第一話 春惑い



 春は嫌いだ。こちらの支度は何一つ整っていないのに、すべてを一新させようと強引に促してくる感じがするから。そんな春を素直に喜び、陽光に芽吹く植物や生物のように人の気持ちも上を向くと信じているやつらが、おめでたく思えて仕方ない。そういうタイプはきっと、快晴の日ほど気持ちが深く沈む人間がいることを知らないんだろう。光と闇は表裏一体。陽が強いほど、影が際立つのだ。

「……おめでてぇな」

 キャンパス内にあふれる新入生と、それを囲むようにして建ち並ぶサークルのブース。新歓祭に沸くキャンパスの隅で、天元は群衆を一瞥したのち空を仰ぐ。桜木の下のベンチには、天元以外に人はいなかった。それは彼が占領しているから、と言ってもいい。ギターを抱え、その両脇に荷物を置いているため、座ろうにも座れない。何より、彼は人を跳ね除けるようなオーラを放っていた。
 こんな日に大学へ来るつもりなんてなかった。美術史専攻の教授から呼び出しを受けて、わざわざバイクを走らせて来たのに、学会に出掛けていて夕方にしか戻らないという。適当な野郎だと悪態を吐きつつ、出直すのも面倒なので、教授が戻るまでキャンパス内で時間を潰していたのだ。

「あーあ、待機分の時給払えっての」

 学費を稼ぐためにバイトを掛け持ちしている。授業の前にガソリンスタンドのバイト、終わればカラオケ屋のバイト、たまに単発のバイトも入れる、そんな日々だった。今日は久しぶりに、夜のバイトしか入っていない日だったのに。あの教授め。学生は時間が無限にあると思ってやがってるな。
 チッと舌を打ち、気を紛らわせるようにギターの弦を鳴らす。

「あ、宇髄くんだ」

 どこかぼんやりとしたその声に顔を上げれば、立ち止まってこちらを見る男女がいた。

「宇髄! 桜の下でギターとは粋だな!」
「弾いてるとこ初めて見た。いつもギター背負ってるなーとは思ってたけど」

 こちらの反応に構わず距離を詰めて来ると、天元を真ん中に挟んで両サイドに座ろうとするので、「待て待て荷物どかすから」と慌ててスペースを空ければ、二人は口々に「ありがとう」と言った。
 昨年の春に大学へ入学して、初めてまともに会話をしたのがこの二人だった。煉獄杏寿郎と。同学部でも専攻は違うが、英語のクラスが同じで、最初の授業で席が前後になったことから、顔を合わせれば少し話す程度の仲になった。二人は高校からの馴染みで、煉獄は推薦、は一般入試で、一緒に地元から出てきたらしい。

「何の曲弾いてたの?」

 天元の右手側に座るが、ギターをまじまじと見つめながら訊く。

「あー、別に何ってわけじゃねぇよ。テキトーに鳴らしてただけで」
「ふーん。Time After Timeかと思った」
「……は?」
「違う?」

 口の端をゆるやかに上げたに、天元は目を見開く。その反応に彼女は「ビンゴ」と笑んだ。
 驚いてしまったのは、こんな喧騒の中で曲を聴き当てたことに対してではない。無意識のうちに奏でていたのが、母親が昔よく聴いていた曲だったことに驚いたのだ。
 なんで今更、あんな女のことを――。脳裏にこびりついて離れない母との記憶を、まるで頭の奥深くに仕舞い込むように、天元は額を指でトントンと叩いた。

「お前、耳いいんだな」
は地獄耳だからな!」
「ちょっと杏寿郎、言い方」

 天元の左手に座っている杏寿郎は、突然真横で響いた大声に顔をしかめている天元に構わず、グッと顔を近づける。

「歌もうまいぞ!」

 我が事のように言う杏寿郎に、天元は「そうかよ」と身を引き、距離を取ろうとする。
 ――ああこいつは、眩しすぎるんだよ。
 汚いものなんて見たことがないような、そんな曇り一つないその眼が、少し心地悪かった。天元は杏寿郎から視線を逸らし、の方へ顔を向けた。彼女はなぜだか、少し照れたように目を伏せている。日差しを浴びて、たっぷりとしたそのまつ毛の下には影が落ちていた。

「別にうまくなんてないよ」

 初めて会ったときから、にはどこか似たものを感じていた。
 ――煉獄が快晴なら、こいつは曇りだな。
 どこか影のあるタイプだと思った。だから、接するのが苦じゃなかったのだ。

「お前、何歌えんの?」
「……え?」
「聴いたことある曲なら大体弾ける。絶対音感あるからな、俺」

 ふんっと鼻を鳴らして得意げに言えば、杏寿郎が「すごいな!」と声を上げる。

「言えよ。弾くから。んでお前歌ってみ」

 口元に手を当て、考え込むような仕草を見せるを、天元は弦を撫でるように弾きながら待った。

「じゃあ、Time After Timeで」
「……歌えんのかよ」
「うん。お母さんがよく聴いてたから」

 へえ、と短く返した天元は、一瞬どこか遠くを見るような目をした。しかし何かを振り払うようにぶるっと首を横に振ると、「じゃあ」とと視線を合わせる。彼女はこくりと頷き、天元の指先が弦を弾くのを待った。そうして、ゆっくりと音を紡ぎはじめたギターに、ふうっと息を吸う。
 その第一声に、天元は思わずギターを弾く手を止めそうになった。流れるような息に乗せて、やわらかく澄んだ声をぽつりぽつりと響かせる。時折ざらつく低音も、甘やかな痺れとなって耳に届く。
 杏寿郎の様子を横目で窺い見ると、彼は腕を組み、目を閉じて、歌声にじっと耳を傾けていた。ふと顔を正面に向ければ、道ゆく学生たちは足を止め、歌に聞き入っている。本人は目を閉じて歌っているので、周囲の様子に気づいていないようだった。

「あ、ここから歌詞分かんな――え?」

 ぱちりと瞼を押し開けたとき、目の前に人だかりができていれば、誰でも同じような反応をするだろう。呆気に取られたように瞬きを繰り返すに向けて、杏寿郎が手を叩き合わせた。すると周囲からもぱらぱらと拍手が鳴り始め、最後には大きな渦となり、八方から指笛も飛んできた。すかさずアカペラサークルと軽音楽部が勧誘チラシを持ってを取り囲む。「二回生なの?」「なんで音楽系のサークルに入ってないの?」そんな質問攻めにあう中で、は救いを求めるように天元を見上げた。

「あーこいつは俺の専属だから。すみませんねぇ。っつーことでホラ、散った散った」

 天元がひらひらと手を振れば、勧誘の学生たちは名残惜しそうに引いていった。

「な、言っただろう。は歌がうまいんだ」

 うそだろ煉獄。お前のそばには、いつもこの声があったのかよ。誇らしげに言う杏寿郎に、天元は胸の内でそう呟いた。
 強引に握らされたサークルの勧誘チラシに目を落としているへ、天元が尋ねる。

「お前って英米文学だっけ。帰国子女?」
「え? いや……国文学だし、外国も行ったことないけど」
「あっそ」
「なんで?」
「ネイティブみたいに歌うから」
「えー? 褒めすぎじゃない? ただ音を真似てるだけだよ。歌詞の意味もよく分かってないし」
「へえ。やっぱ耳がいいんだな。なんでサークルとか入んねぇの?」

 先ほどの学生の言葉をなぞるように尋ねれば、は首を傾げ、

「興味ないもん」

と、あっさりと答えた。

「歌うことは好きだけど、どこかに所属して誰かと何かをするのは別に。一人で自由に歌ってたいから。……あ、でも宇髄くんのギターで歌うのはすごく楽しかったよ。ありがとう」

 そうして天を仰ぎ、風に揺れる桜を見上げながら、「ほんとに楽しかった」と呟く。その横顔から目を離せずにいると、「天元!」という声に邪魔をされた。顔を向ければ、こちらに手を振る女子学生と、その友人らしき女子が二、三人。「おう」と軽く振り返すと、「また連絡するね」とはにかみ、去っていく。しかし天元はその後ろ姿に息を吐き、連絡が来る前にブロックしようと決意するのだった。
 ――いっぺん限りの関係だと言ったはずなのに。あいつも一回寝ればすぐ彼女ヅラするタイプの女だったんだな。ああ、うっとうしい。

「宇髄くんってさ、大学入ってから何人目なの?」
「――は?」
「彼女」

 無遠慮に問うに「なんでそんなこと訊くんだよ」と言えば、「ただの興味」と返事が返ってくる。はたして本当に興味があるのか分からないような、何の執着もない声色だった。
 ため息混じりで杏寿郎の方へ目を向ければ、彼は腕組みをしたまま、口角をきゅっと上げて視線を返してくる。その目には好奇心が輝いているように見えた。天元はもう一つため息を落とし、弱ったように言う。

「いちいち数えてねーよ。そもそも彼女だとも思ってねぇから」
「なるほど! すけこましだな!」
「……あのさ俺、さっきからお前との会話の仕方がイマイチ分かんねぇんだけど」
「そうか! ではもう一度言おう。俺が思うに、君はすけこましだ!」

 杏寿郎は天元へ体ごと向け、一層声を張り上げた。会話のキャッチボールの仕方が分からないのであって、内容は理解している。それなのに全く同じことを、声量を増して繰り返されてしまった。天元は思わず半笑いになる。

「なるほど。お前って結構えげつないことをストレートに言ってくれるんだな」
「ありがとう! 教師を志す者として、相手に誤解を与えないよう分かりやすい物言いを心掛けているからな」
「……皮肉も効かねぇと来たか。こりゃ手強いわ」

 こいつどうにかしろよ、というふうに親指で杏寿郎を指しながらを見やると、彼女はスマホに目を落とし、「すけこまし」と検索していた。

「女性をたらし込むのがうまい人……なるほど」
「なるほどじゃねぇわ! 別にそんなつもりじゃねーよ。向こうが勝手に寄って来るだけで。……こっちはそんな暇もねえってのに」

 ふーん、と喉を鳴らしたは、輪郭のぼやけた声で言う。

「忙しいなら断ったらいいのに。それでも受け入れるのはなんで?」
「……あ?」
「寂しいから?」

 その言葉に、天元はヒュッと息を呑む。鼓動が一瞬、止んだようにも思えた。
 目を見開いたままの天元に、は少し罰が悪そうに眉を下げた。その口が「ごめん」と紡ぐのを遮るかのように、天元は「ていうか」と話題を切り替える。

「お前らはどうなんだよ」
「どうって?」
「付き合ってどんぐらい経つわけ? そういやまだ聞いてなかったなって――」

 そこで言葉を切る。が唇を噛み、眉根を寄せてどこか恨めしそうに天元を睨み上げていたからだ。彼女の耳はじわじわと赤く染まっていく。

「話していなかったか? とは高校からの友人だから、この春で知り合って五年になる。……なるほど、もう五年も経つんだな!」

 杏寿郎は身を前に倒して、天元の向こうに座るへ「な!」と笑いかける。途端には固く結んでいた唇を解き、杏寿郎に向けて「うん」と目を細めた。
 ――ああ、なるほど。そういうことか。こいつは煉獄に惚れてて、煉獄はそのことに気づいていない、と。
 天元は口の端をふっと上げると、二人の顔を交互に見て、からかうように尋ねる。

「恋人とか作らねーの?」

 余計なことを、とでもいうような鋭い視線を投げかけてくるを無視して、杏寿郎に向けて「どうなんだよ」と喉奥をくつくつとさせながら訊く。そんな天元に、杏寿郎は「恋人?」と唇を丸めて首を傾げる。

「杏寿郎にはそんな暇ないんだよ。ね?」
「んなわけあるか。だってお前、バイトもしてないだろ?」
「ああ、バイトはしていない!」
「杏寿郎は剣道でこの大学に入ったから、部活で毎日忙しいんだよ。ね?」
「確かにそうだな。俺はあまり器用な方ではないから、学業と部活の両立で正直手一杯だ」
「えーなにそれ。お前の学生生活それでいいわけ? 汗くさい思い出ばっかになるんじゃねーの」

 煽るような言い方をする天元に、は「宇髄くん」とその肩を小突いた。しかし杏寿郎は、「これでいい」とまっすぐに言う。

「熱中できるものがあって、日々充実している! 確かにちょっと汗くさいかもしれないがな」
「全然くさくないよ、杏寿郎は。むしろお日様みたいな良い匂いするよ」

 なんだそれ、と天元は噴き出す。こいつは煉獄のことになるとキャラが変わるな。

「お前は? サークルにも入ってねーみたいだけど、なんかネッチューできるもんとかあんの?」

 杏寿郎の「熱中」という言葉を冷やかすように言ってみせたが、はそれに構わず、考え込むように顎に手を当てて、「うーん」と小さく唸る。

「私は……メダカ、かなあ」

 思わず首を前に出し、「メダカ?」とおうむ返しをする。そんな天元に「うん。メダカ」とは神妙に頷いた。コメントに窮する天元の向こうから、杏寿郎がひょっこりと顔を覗かせる。

「育三郎は元気か?」
「あ、あの子メスだったみたい。こないだ卵産んでた」
「それはめでたいな! また今度見に行かせてくれ」
「じゃあ今日来る? 実家からちょっと良いお肉届いてたから、すき焼きでもしない?」

 ぱあっと目を輝かせた杏寿郎に、は頬を緩める。

「杏寿郎も、さつまいもがたくさん送られてきたって言ってたよね。どうする? 持って来てくれたらさつまいもご飯とか作るけど」

 杏寿郎は「わっしょい!」と声を上げた。
 ――なんだよ、わっしょいって。喜びの表現が特殊すぎるだろ。ていうかこいつら、俺を挟んで会話すんなよな。
 何から突っ込んでいいものか、散らかりすぎて訳が分からなくなった天元は、ふうっと息を吐く。

「宇髄も一緒にどうだ!」

 不意な誘いに頭が追いつかずにいる天元に、は静かに視線を流して言った。

「宇髄くんも、よかったら」
「……や、俺バイトだから遠慮しとくわ」
「何時に終わるの?」
「んー、十一時ぐらい」
「じゃあ宇髄の分の肉は残しておこう!」
「……はい?」
「そうしよっか。あ、宇髄くん連絡先教えて? あとで家の住所送るから」

 杏寿郎もも、すでに天元の予想の範疇を超えた言動を連発していた。もはや驚くことに飽きていた天元だったが、するすると進んでいくこの会話に、「はァ?」と間の抜けた声を漏らしてしまう。
 ――いやいや俺、今断ったつもりだったんだけど。聞こえてなかった?

「はいスマホ出して。後で杏寿郎にも宇髄くんの連絡先、共有させてもらうね」

 呆然としながらも手はスマホを掴み、に促されるまま連絡先を交換した。なんだよこの展開は、と、驚きのあまり停止していた頭がようやく動き始める。
 「じゃあ俺はそろそろ部活に行く」と腕組みを解いた杏寿郎に続いて、も立ち上がる。

「じゃ、バイト終わったら連絡してねー」

 ぼんやりとした調子で言うと、ひらりと手を振る。そうして杏寿郎の後を追うように、人混みの中へと溶けていってしまった。

「……なんだったんだよ」

 まるで束の間、春の嵐にでも巻き込まれたかのようだった。自分の意思と反して物事が展開していくあの様は、もどかしさやいら立ちなんて感情を抱く暇もないほどで、いっそ清々しささえ感じさせる。
 ハッと笑った天元は、スマホに目を落とした。「」という名前の横には、メダカのアイコン。耳に蘇るのは、澄んだあの歌声。
 ――今日の、夜。
 胸の内側に浮遊感を覚えたのは、春になれば気持ちが上を向くと無意識に信じるおめでたい連中の雰囲気に当てられたせいか。ああ、バカ野郎。案外この感覚も悪くないと思ってしまった。そうやって惑わせてくるから、だからやっぱり、春はまだ好きになれそうにない。




(2022.03.06)


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