町家で腰元奉公をしていた頃、気立ても仕事ぶりも良かったは、奥様の遣いでよく出入りする店が何軒かあった。樽屋に嫁いでからは長らく足を運んでいなかったが、今日久しぶりに、その内の一軒、麹屋長左衛門の店を訪れることになった。麹屋の前主人の五十年忌の法事が行われることになり、その御斎の支度準備を手伝って欲しいと麹屋の者に頼まれたのだった。

 店の者に任されてたので、は納戸のお菓子の盛り付けをしていた。そうして、様々な菓子を皿に取り分けていたところ、

さんか?」

と声を掛けられた。振り返ると、麹屋亭主の長左衛門が立っていた。「久しぶりやなあ」と笑う長左衛門に、はすっと立ち上がって「お久しぶりです」と会釈した。

さんも手伝いに来てくれはったんやな」

 長左衛門は、年の割に若く見え、向けられた者の頬を自然に緩めるような、どこか愛らしい顔で笑う人だった。

「親父のために、おおきに。って言うても、さんはうちの親父知らへんよな」

 今年で五十年忌ということは、長左衛門の父はの生まれる何十年も前に亡くなっている。は「ええ」と笑った。

「すまんなあ。そんな見知らぬ爺のために働かせてしもうて」
「そんな、いいえ。麹屋さんには良くして頂きましたし」
「おおきに」

 頷くと、はお菓子の盛り付けに戻った。

「夫とはどうや?」
「かわいがってもろてます」

 さらりと答えたに、長左衛門はクックと喉を鳴らした。昔から、下手に男絡みの事を振られるのを嫌っていただったが、相手が長左衛門なら嫌な気はしなかった。その特有の笑顔のせいなのか、いやらしさを感じないからだろう。
「若いのはええなあ」と言うので、旦那さまもまだお若いやないですかと褒めれば、長左衛門はまた笑った。

「ところで旦那さま。何かご用があって来はったんやないですか?」
「ああ、そうやった。鉢を取りに来たんや」

 長左衛門は「ちょっとすまんな」と謝って、の後ろに立った。彼は、のすぐ上にある棚から小鉢を取り出そうとしていた。邪魔になると思って移動しようとしたところ、「あ!」という声と共に固い物がの頭に落ちて来た。そしてその衝撃で、の髪結いが解けてしまった。

「すまん!平気か!」

 長左衛門が手を滑らせて小鉢を落としたのだった。畳の上に転がった小鉢を手に取り、長左衛門はに平謝りに謝った。

「全然大丈夫ですよ。私は石頭ですから」

 は朗らかに言いながら、くるくると髪を巻き上げた。「これで元通り」と言うと、最後にもう一度謝った長左衛門に微笑みかけ、お菓子の盛り合わせを手に台所へと向かった。



 台所へ行くと、他にも手伝いに来ている女房たちがてきぱきと仕事をしていた。も、先ほどお菓子を任せてくれた女房に盛り合わせを見せ、次の仕事の指示を貰った。
そうして刺身の盛り付けをしていたところ、隣で魚をさばいていた麹屋女房が何気なく訊いた。

さんの髪、さっきまで綺麗に結われてはったのに、どうしたん?」

 はふと手を止め、髪を撫で付けた。

「先ほど、旦那さまが棚から小鉢を取り落とされてしもうて、それが私の頭に。なのでこのような髪になってしまいました」

 そうありのままに答えた。麹屋の女房は、長左衛門よりも十ほど年下であったが、いつまでも若々しい長左衛門と比べると、年相応かそれ以上に老け込んで見える女だった。黙り込んだままの女房に、は慌てて付け加えた。

「私は平気です。石頭のおかげで打ち身ひとつありまへんし」

 女房は包丁片手にじっとを見つめるので、はさすがに居心地が悪い思いがした。さっさと盛り付けを終わらせて他へ行こうと、再び箸を動かした時。

「枕もせず激しく寝れば、髪は簡単に解けるもんや」

 ぴたりと箸が止まった。何かの聞き間違いかとは耳を疑い、女房の方へ顔をやろうとすると、ぬっと腕が伸びてきた。そうして、あっと声を上げる間もなく、苦心して盛った皿が床に投げつけられた。散らばった刺身がさらに踏みつけられる。

「白々しい!なんが小鉢が落ちて来たや!人の亭主と寝とったんやろ!いやらしい!」

 慌ただしかった台所中が、途端に静まり返った。全員がこちらに注目している。
 は、もはや犬の餌同然になってしまった刺身を見下ろしながら、喚き散らす女房の声がだんだんと遠くなっていくのを感じた。
 なんや、これ。



 矜持を傷付けられた女とは、実におそろしいものだ。思い込みは人を狂わせる。
 亭主との密通を疑った麹屋女房は激昂して、その後一日中、何かにつけてこの事を言ってやまなかった。挫けて途中で帰ってはますます怪しまれると思い、は法事が終わるまで耐え忍んだ。胸がおかしくなるかと思った。

 日が落ちて、飲めよ騒げよの酒盛りが始まると、は一人座敷を離れて台所へ向かった。昼に女房が塵にした刺身を包んでおいたのだ。それを持って表へ出た。ちょうど麹屋の前で徘徊していた野良犬を見つけると、それを放り投げてやった。
 なんて醜い女や。
 野良犬は飢えた腹に魚の肉を押し込めていが、は腹のどす黒いものを一気に吐き出してしまいたかった。

さん」

 は肩をびくりと上げた。振り返ると、長左衛門が居た。先ほどまで座敷の者たちに酒を注ぎ注がれながら大笑いしていた男が、眉を垂らして、情けない顔をしている。

「女房が、すまん」

 ああ、と思った。頭を下げる長左衛門に、は唇を噛んだ。
 旦那にまでこんな情けないことをさせて。あんな嫉妬深い女房を持つ長左衛門が哀れだ。
 募りに募った憎らしさが、とぐろを巻いた蛇のように腹の中で首をもたげるのが分かった。

「謝らんといて下さい」

 はそう言って、長左衛門に歩み寄った。

「こんなとこ見られたら、また疑われますよ。私は先に中へ戻ります」

 長左衛門は黙って頷く。は唇に笑みを浮かべ、その耳元に囁きかけた。

「こんど、長左衛門さんに文を差し上げても良いですか?」

 どうせ濡れ衣を着せられるのなら、いっそ長左衛門に情けをかけて、あんな女の鼻をあかしてやろう。そんな心に取り憑かれていた。
 長左衛門は胸の内を探るようにを見据えたが、真っ直ぐに見つめ返すに、ついに頷いた。は微笑み、「ほな」と店の中へ戻って行った。


 どろどろと溢れ出すものに、もはや先ほどまでの気持ち悪さは感じなかった。吐き出す機会を自ら逃し、身体の一部にしてしまったのだ。


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