第六話 かさぶた



 ――酔いが覚めたら、てっきり「なかったことにしてほしい」と言われるものだと思っていた。けれどあいつは、「宇髄くんがどうにかしてよ」という発言を打ち消すような言葉は、一切口にしなかった。

「バイクなんじゃないの?」

 川のほとりでの酒が抜けるのを待っているうちに、この街を囲むなだらかな山々の向こう側はすっかり白んでしまっていた。梅雨を目前に控え、暑さに汗がにじむ日が多いこの頃だが、明け方はやはり肌寒い。天元は自分の上着をに被せ、その腕を引くようにして河原を上がっていく。そんな天元の後ろ背に、が「バイクは」と尋ねたのだった。

「置いてく。俺だけ乗って帰るわけにも行かねぇだろ」
「え、でも……」
「あとで取りに戻るから平気だって」
「手間じゃない?」
「いいから」

 は「んー」と喉を鳴らす。顔を見ずとも、納得していない様子が手に取るように分かった。

「あっ、じゃあ後ろに乗せてよ」
「メット一つしかねぇから無理」
「……メット?」
「ヘルメットな」

 なるほど、と呟く声。天元が振り返ると、は不意打ちを喰らったように目を丸くした。

「ほんとにいいっての。気にすんな」
「……そう?」
「おう」
「……あ、じゃあさ」
「今度はなんだよ」
「お礼に何かご馳走させてよ。近くに通しでやってるラーメン屋さんあるよ」
「お礼にって、そりゃお前が腹減ってるだけだろ」

 は少し気恥ずかしそうに唇を結び、目を左右に泳がせた。そんな反応に、天元はぷっと噴き出す。

「んじゃ、お言葉に甘えて」

 ぽんっと頭に置かれた手に、は瞬きをやめる。天元がニカッと笑うので、それにつられて、彼女も頬を緩めるのだった。


 店へ着くやいなや、は激辛ラーメンなるものを頼んだ。うそだろ、お前二日酔いじゃないのかよ。天元がそう言えば、「お酒飲んだ次の日って、なんか辛いものが食べたくなるんだよね」と平然とした調子で返した。

「ここの激辛ラーメン、結構いけるんだよ。旨辛って感じで。でも杏寿郎は一口食べただけで――」

 ぷっつりと途切れた言葉。天元は先を促すことはなく、メニューに目を落としながら「チャーハンもうまそうだな」と呟いた。

「追加で頼む? 宇髄くん、味噌ラーメンだけじゃ足りないんじゃない? あ、餃子もおいしいよ」
「いやさすがに朝からフルセットは食えねぇな」
「またまた。食べ盛りなんじゃないの?」
「そりゃお前や煉獄はな。俺はお前らより三つ歳上なんだから、胃もすっかり落ち着いてんだわ」

 が視線を落としたので、天元は「まずい」と胸の内で呟く。気をつけなければと頭では理解していたつもりなのに、うっかり杏寿郎の名前を出してしまった。
 どう言葉を繋ごうかと考えていると、「お待たせしました」とラーメンが運ばれて来た。湯気の向こうでが「おいしそう」と口角を上げていたので、天元は胸を撫で下ろし、箸入れから割り箸を一膳取り出してへと渡した。

「宇髄くんって受験浪人なんだっけ?」

 受け取った箸を割りながら、が尋ねる。

「まあそんなとこだな。そのうちの一年は別のことしてたけど」
「へえ、何してたの?」
「海外放浪してた」

 スープを一口飲んだは、目を大きく見開き、「そうだったんだ」と息を漏らすように言った。

「じゃあ宇髄くんは、そこでいろんなものを見て、いろんな人と会ってきたんだね。羨ましいな」

 そんな言葉に、天元はふっと笑う。
 なんで行こうと思ったのか。どこの国に行ったのか。費用はどのぐらいかかったのか。そんな野暮なことは訊かないに、やっぱりこいつとは合いそうだな、と思ったのだ。

「お前も行ってみりゃいいじゃねぇか、海外」
「んー、私にはそんな度胸ないよ。英語も得意じゃないから……」
「発音はネイティブっぽいけどな。だってほら、耳いいし」

 そうかな、と曖昧に笑い、は麺を啜った。見るからに辛そうなそれを、彼女は顔色ひとつ変えずに食べ進めていく。その様を見つめていると、視線に気づいたがふと顔を上げて「食べてみる?」と、器を少し前へ押し出した。舌がバカになりそうだから、と言って断れば、彼女は「ひどい」と眉をひそめたのち、力が抜けるように笑った。

「合鍵をさ」

 天元が麺を啜ったタイミングで、はそう切り出した。何気ないふうを装った口ぶりだったが、その声はかすかに震えていた。

「杏寿郎から、返してもらわなきゃ」

 合鍵。そういえばあいつに渡してるって言ってたな。天元はそんなことを思い起こしながら、スープを一口飲む。

「でも……なんて伝えたらいいのか分からなくて。鍵なくしたから返してって言えばいいのかな」

 店内のテレビから流れる笑い声が、沈黙を埋めるように入ってくる。
 何も言わず箸を置いた天元に、は「ごめんね」と取り繕うように笑った。

「そんなこと聞かれても困っちゃうよね」
「……簡単な話だろ」
「え?」
「彼氏ができたから鍵返せ。その一言で十分なんじゃねーの?」

 の顔から表情がふっと消える。そうしてゆっくりと目線を落とし、息を吐くように言った。

「それが言えないから困ってるんだよ。昨日の今日でもう他の男と、って……思われたら……」
「今さらあいつにどうこう思われようが関係ねぇだろ。煉獄にはもう彼女がいるんだ。お前はそれでフラれてんだぞ」

 顔を上げたは、下唇をぎゅっと噛み締めていた。

「……結構しんどいこと言うね」
「本当のことだろ。現実と向き合え」

 テレビから、ひときわ大きな笑い声が飛んできた。は少し恨めしそうにそちらへ目をやる。
 朝の情報番組って得意じゃない。今日も一日頑張りましょうって、背中を強引に押されてる気がするから。前にがそう言っていたことを思い起こしながら、天元は箸を手にし、麺を持ち上げる。

「まあ俺に任せろよ」

 そう言って麺を啜り上げる天元を、はどこか困惑したような目で見つめるのだった。



 任せろと言いつつ、バイト先の人手が足りずヘルプに入ったりなんだりしているうちに、もうひと月近くが経過していた。
 梅雨も明け、本格的な夏がもうすぐそこまでにじり寄っていた。この街の夏は暑い。風がほとんどなく、地面から湧き上がる熱が肌にまとわりついて離れないのだ。あちぃ、と言いながらの家へ向かえば、彼女は毎度のごとく「合鍵の件、どうなった?」と確認をする。バイトが忙しくとも、天元はほとんど毎日のようにの家へ立ち寄っていた。は腹を空かせた天元のために、いつも食事を用意して待ってくれていた。の手料理に舌鼓を打ちながら「今度言うつもりだよ」と曖昧に答える天元に、もまた曖昧な相づちで返すのだった。
 天元は、少し時間を置こうと思っていたのだ。は、杏寿郎に告白したその日のうちに他の男と付き合うことを決めた。そのくせ、それを杏寿郎に知られたらどう思われるか、と気にしていた。だったら、ああそのぐらい時間が経てば心移りもするよな、と杏寿郎が納得するほどの間を置いた方がいいのではと考えたのだ。天元なりの配慮のつもりだったが、正直、恋人の家の合鍵を他の男に持たせたままなのは気に喰わない。一丁前の独占欲を飼い慣らそうと励んだが、そろそろ限界だった。
 限界といえば、天元はまだに指一本触れていない。彼女という特定の存在をつくらず、気分次第で適当な女と遊んできた天元にとって、これは前代未聞のことだった。が無自覚のうちに引いた一線を、強引に踏み越えるほどの勇気はなかったのだ。
 ――嫌われたくない。
 まさか自分がそんな感情が抱く日が来るなんて、思ってもみなかった。



「おう煉獄」

 部活帰りの杏寿郎をキャンパス内の駐輪場で捕まえた天元は、その肩に腕を回しながら続けた。

「どう? 彼女と仲良くやってんの?」

 杏寿郎は突然現れた天元に対してなのか、それとも不躾に投げられたその問いに対してなのか、目を大きく見開いた。そうして「まあな」と息を漏らすように返す。天元はそんな杏寿郎を横目で見おろしつつ、少し間を置く。まるで何かを待っているかのようだった。しかし天元は諦めたようにして、ハッと短く笑う。

「俺の話は聞いてくんねぇのな。普通、そっちはどうだ、とか訊き返すもんだろ」
「……なんの話だ?」
「まだ聞いてねぇの? ま、そりゃそうか」

 杏寿郎の肩から手を離す。突き刺さるほどの視線を感じつつ、天元は杏寿郎に背を向けて言った。

「俺と、付き合うことになったから」

 チリンチリン、というベルの音。天元と杏寿郎の間を断つように、自転車が駆け抜けていく。去って行く自転車を目に映しながら、天元は背後に立つ杏寿郎に向けて言葉を続ける。

「ってことで煉獄。の家の合鍵、俺にくれ」

 数秒が数分のように感じられた。風で木々の葉が揺れる音、キャンパス内から聞こえてくる笑い声。その中に、杏寿郎の声はひとつも混じっていなかった。
 天元はゆっくりと振り返る。しかしそこで見た杏寿郎の表情に、思わず目を見開く。杏寿郎は眉根をぎゅっと寄せ、口角を下げて、唇をかたく結んでいる。そうして、地面を見つめながら拳を握り締めていたのだった。
 天元は小さく息を吐く。

「やだねぇ、責任感が強すぎるってのは。そのせいで本当に好きな女を逃しちまうなんてよ」

 本当に好きな女。その言葉に、杏寿郎はハッと顔を上げた。
 そんな反応に天元は苦笑する。そうして、杏寿郎が口を開いたのを制するように言った。

「ま、あいつのことは心配すんな。俺が大事に育ててるから」
「……育てるとは」
「分かるだろ。それぐらい、お前にも」



「メダカのことだよ、ばーか」

 杏寿郎の動揺した顔を思い浮かべながら、天元はメダカにエサをやる。

「え、何? バカって聞こえた気がするんだけど」

 キッチンの方から顔を覗かせたに、天元は口角をゆるりと上げる。

「んーん、なんでも」
「本当にー? 育三郎に乱暴な言葉かけないでよね」

 へいへい、と返した天元は、水面まで浮上して口をパクパクと開けてるメダカに「お前はかわいがられてんなぁ」と呟いた。
 ――育てるという言葉に、あいつはどこまで想像したんだろうか。
 天元はそんなことを思いながら、鍋の様子をうかがっているを横目で盗み見る。
 ――とはまだキスすらしてない。けどあいつはきっと、俺たちがキスどころかセックスまでしてるとでも思ってんだろうな。
 天元は短く笑う。それはどこか、自嘲するような笑みだった。

「こないだ宇髄くんがくれた石、いい感じに水槽に馴染んでるよね」

 不意に近くで聞こえた声に、天元は首をすくめた。は素麺の入った器をローテーブルに置きながら「できたよ」と語尾を伸ばす。
 杏寿郎から合鍵を返してもらったあの日、なんとなく寝覚めが悪いような気持ちで、バイト後に川までバイクを走らせ、河川敷をぶらついた。その際に拾った卵のような形をした石に、を思ったのだ。キスも、セックスもしてはいない。それでもすでに何度か、の家で朝を迎えた。もちろん隣り合って眠ることはない。はベッドで、天元は座椅子を枕にして床で寝るのだ。夕飯はが作ってくれるので、朝は天元が作るのが常だった。何が食べたいか聞くと、は決まって「たまご」と答えた。朝は卵料理とパンがいい、と。それ以降、卵を見るとの顔が目に浮かぶようになった。
 卵型の石をに渡せば、彼女は「宇髄くんが石を拾って来た」とおかしそうに笑いながら、メダカの泳ぐ水槽へと入れたのだった。

「あっ、宇髄くん気づいてる?」
「何が?」
「タニシが出てきちゃったんだよね。石に卵がくっ付いてたのかなあ」

 は天元の隣に来ると、「ほら」と水槽の片隅を指す。そこには確かに、黒っぽい貝を被った生き物が張り付いていた。少し不安げな表情を見せたに、まあそんなに害はないだろうと言えば、彼女は「そうだよね」と頷き、「お素麺食べよ」と天元の袖をつんっと引くのだった。


 翌朝、天元が目覚めると、は天元のすぐ隣に膝を突いて、水槽を覗き込んでいた。

「どうした」
「……あ、ごめんね。起こしちゃった?」

 ゆるゆると上体を起こした天元は、にならうようにして水槽を覗く。水面には、上半身だけの姿になったメダカが、ぷかぷかと浮いていた。

「おい、これって……」
「うん。タニシが、育三郎を食べちゃったみたいで」

 ぼんやりとした口調で言うに、天元は眉をひそめた。は慌てることも、悲しむこともなく、メダカの亡骸をただ見つめている。その姿が、天元には、すべての感情を懸命に押し殺そうとしているように見えた。
 
「昨日の夜まで元気に泳いでたのに。タニシもおとなしくしてたのに。人と同じ。突然、何かのきっかけで変わっちゃうんだ」

 の息が浅くなっていくのが分かった。押し込めきれなかったものが溢れ出してくる。その合図だと思った。だから天元は、の体を抱き寄せたのだった。

「……別に、仲がいい家族っていうわけじゃなかったの」

 ぽつりとこぼしたの言葉に、天元は頷いた。
 これまで彼女は、自分のことを多くは語らなかった。天元もそうだ。自分から話さないことは聞かない。それがと天元の間の、共通の認識だった。そんなが今、天元の腕の中で体を小さくして、時間をかけながらも身の上話をこぼし始めたのだった。

「よくある話かもしれないけどさ、仕事がうまくいかなくなったお父さんが……お母さんと私に手を上げ始めちゃって」

 それで、逃げるように家を出た。お母さんの実家で、祖母と母と私の三人暮らし。それが高校に上がってすぐのことだった――。
 それだけ話すと、は天元を見上げる。

「宇髄くんは、変わらないで」

 小さくもはっきりと紡がれた言葉に、天元は唇を結ぶ。込み上げてくるものを抑えようとした。けれど、まるでの溢れた気持ちが伝染したようにして、結び合わせたはずの唇の間から、声が漏れ出てしまった。

「俺は……」

 ――実家を飛び出してからずっと、何者かになりたくて焦っていた。自分の何かを変えなくては、あの家から離れないと思っていた。

「俺はいつも、痛みから逃げてきた。そんな腰抜け野郎だぞ。それでも変わらなくていいってのか?」

 天元は掠れるような声で言う。そんな天元を見上げるの瞳には、力強いひかりが静かに灯ったように見えた。

「私は、逃げるのが悪いことだとは思わない。今その痛みと向き合えないだけで、いつかそれはカサブタになって、自然とポロッて落ちて、傷もきれいに治ってるかもしれない。……そう、信じたいから」

 最後の方は囁くような声だった。はそこまで話すと、少し顔を下げ、天元のシャツから覗く鎖骨をぼんやりと見つめた。
 天元は、の紡いだ言葉たちが、心の奥底に積み重なった鉛をゆっくりと溶かしていくように思えた。そんな心地の良いぬくもりを感じつつ、



 そう呼べば、はふっと顔を上げる。天元とは少しの間、目と目をまっすぐに合わせていた。天元が、ゆっくりと顔を寄せていく。互いの唇が、吐息を感じるほどに近づいたとき、はすうっと顔を背けた。そうして、水槽を見ながら言うのだった。

「育三郎を弔ってあげないと」



 その後、メダカの亡骸を紙コップに入れて、早朝の街を東に向かって歩いた。が酔い潰れた日に立ち寄ったラーメン屋の前を通り過ぎ、河川敷へ出ると、彼女はせせらぐ川へとメダカを流した。
 と天元は、しばらく河川敷のベンチに腰掛け、川を見つめながらぽつりぽつりと言葉を交わした。は、水槽は新しいのに買い替えると言った。育三郎が産んだ子どもたちは無事だったのだ。天元が「今度は石なんて拾って来ねぇから」と言えば、は「宇髄くんのせいじゃないよ」と首を横に振った。誰も悪くない、と。
 少し間を置いたのち、はふと思い出したように言うのだった。

「私はさ、宇髄くんが腰抜け野郎だとは思わないよ。理由はよく分かんないけど、でも、そう思う」

 淡い笑みを広げたに、天元は鼻の奥がつんとするのを堪えながら「なんだそれ」と言った。けれどその声は、どこか震えていた。
 ――自由を求めてたどり着いたこの地で、この大学生活の中で、こいつの隣で。あの頃に刻まれた痛みがカサブタとなって、ほろりと落ちてくれたらいい。負ってきた傷が、跡形もなく消え去ってくれたらいい。
 なぜだか無性に、そう思った。




(2022.06.25)


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