い指先がゆったりと這うように動くのを、ただ見おろしていた。視線を少しずらした先では、豊かさを隠しきれない胸が、彼女の呼吸に合わせてゆっくりと上下に揺れていた。

「乗れよ」

 雑な口ぶりだった。人によっては聞き取れないほど早く、声も低い。天元は、もし彼女が「え?」と聞き返そうものなら、煙に巻いて一人走り去ろうかと思っていた。けれど彼女は天元がぼそりと呟いたその言葉に目を輝かせ、「ありがとう」と笑ったのだった。
 風に折れ曲がった土手の草たち。その狭間から奏でられる、夏の虫の音。それらを消し去るように、エンジン音が轟いた。シースルー女子は、天元の腰に腕を回して、後ろから抱きつくように身を寄せた。柔らかな感触が背中越しに伝わってくる。理性がゆるゆるとかき乱されていくのを感じた。
 だから、天元は気づかなかったのだ。自転車を押して歩く人の姿に。それが、杏寿郎であることに。――杏寿郎は、すぐ脇を走り去っていったバイクのテールランプを、ただ見送っていた。



(2022.07.17)


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