第三話 近づく



「宇髄は何時ごろ来るんだ?」

 濡れた髪をごしごしと拭いながら居室へ戻ってきたに、杏寿郎は時計を見上げてそう尋ねた。

「あれ、言ってなかったっけ? 宇髄くん、今日は都合悪いから来れないんだって」
「そうか! 宇髄も忙しいな」
「貧乏暇なしって言ってたよ。学費も生活費も全部自分で稼いでるらしくて」

 それはすごい、と息を吐くように言うと、杏寿郎は再びペンを動かし始める。そうだよね、と頷きながら、は空いた杏寿郎のグラスに麦茶を注いだ。
 明日は英語のテストがある。杏寿郎とが互いの家に集って試験勉強をするのは、高校時代から変わらない習慣だった。三人ですき焼きをした日から杏寿郎はすっかり天元に懐いたようで、何かにつけて「宇髄も誘おう」と言った。学食でランチをするときも、こうしてテスト勉強をするときも。しかしアルバイトを掛け持ちしている天元との予定はなかなか合わず、断られることの方が圧倒的に多かった。は、もしかして気乗りしないんじゃないかと踏んでいたが、杏寿郎はそれでもめげずに「宇髄、宇髄」と彼を引き入れようとするのだった。

「杏寿郎もお風呂どうぞ」

 寮の入浴時間はとっくに過ぎていた。部活で風呂に入りそびれがちな杏寿郎がの家で入浴するのはめずらしいことではなく、むしろ定番化していて、は杏寿郎用のバスタオルまで用意しているほどだった。

「そうだな。だがその前に」

 テレビ横のシェルフに無造作に置かれたドライヤーを手に取ると、杏寿郎はに向けて手招きをする。風呂上がりのの髪を乾かすのは、杏寿郎の役目だった。長い髪を乾かすのが面倒だとぼやくに、それなら風呂を貸してもらうお礼にと、こうして杏寿郎がドライヤーを当ててやるのだった。
 杏寿郎は手近にあるコンセントにプラグを差し、ベッドの縁へと腰掛ける。

「どうした」
「あっ……ううん」

 は首にかけたタオルで口元を隠しながら、ゆっくりと杏寿郎の方へと向かう。もう何度もドライヤーを当ててもらっているのに、少しも慣れない。むしろ緊張が増していっている。杏寿郎に身を預けて髪を触られるあの数分間、心臓がうるさいほどに高鳴っていて、このまま気を失うのではないかと思ったこともある。
 ベッドに背をもたれるようにして床へちょこんと座ったに、杏寿郎は頬をほころばせた。そうして彼女の髪を一房手に取ると、

の髪は柔らかいな」

と、感触を確かめるように指を擦った。

「そう? 結構傷んでるよ。指も絡まりやすくて……」

 照れたようにぼそぼそと言うの言葉を、ブォーッというドライヤーの音がかき消した。
 髪を乾かすときの杏寿郎の手つきは、乱暴なわけではないが、おだやかな動きとも言えない。どちらかといえば激しめだった。髪の水分を飛ばすことに熱中するあまり、指先に力がこもるのだろう。爪は短く切り揃えられているので、頭皮に痛みが走ることはない。けれど体の中心に軸を通していないと、頭を持って行かれそうになる。その勢いの良さが杏寿郎という人を表しているようで、はいつも笑ってしまうのだった。

「む! 困ったことになった!」
「えっ――」
「動くな! 髪が吸い込まれてしまった!」

 頭皮がグッと引っ張られる感覚に、は「あっ」と小さな悲鳴を漏らす。ドライヤーの背部にある吸気口に髪が吸引されてしまったのだった。

「きょっ、杏寿郎、引っ張ったらだめ……」
「すまない!」
「あのさ、このまま一緒に立ち上がって」
「どうするつもりだ?」
「切る。切るの」

 返事が来ないのは、きっと責任を感じているからだろう。背中を向けているので杏寿郎がどんな表情をしているかは分からなかったが、「すまない」というその声色から想像はできた。唇をきゅっと結んで、眉を下げているのだろう。
 コンセントを抜き、せーの、という掛け声で同時に立ち上がると、の誘導のもとで台所へ向かう。戸棚を開けてキッチンバサミを手に取り、背後に立つ杏寿郎へと渡す。

「切ってもらってもいい?」

 うむ、と喉を鳴らした杏寿郎は、少し間を置いたのちにハサミを受け取る。そうして、「いくぞ」と緊張のにじむ声を落とした。深刻に受け止めてほしくないという思いから、は「オッケー」と軽やかに返す。
 髪が切られるシャキ、という細く尖った音とともに、杏寿郎の唸り声が聞こえた。

「すまない」

 ようやく自由になった頭を後ろへ向けると、ドライヤーとハサミを持った杏寿郎が、とんでもないことをしてしまったと言わんばかりの表情でこちらの反応をうかがっていた。その様子が犬のように思えて、は頬をゆるめる。

「大丈夫だよー。そんな大したことじゃないからさ」
の大事な髪を切ってしまった」
「ほんの何本かだけでしょ? 何もしなくても毎日勝手に何十本って抜け落ちてるんだから、このぐらいノーダメージだよ」
「だが……」
「いいってば」

 は杏寿郎の足元に垂れたドライヤーのコードを拾い上げると、ベッド脇のコンセントへとプラグを差し込む。そうして杏寿郎に向けて、ちょいちょいと手招きをした。

「乾かしてくれるんでしょ?」

 杏寿郎は切ってしまったの髪を左手に摘んだまま、こくんと頷いた。そのまま近づいてくる杏寿郎に、は「ちょっと待って」と手で制しながら、ローテーブルにドライヤーを置く。

「その髪はもう捨てていいから。ほら、ここに――」

 白い筒状のゴミ箱を持ち上げ、杏寿郎の方へと向き直ったとき。わっ、という声とともに、黒い影が落ちてきた。わずかな痛みと、それと相反する心地よさが同時に背中を襲う――。ぎゅっと瞑っていた瞼をおそるおそる持ち上げれば、そこでは目を大きく開いた杏寿郎が、こちらを見おろしていた。ドライヤーのコードを跨ごうとして足先に引っかかり、そのままをベッドへ押し倒してしまったのだ。杏寿郎はが後頭部を打たないようにと腕を回していたので、二人の顔は息がかかりそうなほど間近に迫っていた。

「……すまん」

 ほとんど囁くように言うと、杏寿郎はゆっくりと身を起こす。体の下から抜かれていった硬い腕。仰向けに倒れたままのは、腰や背中に残った腕の感触を確かめるように、指先でそっと撫ぜるのだった。






「杏寿郎に抱きしめられちゃった」

 アイスティーの氷をストローで弄びながら、はぼそりと呟くように言った。
 文学部棟を出てすぐに「宇髄くん」と声を掛けられ、キャンパス内にあるこのカフェテリアへと連行されたのが三十分前のこと。何か話があってここへ連れて来たのだろうとは思っていた。けれどは、さっきの講義で教授が足滑らせて転んでたの、とか、宇髄くんは今日なんのバイトなの、といった具合に、なかなか本題に入ろうとしなかった。天元が痺れを切らしたように「どうした」と訊けば、は途端に顔を赤らめてそう返したのだった。

「何の用かと思えば、そんなことかよ」
「そんなことって……! 私としては大事件だったから、自分の胸にしまっておくことができなくて、だからこうして宇髄くんに報告した次第で――」
「で、何? 私たち晴れて恋人同士になりましたってわけか?」

 天元は半分からかうように言いながら、メニュー表を広げる。別に、何か食べたいわけではない。ただ、そうでもしていないと気持ちが落ち着かなかった。しかしが「ううん」と首を横に振ったことで、胸の内でざわめき始めていたものがゆっくりと引いていくのを感じた。

「杏寿郎がドライヤーのコードに足引っ掛けて、近くにいた私もろともベッドに倒れちゃったんだよね」
「……抱きしめられたってのは、ベッドに倒れた後の話か?」
「ううん。倒れるときに、私が怪我しないように守ろうとして、こう……咄嗟に腕を回した、っていう感じかな」

 天元は目を丸くし、ぱちぱちと瞬きを数回繰り返したのち、

「それって事件じゃなくて、ただの事故じゃねーか」

と、胸につっかえていたものを吐き出すように笑った。途端には口角を下げる。

「たとえ事故でも……」
「んー?」
「……うれしかったんだもん」

 口ごもるように言ったに、天元は「へえ」と短く返した。は少し不服そうに唇を結び、ストローでアイスティーをかき回す。氷がゆるゆると回転ながらガラスコップの側面にぶつかる。カランカランというその音に、天元はふと、杏寿郎のことを思い起こした。
 前に三人でこの店へ来たとき、は今のようにストローで氷を追い回していた。彼女の癖なのだろう。そんなに、杏寿郎は「氷がかわいそうだ」と言ったのだ。何それ、とは笑ったが、杏寿郎は真面目な顔をして「あまりいじめてやるな」と続けた。そんな杏寿郎を見ながら思った。氷の気持ちには目を向けられるのに、すぐそばで自分を想い続けている女の気持ちには気づかないんだな、と。慣れているのかもしれない。人から向けられる好意というものに。愛されることが当たり前になっているから、だから、気づかないのかもしれない――と。

「なんか宇髄くん、喜んでる?」

 不意に飛んできた尖った声に、天元は「は?」と首をひねる。

「私と杏寿郎が付き合いはじめたわけじゃないんだって分かって、ホッとしてる感じがする」
「なんだよそりゃ」
「ねえ、もしかして宇髄くんって……」

 は眉根を寄せて目を細め、ぐっと前に乗り出す。

「杏寿郎のこと好きなの?」

 ブフッと噴き出した天元に、も口の端をゆるませた。そうして前のめりになっていた体を元の位置に戻すと、はあ、と悲劇めいたため息を漏らす。

「宇髄くんに勝てる気がしないなあ……どう戦おっかなあ」
「ま、俺はいい男だからな。お前みたいな地味な女がこの宇髄天元さまに張り合おうなんざ、百万年早いってもんよ」
「いやあ、まさかこんな身近にライバルがいたなんて。灯台下暗しってこういうことなんだねぇ」

 冗談っぽく笑った後で、ふと思い出したように「地味な女っていうのはただの悪口だよ」と唇を尖らせた。そうしては再びストローを指で挟み、くるくると弧を描きはじめる。

「氷をいじめるな」

 その言葉に、はゆっくりと目線を上げた。

「……なに宇髄くん、杏寿郎のマネしたの? 全然似てないんだけど」
「そうだな。俺にはあいつのマネなんかできねーよ」

 どこか含みを持たせたその口ぶりに、先ほどまでのジョークとは何かが違うと察したのか、は身構えるような表情で天元を見据えた。
 
「前にも言ったけどよ、あいつとどうにかなりてぇんなら、なんか行動した方がいいと思うけどな」
「……」
「お前がそうやって友達の座であぐら掻いてる隙に、したたかな女が横から奪っていっちまうぞ」

 は背もたれに深く寄り掛かると、すうっと息を吸い、深く吐く。天元は上下する彼女の胸の膨らみから目線を逸らし、冷めきったコーヒーをひと口飲む。

「煽るよねぇ、宇髄くんって。なんでそんなに白黒付けさせたがるの? もし私がフラれたりしたら、宇髄くんのせいにするよ?」
「別に構わねぇけど? どろどろになるまで慰め倒して、煉獄のことなんか忘れさせてやるよ」

 薄い唇に浮かんだ艶っぽいその笑みに、は一瞬たじろいだ。口をぱくぱくとさせているが、なんと言葉を返したらいいか分からない様子で、そのまま取り繕うようにストローを咥えた。天元はそんなの反応を観察しながら、テーブルに肘をつき、自分の口元に手を当てる。それはまるで、ゆるむ唇を覆い隠すような仕草だった。

「そういや、煉獄の反応ってどうだった?」
「反応?」
「ベッドに転がった後の」

 は記憶をたどるように目線を左上へ向ける。

「すまんって謝ってた。でもなんか声小さかったし、その後はちょっと大人しくなったかな。で、すぐ帰った」
「……へえ」

 なんだ、あいつも少しは意識してんのか。そう思いつつ、天元は視線を窓の外へと投げる。ついこの間まで桜を咲かせていた木々が、今は若葉をたずさえて風に揺れている。湧き立つようなその緑の中に、赤いものが見えた気がした。ああそういえば緑と赤って色相環で言うところの反対色なんだよな、とぼんやり考えていると、

「杏寿郎だ」

と、天元の視線の先をたどったが呟いた。カフェテリアから少し距離があるので顔までは見えなかったが、あの姿形は確かに杏寿郎だった。枝に引っかかった何かを取ろうとしているのか、大木によじ登っている。その周りでは、男子学生たちが指差しながら杏寿郎に向けて言葉を掛けているように見えた。
 天元が「あいつ何やってんだ」と声を発するより前に、は慌ただしく席を立つと、外へ駆け出した。おいおいと思いつつ、の置いて行った荷物を持つと、天元も後を追うようにして店を出るのだった。




「杏寿郎!」

 男子学生たちを掻き分けながら大木へと近づくと、は泣き出しそうな声を上げた。杏寿郎は枝に引っかかった黄色いフリスビーを取ろうと腕を伸ばしているところだった。そこへの声が飛んできたので、ビクッと肩を上げたのち、地面の方へと顔を向ける。

「ねぇ危ないよ! はやく降りてきて!」
「だが彼らが困っているから――」

 言葉が終わらぬうちに、杏寿郎の体がぐらついた。あっ、と声を上げる間もなく、彼の体は木の幹から離れ、そのまま落下していく――。が一歩前へと踏み出すより先に、その視界を黒い影が横切った。

「バカ野郎」

 杏寿郎の体は地面ではなく、天元の両腕へと落ちたのだった。木の近くに集まっていた群衆はしんと静まり返っていたが、次第に拍手が沸き上がってくると、最後には指笛を伴った喝采となった。いわゆるお姫さま抱っこの状態で天元の腕に収まる杏寿郎は、

「すまん宇髄、助かった!」

と、口角を上げた。その片手にはしっかりとフリスビーが握られていて、天元は呆れ返ったように「お前ってやつは」とため息混じりに言う。天元がふと視線を横に向ければ、そこではが目にたっぷりと涙を溜めて、唇をかたく結んでいるのだった。




「杏寿郎ってさ、高校生の時に木から落ちて入院したことあるんだよね。足骨折して、しばらく剣道もできなくなって。あの時も今日みたいな感じで、誰かの何かが枝に引っかかって、それを取ってあげようとして落ちちゃったらしいの」

 杏寿郎は男子学生たちに混じってフリスビーで遊んでいる。その様子を遠巻きに見ながら、はそう話した。天元はベンチに背をもたれ、少し痛む腕を揉みながら「ふぅん」と喉を鳴らす。が手に持っているアイスコーヒーは、フリスビーを取ってくれたお礼だと言って、男子学生たちがカフェテリアで買ってきたものだった。杏寿郎と天元の分しかなかったが、杏寿郎が「俺は喉が渇いていないから」と自分のアイスコーヒーをに渡した。
 
「杏寿郎のああいう、人のために動けすぎちゃうところが……」

 最後の言葉は、杏寿郎たちの笑い声で掻き消されてしまった。けれど天元は人よりも耳がいい。が、「ちょっと怖い」と言ったのを、確かに聴いた。
 天元は水滴を滴らせるアイスコーヒーを見おろし、口を開く。
 
「……俺はまだお前らのことよく知らねぇけど。でもお前って、そういうところも全部引っくるめてあいつに惚れたんじゃねーの?」

 言いながら、なんで俺はバイト前の貴重な時間を潰してこいつらの仲人みたいなことやってんだ、と自分に呆れた。けれど「宇髄くん」と声を掛けてくるのことは、なぜだか振りほどけないような気がしたのだ。

「そうだね」

 こわばっていたの顔から、力がふっと抜けた。天元はそんな彼女の後頭部に目を留め、「あれ? お前……」と手を伸ばす。

「なんかここだけ髪短いな」

 つむじ近くの一部分だけ、辺りの長さとは異なっていた。不自然に切り揃えられたそれは、とても美容師の仕事とは思えない。口をぽかんと開け放っていただったが、「ここだよ」と髪をつんつん引っ張ってくる天元に、ふふっと声を漏らして笑った。

「さすが、すけこましは女の変化に敏感ですね」

 なんだと、と髪を強く引かれると、の頭はがくんと後ろに倒れる。

「ちょっ、やめてよ宇髄くん! 抜けちゃう! 禿げちゃうよ!」
「おう禿げろ禿げろ」

 やだ、と首を振りながらも、の口は笑っていた。
 そこで、ふと視線を感じる。の髪を摘んだまま顔を向ければ、フリスビーを持った杏寿郎が、こちらをじっと見ていた。天元と杏寿郎の視線が合う。そこで彼がどんな表情を見せるのか、天元は目を細めてうかがっていた。嫉妬の色が浮かべば、を異性として認識しているということになるだろうと踏んでいた。はたして――。

「二人は仲が良いな! なぜだか俺もうれしくなる!」

 杏寿郎は、ひとつの濁りもない澄みきった笑みでそう言った。天元は一瞬目を丸くしたのち、脱力したようにハッと息を漏らした。

「え、私たちって仲良いの?」

 訝しげに首を傾げるに、天元は子をあやすような口調で言った。

「これからもっと良くなるだろうな」

 そうしての頭をぐしゃぐしゃと撫でまわす。やだやだ、と軽く抵抗しつつも、彼女はまた笑った。天元もそんなを見ながら、目尻をゆるませるのだった。




(2022.04.27)


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