大坂は天満町。人で賑わう表通りから一筋中へ入り、木戸を通り抜けると、そこは子どもの笑い声や、炊事洗濯といった暮らしの音で溢れかえっていた。この辺りの長屋は日の当たりが悪く、薄暗くじめじめしている所が多いのだが、どうした事かこの裏通りの長屋は日当たりが良いので、住まう人々もおのずと活気付いているのだった。 そんな裏長屋を、一人の老婆が訪れた。遊びまわる子ども達の間を縫い進み、井戸端で話し込みながら洗濯する女房達の傍らを通り、ある家の前で足を止めた。そして戸口から中を伺う。少しの間そうしていると、 「お婆さん?」 と声を掛けられた。振り返ると、そこには片手に土鍋を持ち、もう片方では幼い女子の手を握る女が立っていた。 「お久しぶりですねえ。どないしはったんです?」 女は体を上下に揺らして背負っている赤子をあやしながら、老婆に微笑みかけている。老婆も黄ばんだ歯を出してニカッと笑った。 「いやあ、あれからどないしてんのか気になってなあ。つい来てしもたんや」 「お陰さまで、仲良くやってますよ。さ、どうぞ中へ」 「狭い家ですけど」と言いながら、女は老婆を中へ通した。長屋には土間付き四畳半の家が多く、女の家もまたそうだった。土間では竈に薪が燃えており、鍋がぐつぐつ音を立てている。足元に落ちる木屑を蹴散らしながら、女は畳に上がるよう老婆に促した。 「商いの調子はええんかい?」 言われるまま畳に上がり、薄い座布団に座りながら老婆が尋ねた。 「細々とですけど、なんとかやってます」 「さんを嫁に貰ろてから、亭主もふんどし締め直して励んでんねやろ」 はクスクスと笑いながら鉄瓶を取り、湯飲みに湯を注いだ。 老婆は家をぐるりと見回した。の旦那は樽作りを生業にしており、名を小太郎といった。至る所に鉋屑が落ちていて、様々な工具や木材、作りかけの樽や桶が置いてあることから、この家が仕事場を兼ねていることが分かった。 「こさんお婆さんもお元気そうで。お茶、どうぞ」 そう言って、こさん婆の前に湯飲みを置いた。 「そりゃそうや。足腰立たへんようになったら、うちの嫁に家追い出されてまうからな。まだまだしぶとく居座ったるつもりやねん」 ずずっと茶を啜ったこさんに、は笑んだ。そうして土間に立つと、先ほどの土鍋から豆腐を取り出し、包丁で切り込み、煮えたぎる鍋の中へ落とし入れる。 「その子はいくつやの?」 の背で眠る赤ん坊と、母の腰にまとわり付いて離れない女子を見ながらこさんが訊く。 「この子は三つです。背中の子は三月前に産まれたばかりで」 「へえ。女の子と……」 「男の子です」 そう、と頷くと、こさんは女子に手招きした。長女は母に促されて、顔を強張らせながら老婆の元へやって来た。 「名前は?」 こさんが訊いても、幼女はもぞもぞと体を揺らすだけで口を閉ざしたまま。 「すみません、人見知りで。たま言いますねん」 「おたまちゃん。名前の通り、玉のようにかわええ子やなあ。母親似かい?」 こさんはおたまを抱き上げ、膝の上に乗せた。骨っぽい老婆の太ももは座り心地が悪いのか、おたまは顔をしかめる。 「うちの人もそう言います。けど私は、うちの人に似てると思ってるんですけどね」 「まあ、どっちに似ても将来はべっぴんさんになるやろなあ。両親とも綺麗な顔してはるから」 「どうやろな、おたま」 そう言ってが土間から微笑みかけると、おたまはようやく頬を緩めた。 味噌汁の良い香りが漂ってきた。は鍋に蓋をすると、前掛を外して畳に上がった。「夕餉の支度の邪魔してごめんなあ」と詫びれば、 「全然かまいませんよ。うちの人も今日はお得意さんのとこに納品に行ってて、きっとそのまま長話でもして来るでしょうし。夕餉はまだまだ先になりそう」 とは答え、おんぶ紐を解いて赤ん坊をえじこに入れた。えじこは稲藁で編んだ物が多いが、さすがは樽屋、この家のえじこは桶を用いて作られていた。たっぷりと敷かれた藁のうえに何枚も布を重ねたそれの中で、赤ん坊はスヤスヤと寝息を立てている。 母親の手が空くと、それを待っていたかのようにおたまが動いた。老婆の手から離れて母の太ももに乗ると、その胸に顔を埋めた。よしよしと頭を撫でるに、こさんが呟くように言った。 「えらい可愛いがってんねやな」 「ええ、それはもちろん。好きで堪らん人との子どもですし、可愛くて仕方ないんです。この子たちが大きゅうなるのが楽しみで、楽しみで」 すっかり家を守る女房の顔になったものだ。こさんは思った。今じゃ二言目には「うちの人が、うちの人が」と言っているが、少し前まではとんと男に興味が無く、守るものは己の矜恃だけというような女子だったのに。 は四年前まで、裕福な町家の腰元として真面目に奉公していた。その器量の良さから言い寄って来る男は大勢居たが、はそんなものには見向きもしなかった。さらには「結婚するにしても職人は嫌」と常々言い張っていた。そんなが、今こうして裏長屋の樽屋小太郎と結ばれ、仲睦まじく暮らしているのは、ひとえにこの老婆こさんの取り持ちがあったおかげである。こさんはただの老婆ではない。何百人もの若者の恋の橋渡しをして来た、熟練の仲介人であった。 初めにこさんに頼ったのは、小太郎の方だった。恋い焦がれる女が居るが、文を書いても目を通すことさえしてくれない。気がおかしくなりそうだとも言った。仕事も手に付かないという有様を不憫に思ったこさんは橋渡しを請け負い、に近づいていった。の心を開かせていく内に、それと無く樽屋の話をして聞かせた。こさんの話に次第に興味を引かれ、女心をくすぐられたは、日毎に届く小太郎からの文に目を通すようになった。しばらく文が届かないと、心配して小太郎のことをこさんに尋ねることもあった。いつもある物が無いと、無性に気になってしまうもの。こさんが与えた知恵を使い、小太郎はそうやって文を出すのを止めることがあった。そうして二人が契り合う機会を、こさんは提案する。伊勢への抜け参りだ。 こさんもこの参詣に同行し、帰路の京でと小太郎は結ばれた。そうしては奉公先に許しをもらい、樽屋へ嫁いだのだった。 「ほんまにありがとうございました。お婆さんがおらんかったら、私はきっと今でも独り身のままでした。妻に、母になる喜びも知らんまま……」 回想が終わったちょうどその時にがそう言ったので、こさんは少し面食らった。おたまは胸にしがみ付いたまま眠ってしまったようで、は蒲団の上に娘を寝かせた。 「しあわせかい?」 は老婆のその問いに、言うまでも無いという風に、満面の笑みで頷いた。 「あんさんはえらいなあ」 こさんは湯飲みを揺らしながら言う。は首を傾げ、「えらい?」と訊いた。 「女っちゅうもんは、みんな移り気やろ?気持ちなんてそりゃもう簡単に変わる。ふと他の男が気になりだせば、一生養ってくれる亭主が途端に嫌になってしまったりする。この浮世、夫がありながら間男を持つ女だって、そりゃあ大勢おる」 その言葉を聞いて、は眉根に皺を寄せた。 「姦通は罪ですよ。見つかれば死罪に処される大罪です。夫婦とは互いに忠義を立てねばならない間なんですから、当然の刑やと」 「忠義て、あんさんは武家の奥方かい。そうやってえらい堅いとこは昔から変わらへんなあ。大罪や言うても、契り合うてるとこさえ見つからへんかったらええやないか」 「なんです?お婆さん。私とうちの人の間を取り持って下さったのは、他でもないあなたやないですか。なんでそんな、姦通を勧めるようなことを言うんです」 うすら笑みを浮かべながら言う老婆を、は軽蔑するような目で見ている。潔癖な女や。こさんは思った。 「せやのうて、あんさんみたいな貞淑な女房もめずらしいって、私はそう言いたかったんですわ」 言うと、は胸を撫で下ろしたようだった。 こさんは湯飲みを置き、続ける。 「私はな、さん。間男に現を抜かして全部を失くした女をぎょうさん見てる。夫も、子どもも、自分の命も、全部やで。せめて私が取り持った夫婦だけはそないなことになって欲しゅうないと思うてたんやけど、世の中そううまくいかへんかった。この間も、面倒見たった女が姦通の罪で磔にされとった。もうこれ以上あんなんは見とうない。先の短い私の命がますます切り刻まれてくからな」 こさんはへ近寄ると、その手を握った。は背筋をしゃんと伸ばし、背の丸い老婆を見下ろしていた。 「せやからさん。あんさんと樽屋さんだけは、どうか」 囁くようにそう言った老婆の手を握り返し、は頷いた。 「大丈夫です。私に限ってそれはありませんよ。もしもそないなことが起こるとするなら、それは私に物の怪が憑いたときでしょう。そうなれば私は、うちの人を裏切るような仕業をしたその忌まわしい物の怪を、この体ごと成仏させてやりますよ」 その時、戸口から「お醤油貸してもろてもええ?」という声が掛けられ、はこさんの手を離した。 土間に下り、近所の女房に醤油瓶を渡すの後ろ背を眺めながら、こさんは細い息を吐いた。二人の子どもは心地よい寝息を立てている。こさんは眠っているおたまの額をひと撫ですると、どっこらせと立ち上がった。 「あら、お帰りで?」 「あんまり長居しちゃ悪いしなあ」 戸の外まで女房を見送ったは、草履を引っ掛けるこさんを見て残念そうに言った。 「もう少し居てくれはったらいいのに。うちの人もお婆さんに会いたがってましたし」 「おおきに。でもな、はよう帰らんと、嫁が私の分の夕餉まで食べてまうし」 表通りまで送ると言うに、子どもが寝てるんだからちゃんと見ていなさいと諭せば、はそれに従って老婆を戸口の外で見送った。 外はもう陽が傾いていて、空は赤く染まっていた。 「また遊びに来てくださいね」 木戸に向って歩き出したこさんは、その言葉にいったん足を止めて振り向いた。は朗らかに笑って手を振っていた。こさんも微笑んだ。そうして再び足を進め、井戸の傍を通り過ぎようとしたとき、また立ち止まった。もう一度振り返ってみると、はもう居なかった。 「あ、蛇や!蛇がおるー!」 その声にふと目をやると、子どもが身をかがめていた。細く、どこか儚げな蛇だった。子どもは傍に落ちていた小枝を拾い上げ、とぐろを巻く蛇を突こうとしていた。そこへ母親が現われ、子を引き寄せる。 「阿呆なことはやめえ!祟られるで!」 駄々をこねる子どもをそう叱って、強引に家へ引き戻して行った。 蛇は身をくねらせながら、にゅらにゅらと這っている。どこへ向かうのかを見届けぬ内に、こさんは目を離した。そうして、 「物の怪なあ。せやけどあんた、成仏させる言うても、全部失くすんは同じやないか」 と独りごちた後、ふたたび歩き出した。やっぱりあの子は、家族を守ると言っても、自分の矜恃を守ることを捨てきれないでいるんだろう。人はそう簡単には変わらないものだ。そう思いながら、老婆は木戸を押し開いた。 次へ |