第五話 恋の終わりと
部活中は一時間おきに腹が減る。高校時代に杏寿郎がそう言っていたことを、はずっと覚えていた。高校の頃は母お手製の弁当を三つ持参し、朝練の後、昼休み、部活の前に食べ、部活中は間食用のおにぎりを食べる。そんな食生活を送っていた杏寿郎なので、大学進学とともに親元を離れ、寮生活を始めた最初の頃は「腹が減って練習に集中できない」と、彼らしからぬ暗い声でぼやいていた。それならばと、はよくおにぎりやサンドイッチを作って杏寿郎に持たせていたのだった。
いつもは一緒に取っている講義の時に渡すのだが、今日はめずらしく杏寿郎が欠席していた。「どうしたの」とメッセージを送ったが、どれほど待っても既読が付かない。
心配になり、陽が傾き始めたころに剣道場へと向かえば、外のベンチに杏寿郎の後ろ姿を見つけた。水を飲みながら、向かいの寺の駐車場に停まる大型観光バスを眺めているようだった。
「杏寿郎」
ふと振り返った杏寿郎は、一瞬大きく目を開いたが、すぐにその視線をから逸らした。今日の講義はどうして休んだの。そう言おうと思ったが、いつもと違うその様子に、は言葉を引っ込めた。
「これ、もしよかったら……」
が差し出した赤い巾着袋に、杏寿郎は唇を結んだ。
いつもの杏寿郎であれば、突き抜けるような声でお礼を言い、今日は何の具だろうと目を細める。弾むその顔を見る瞬間が、はたまらなく好きだった。けれど今の杏寿郎は、目の前の巾着袋をなかなか受け取ろうとしない。
「、俺は――」
「杏寿郎さーん!」
紡がれようとした杏寿郎の言葉は、不意に割り入った甘ったるい声にかき消された。杏寿郎は、松葉杖を突きながらこちらへ歩いてくる人の姿を認めると、すぐさまベンチから立ち上がった。
――あのときの、女子。
は、杏寿郎が早足で駆け寄るその姿と、彼に向けて嬉しそうに笑む女子学生とを交互に見やる。彼女はに気づくと、その手にある赤い巾着袋に目を留めた。
「あーそれっておにぎりですか? また傷んじゃってたりするんじゃないですかー?」
間伸びした声の中には、どこか圧が孕んでいる。は彼女が口にした「また傷んでいるのでは」という言葉に眉根を寄せる。
「杏寿郎さん、今週末に大会控えてて大事な時期なんです。だからそういう菌が繁殖しそうな食べ物を差し入れるのは、ちょっと遠慮してもらいたいんですよねぇ」
は、自分に投げられている言葉をうまく処理できずにいた。不快なものを見るような目を向けてくる女子学生の隣で、杏寿郎は奥歯をぐっと噛み締めているようだった。
――誰? 剣道部のマネージャー? なんで松葉杖? あれ、この間までは「煉獄先輩」って呼んでなかった? 杏寿郎は、なんでそっち側にいるの?
鈍くなった頭の中を、疑問符がゆるゆると駆けめぐる。
杏寿郎は彼女に何か言葉を掛けたのち、の方へと近寄って来る。その後ろで、彼女はこちらを気にしながら剣道場へと戻っていく。しかしその口には、どこか勝ち誇ったような薄ら笑みがにじんでいた。には、「」と近づいて来る杏寿郎の動きがスローモーションのように見えた。
「少し話せるか」
二人はベンチに横並びに座り、しばらく押し黙ったまま、観光バスから人が降りてくるのを眺めていた。
「この間のおにぎり、腐ってたの?」
「……わからない」
沈黙を静かに終わらせたに、杏寿郎はどこか苦しげな声で返した。はひと呼吸置き、「そっか」と息を漏らす。
膝に乗せた赤い巾着袋の中には、大きなおにぎりが二つ。今日は、杏寿郎が好きなさつまいもご飯を握ってきた。の作る握り飯はどれもうまいが、やっぱりさつまいもご飯が一番だな。そう言って、曇り知らずの晴れた空のような顔で笑っていた杏寿郎が、今は曇天に押し潰されそうな表情で隣に座っている。
重苦しい空気を割くように、杏寿郎が「実は」と口を開いた。
「さっきの彼女と、付き合うことになった」
頭蓋の内側が殴られたような衝撃が走る。視界がぐらつく。息ができない。――声が、出ない。
「自転車を、彼女にぶつけてしまったんだ。彼女は足に怪我を負ってしまって、今週末の大会にも出られなくなった」
杏寿郎は眉間に皺を刻み、膝の上で握った拳を見つめていた。は、焦点を失ったような空虚な目で杏寿郎の横顔を見やる。
「通院に付き合うと申し出たが、それは断られてしまい……せめて何かできないかと言ったら――」
「付き合ってほしいってお願いされたの?」
杏寿郎は、こくりと頷いた。途端にの口からは渇いた笑いが漏れる。
「人が良すぎるんじゃない? 罪滅ぼしのために付き合うなんて。杏寿郎、あの子のこと好きでもなんでもないんだよね?」
「俺のせいで彼女は大会に出られなくなった。剣道で推薦入学した彼女にとって、入部して初めての大事な大会にだ。気落ちしている今、放ってはおけない」
「――や……」
「?」
糸のようにか細い声に、杏寿郎は思わずの方へと顔を向けた。
「やだって言ったの。そんなの絶対いやだ」
は身を乗り出し、杏寿郎の膝に乗る拳を掴んだ。それはまるで、去ってゆく人に縋り付くかのようだった。
「好き。私、杏寿郎のことが好き」
言葉と共に、涙が勝手にあふれ出た。かすむ視界の中で、は必死に杏寿郎だけを捉え続けた。
瞬きを忘れたようにしてを見つめていた杏寿郎だったが、次から次へと転び落ちていくの涙から逃れるように、顔を背けた。
「すまない」
拳の上に置かれていたの、かすかに震える指。それを杏寿郎は、そっと剥がした。
「ここで彼女の手を離すことはできない」
夜の繁華街には馬鹿しかいない。きっと居酒屋のトイレかどこかに脳みそを置き忘れて来たんだろう。
カラオケ屋のバイトを終えてバイク置き場に向かっていた天元は、飲食店の前でたむろする学生軍団に舌打ちをしながら「お気楽な野郎どもめ」と胸の中で毒づいた。
「はいはい注目ー! ここでちゃんからみなさんにお知らせがあるそうでーす」
不意に聞こえたその名前に、天元は立ち止まる。学生の群れをよく見てみると、その中に見慣れた姿があった。彼女は、他の学生から背を押されながら輪の中心へ出ると、周りの声援に応えるかのように手を振る。
――なにやってんだ、あいつ。
酒に酔っているのか、いつも澄ました顔にはへらへらとした笑みが浮かんでいた。
「えーっと、わたくしは、本日なんと……失恋いたしましたぁ!」
周りの学生から、おおっと声が上がる。指笛を吹く男子に、は「ありがとぉ」と頭を下げた。
「誰でもいいので慰めてくれる人はいませんかー? ただいま大募集しておりまーす!」
その言葉に群衆はより一層盛り上がりを見せる。はい、はい、と手を挙げる男女を掻き分け、
「おい馬鹿こっち来い」
と、天元は強引にの腕を引いた。すかさず囃し立ててくる群れを「うっせぇ! 帰って寝ろ!」と蹴散らしながら、天元は足元のおぼつかないを連れて、混沌とする繁華街をひたすら突き進んだ。
飲食店街の路地を抜けると、河川敷に出た。この街の北から南にかけて流れる川で、そのほとりには整備された河川敷があり、昼はランニングや散歩をする人のほか、アカペラサークルが練習をしていたり、男女が身を寄せながら語らい合っていたりと、多くの人で賑わう。夜も夜で、飲み会終わりの学生たちがコンビニで買った酒を片手に二次会をやっていたり、夜闇に紛れてカップルが睦み合っていたりと人の姿が絶えないが、天元は穴場を知っていた。河川敷をどんどんと北へと向かって歩いていく。その間、は何も言わなかった。天元も、何も聞かなかった。
大きな柳の木が見えてくると、天元は木のそばにあるベンチへとを座らせた。繁華街から少し離れたこの場所は、同じ河川敷でも人影がほとんどなく、夜らしい静けさも広がっていた。ちょっと待ってろと言い残し、天元はベンチを離れる。その背中を、はぼんやりと見送った。
すぐに戻って来た天元は、片手に掴んだペットボトルをへ渡すと、「水でも飲んで酔い覚ませ」と言った。
「……宇髄くんの言う通りだったよ」
天元が隣に腰掛けると、は抑揚のない声で呟いた。
「さらわれちゃった。杏寿郎、行っちゃった」
言いながら、はペットボトルをぐっと握る。ラベルの擦れる音が響いた。
天元はベンチに背をもたれ、空を見上げる。今日は見える星が少ない。厚い雲が、月をも覆い隠していく。
「だからって安売りすんな」
息を吐きながら言った天元に、は鋭い目を向ける。
「自分のこと大事にしてやれよ。誰でもいいから慰めてなんて、お前――」
「何それ? 恋愛ドラマ? 失恋したヒロインに先輩風吹かせながら薄っぺらーいアドバイスする友達みたいなセリフだね」
おえっと舌を出してみせただったが、それが引き金となり、本当に吐き気が催してしまったようだった。口を覆い、ベンチの裏へと回り込む。
「……あれ、吐けないや」
天元がその背中をさすってやると、けろりとした顔でそう言って、ふっと笑った。
「宇髄くんの手には不思議な力があるのかなー?」
「いや酔って気持ち悪いときは吐いた方がラクになんだろ。吐けよ、ほら」
「やだやだ! 吐かない吐けない吐きたくない!」
「くっそ、めんどくせぇヤツだな。じゃあ飲め!」
ペットボトルを口に差し込むと、はガッと目を見開いた。水が気管に入ってしまったのか、ごほごほと咳き込む。
「そりゃどっちの涙なんだよ。苦しいのか、悲しいのか」
咳をしながら涙を流すに、天元は呆れ笑うように言った。
「どっちもだよ」
震える声で言い返したは、抱え込んだ膝に顔を埋めるようにして身を小さくさせた。
「そんな地面に座ってたら体冷えんだろ。せっかくベンチがあるんだ、こっちに座れっての」
「……大事になんて、できる気がしない」
は膝に突っ伏したまま、くぐもった声で続ける。
「だってもう私は、杏寿郎におにぎりを渡すことさえ許されないんだよ? 今までずっとそばに居たのに……ずっとこの気持ち、大事にしてたのに……」
言葉はそこで途切れた。柳の木が風に揺れ、葉が擦れ合う。ふと膝から顔を離したは、踊るように揺れる柳を見上げた。
「もう何も大事にできる気がしない。大事にしたって、最後はこうやって粉々になっちゃうんだよ。そんなこと、ずっと前に……思い知ってたはずなのに……」
ふるふると震えながら紡がれた言葉は、最後の方にはかすれ声に変わった。の目尻からは涙がこぼれ、こめかみの方へと伝い流れていく。
天元は「ずっと前」という言葉を、頭の中で反芻した。
――ああ、きっとそれが、こいつの顔に影を感じる理由なのだろう。
詮索することではない。人には触れられたくないことがある。それを弁えている天元は、の肩に腕を回し、励ますように言った。
「分かんねーだろ、そんなこと。お前の未来のことを、今のお前が勝手に決めつける権利なんてねぇんだよ」
「……いや、あるでしょ。私自身のことなんだし」
「ねぇんだ。俺様がそう言ってんだから黙って聞いとけ」
「何それ。そんな、どっかのガキ大将みたいなこと……」
はそこで再び言葉を切った。川の流れる音と、どこかで鳴く蛙の声だけが鮮明に聞こえる。
「ねえ」と天元を見つめるの目は涙の余韻で潤み、街灯のあかりを受けて輝いていた。
「そこまで言うなら、宇髄くんがどうにかしてよ」
「――は?」
「私が私を大事にできるように、そんな未来が来るように……今の私を、どうにかしてよ」
途端に、天元は自分の胸の鼓動がうるさくなるのを感じた。そんな天元のことを、は反応をうかがうようにじっと見上げる。
「いーの?」
予想外の答えだったのか、それともその逆か。は、天元が息を漏らすように落とした言葉に目を少し見開いたのち、うんと頷いた。
天元はひとりでに緩む口を、咄嗟に手の甲で覆い隠す。しかし、が唇を淡く結んで言葉の続きを待っている様子だったので、緩みを直すためか、ぐっと握った拳で自らの口を軽く打った。
「いいんだな本当に。俺はお前のこと、そう簡単に手離すつもりねぇぞ?」
はぱちぱちと瞬きを繰り返しながら、唇を仕舞うように固く結んだ。酒のせいか、それとも天元の言葉のせいなのか、その頬は紅潮している。
天元は微笑しながら、の横髪を耳に掛けてやる。そうして、赤らんだ耳たぶにそっと触れながら、その耳元に囁くのだった。
「どっかの誰かと違ってな」
――お前は馬鹿な男だよ。なあ、煉獄。
(2022.05.21)
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