第二話 ねごと
天元の住む築四十年の木造アパートとは違って、の住む家はオートロックのモニター付きドアホンで、セキュリティの整ったマンションだった。一口コンロのキッチンは使いやすいよう小綺麗に整理されていて、普段から自炊していることがよく分かる。
キッチンを抜けると、扉を一枚挟んだ先に居室があった。ベージュを基調にした部屋がやわらかな雰囲気を生んでいて、天元は一瞬、そこへ立ち入るのをためらった。
「荷物はその辺に適当に置いてね」
はそう言って、廊下に突っ立つ天元の背中をポンッと押した。
「宇髄!」
天元が部屋へと入ると、座椅子に腰掛けていた杏寿郎が「こっちに座るといい」と席を空ける。丸型のローテーブルには、ガスコンロがセットされていた。
「え、なに。お前らまだ食ってねーの?」
コンロに乗せられた鍋の中は、汁ひとつない。天元が尋ねれば、と杏寿郎は顔を見合わせ、くすくすと笑った。
「さつまいもご飯を夢中で食べてたら、すき焼きするの忘れちゃってて」
「……は? そんなことある?」
「宇髄もどうだ! のさつまいもご飯はうまいぞ」
杏寿郎が、小脇に置かれた炊飯器をパカッと開けた。途端に芋の香りが広がる。「じゃあ少し貰うわ」と返せば、杏寿郎はうんうんと頷き、茶碗に山のごとく盛るのだった。
こんなに食えねぇよと思いつつも、差し出された茶碗と箸を手に一口頬張る。すき焼きの存在を忘れるほどうまいのかどうかは分からない。けれど、舌に広がる米の甘みと芋のほっくりとした食感に、これは確かに箸が止まらないなと思った。
「うまいな」
「本当? 良かった」
「俺、さつまいもご飯って初めて食うわ」
えっ、という二つの声に、天元は少し罰が悪そうに「そんなに驚くことか?」と言った。
「こういうザ・家庭料理っつーもんに、あんま縁がなかったからな」
「普段は何食べてるの?」
「今? 今はまあテキトーに、コンビニで買ったやつとか」
「宇髄の好物はなんだ!」
「別にこれっつーもんはねぇけど……強いて言うなら、フグとか?」
と杏寿郎は再び顔を見合わせる。
「私、フグなんて食べたことないよ。もしかして宇髄くんって良いところの御曹司だったりする?」
の言葉に、天元は曖昧に笑った。その反応に何か察したのか、はそれ以上言葉を重ねることはなかった。代わりに「じゃあすき焼き食べよっか」と言って立ち上がると、冷蔵庫から肉や野菜を取り出す。そこで部屋の隅に置かれたビニール袋に目を留め、「あっ」と声を漏らした。
「宇髄くんお酒買って来てくれたの?」
「おう。ビールしかねぇけど、飲める?」
は頷きながら「ありがと」と笑んだ。一方、杏寿郎の視線は霜降り肉に釘づけで、ビールのくだりはまるで耳に入っていない様子だった。熱した鍋に入れた肉がじゅうっと焼ける。その音と香りに、杏寿郎は「うまそうだな!」と目を輝かせるのだった。
誰かの家で飲むなんて、初めてだった。
天元が持って来たビールを一本飲み終える前に、杏寿郎は顔を真っ赤にして眠りに落ちてしまった。はほんのりと頬を染めながらも、ちびちびと飲み進めている。
「お前結構飲めんの?」
「どうなのかなあ。長く細く飲むタイプなんだとは思うけど」
まだそこまで飲み慣れてないから分かんないや、と笑いをこぼす。そうして、眠る杏寿郎に顔を向け、
「杏寿郎はお酒、全然だめなんだよ。なのに飲んじゃって……きっと宇髄くんと話すうちに楽しくなっちゃったんだね」
と、目を細めた。天元はそんな二人の顔を交互に見ながら、缶ビールを一口飲む。
杏寿郎は、ここから自転車で十五分ほどのところにある学生寮に住んでいると言った。入浴できる時間が決まっているので、部活で帰りが遅くなったときにはの家で風呂に入らせてもらうらしい。ついでに夕飯も一緒に食べて、気付いたら眠りこけて朝を迎えることもめずらしくなく、無断外泊で何度も寮母に叱られている、と笑っていた。「合鍵も持っているんだ」と言う杏寿郎に、そんなのほとんど恋人同士じゃねぇかと、天元は心のうちで突っ込んだ。
スマホのバイブが鳴った。ポケットから取り出し、通知画面を見る。それは、昼間にキャンパス内で声を掛けてきた女子からのメッセージだった。ブロックするのをうっかり忘れていた。「いつ会おっか」という文字に目の下をぴくりと痙攣させていると、
「ねぇ、宇髄くん」
ぼんやりとした声色に、天元は顔を上げる。
「宇髄くんは、寂しくない?」
はテーブルに頬杖を突き、杏寿郎の寝顔を見ながらそう訊いた。
「……俺が寂しそうに見えんの?」
問い返せば、は視線を天元へと流し、
「自由に見える」
と、ゆっくり瞬きをした。
「自由って孤独だなあと思うから。だから、寂しいんじゃないかと」
その言葉に、天元はぴたりと動きを止めた。
――自由。それに憧れて、実家を出たのだ。
自分の意思と反して物事が展開していくことの恐ろしさを、知っている。異母兄弟が何人もいる歪な家に生まれて、しょうもない後継争いのため、他の兄弟に追いつけ追い越せで常に尻を叩かれ続けた幼少期。それぞれの母親たちにとって、父に自分の子を認めてもらうことがこの世の全てだった。そのうち意思すらも抱かなくなって、もはや母親の操り人形と化していく兄弟たちを見ながら、自分もいつかああなるのだと察した。諦めようと思った。でも、諦めきれなかった。
「……なに悟ったようなこと言ってんだ」
もがいてやっと手にした自由だ。けれど今はなぜだか、だだっ広い空間に放り込まれたかのような気になってる。何もないこの空間を埋めなくてはいけないと、常に焦燥感に駆られる自分がいた。――そうだ。これは寂しさではない。焦りだ。
「お前は寂しいのか?」
新しい缶を開けながら天元が訊けば、はふるふると首を横に振った。
「今は平気だよ。二人といると、寂しくない」
「煉獄といると、だろ」
「……え?」
「だってお前、こいつに惚れてんだろ?」
すやすやと眠る杏寿郎を親指で指す天元に、は「そ、そんなんじゃない」とつっかえながら言った。思いのほか大きな声が出てしまったことに自分でも驚いたのか、口を手で覆う。
「なんで伝えねぇの?」
は杏寿郎が身ひとつ動かさずに眠り続けているのを確かめると、ゆっくりと手をおろし、
「今の関係を壊すことになったら、嫌だから」
と、ほとんど囁くように言った。その横顔には、うっすらと影が落ちているように見えた。
曇りのような女だと、改めて思う。その顔も、声も、雰囲気も、一枚の薄布に覆われているかのように輪郭がぼやけている。けれど煉獄と話しているときは、違った。光に照らされて霧が晴れるように、の纏うあれこれが消えるように見えた。
「ま、いーけどよ。でもお前さ、好きならなんとかしねぇと。こういう男は、既成事実を作る女に横からサーッて持ってかれちまうんだから」
が「そうなの?」と目を丸くするのと、杏寿郎が寝返りを打つのは、ほとんど同じタイミングだった。は杏寿郎の健やかな寝顔をまじまじと見つめながら、手を伸ばして缶を掴む。
「おいおい、それ俺のビール」
天元の言葉は、の耳には届いていないようだった。彼女はビールを一口飲み、
「……それも嫌」
と、膝を抱えるのだった。
平気なふりをして、その実、深い繋がりを欲してる。それが、と自分との共通点だと思った。
どれほど時間が経ったのか。ふっと目を覚ました天元は、一瞬、ここがどこだか分からずいた。カーテンの隙間から、うっすらとした光が漏れている。少しだけカーテンを開けてみる。なだらかな曲線を描く山々の向こうが、淡いピンクに染まっていた。
ふと隣を見やる。カーペットの上で横になる杏寿郎と、その背中に寄り添うようにして眠る。どこかあどけなさを滲ませる彼女の寝顔に、天元はふっと頬を緩めた。
「ガキみてぇ」
あれからは天元のビールを飲み干し、電池が切れたようにして眠った。酒を奪われた天元はまだ飲み足りない気がしていたが、二人の寝息を聞いているうちに視界がぼやけはじめ、そうして彼もまた、カーペットの上に寝転んだのだった。
上体を起こした天元は、テーブルに置いていたスマホに目を落とす。あの女子からまたメッセージが入っていた。どんだけヤりたがってんだよと辟易しながら、ブロックのボタンを押した。
あと二時間後にはバイトだ。その前に、すき焼きをご馳走になった礼に朝食でも用意して行こうか。そんなことを考えていると、視界の端で影が揺れた。見れば、杏寿郎がゆっくりと寝返りを打っているところだった。大の字に広げたその腕が、の体に乗る。よほど苦しかったのか、は眉根を寄せながら杏寿郎に背を向ける。杏寿郎は、そんなを後ろから引き寄せるようにして抱きしめた。
これで付き合ってねぇとかまじかよ。天元は思わずそうこぼしつつ、二人の様子を観察する。
「……せん、じゅろ……う」
千寿郎。それが弟の名前だということは、すでに知っていた。鍋を食べながら杏寿郎が口にした話題といえば、部活、弟、主にこの二つだ。
「おいお前、弟だと思われてんぞ」
の頬を軽く突く。指がふにふにと沈む感覚が、やけに心地よかった。は、んー、と喉を鳴らして、瞼をかすかに開いた。
「……もう朝?」
「もうじきな。朝メシ何がいい?」
再び目を閉じたは、もごもごと口を動かしている。
「……ま、ご」
「なに?」
かすれ声を発するその口元に、天元は耳を寄せた。
「たまご」
ぐ、っと胸が締まる。
――なんだ、この感覚。
一瞬止まったように思えた鼓動を再び動かすように、胸元を拳でごんっと打った。
「卵って、具体的にはなんだよ」
ゆで卵なのか、目玉焼きか、卵焼き、いやスクランブルエッグか。でも昨日のすき焼きで卵使い切ったんじゃねーのか。
そんなことをあれこれ考えているうちに、再び眠気が襲った。天元はカーペットにごろんと横たわると、を包む杏寿郎の腕をそっと剥がす。そうして、すうすうと寝息を立てるを、自分の方へと静かに抱き寄せるのだった。
(2022.04.01)
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