飾屋の息子松五郎とは、そろそろ縁を切ってやろうとは思っていた。 飾師としてはまだ一人前ではないもの、松五郎の腕は確かであったし、実直で評判も良かった。「親父の物に比べれば大したことはないが」と言いながら、見事な自作の簪をに贈り、修業中の身であることを忘れず、会うのは七日に一遍だと自ら定めて守った。 しかしは、何かにつけ人に「松五郎は実直な男だから」と言われることが気に喰わなかった。松五郎の家の隣人などからは、夫婦になることを勧められた。節介な話である。の家は、裏通りにこじんまりと見世を構える松五郎の飾屋とは違う。多くの奉公人や女中を抱える表店の米問屋、但馬屋の娘である。こんな貧しい家に嫁ぐはずはないだろうと、の実家を知らずに言う隣人たちを胸の内で嘲笑った。 七日に一度きりを大人しく待つような貞淑さを、が持ち合わせているはずもなかった。娘盛りの十六、男を取っ替え引っ替えして愉しむ好色さであった。には、それがゆるされるほどの美しさがあった。島原遊廓の太夫にもまさると京の人が語るほどの女ぶり。そんな娘だったから、松五郎も美しさに目が霞んで本性を見抜けていなかったのだ。たとえの好色ぶりを知っても、松五郎は諦めまい。一時の気の迷いなんだろう、自分が放っておいたのがいけないのだ、かわいそうな。そうして夫婦になろうと言い出すのだ。に言わせてみれば、松五郎は思い上がりの男だ。もう、切るしかない。 「ちゃん。今度、松五郎さんに箪笥の金具をこしらえてもらおうと思うんだけど、どうかしら」 文机に肘を付き、松五郎から贈られた玉簪を手にしながら物思いに耽っていると、義姉がやって来てそう言った。が眉根を寄せたのを見ると、「引手がね」と付け加える。 「脆くなって外れそうなのよ。お義母さんの嫁入りのときの大事な箪笥だから、綺麗にしておかなくちゃいけないでしょう?」 「それはそうですけど。でもそのことを、どうして私に訊くんです」 もっともらしいことを言う義姉を見上げながら、はそう訊くまでもなく、義姉の本心を悟った。 「いやね。私も知っているんですから、松五郎さんがあなたの好い人なんだって」 すべては好奇心なのだ。義理の妹がよくしているのはどんな男なのか、その目で見て品定めがしたいだけだ。そんなくだらないことのために、他界した母の箪笥を使う兄嫁。は呆れた。 「どうぞ。頼んでやってください。腕は立ちますから」 「それはよかった。じゃあそうしますからね」 義姉が満足げに部屋を去ったあとで、は深いため息をついた。 また機会を逃した。松五郎と縁を切る機会を。切ろう切ろうと思っているのに、いつも何かが邪魔をして機会を逃す。この簪だってそうだ。この間、別れ話を切り出そうとしたときに、松五郎が懐から大事そうに出してに渡した。突き返してして別れを告げるほど、は薄情にはなれなかった。そうやっていく内にずるずると松五郎との関係をつづけているのだ。 数日後、松五郎が箪笥に合う金具をこしらえて但馬屋を訪れた。 取り付けが終わると、それまで松五郎をなめ回すように見ていた義姉は満足げな笑みで礼を言い、「いい人じゃないの」とに囁くのだった。 「喜んでくれたかな」 松五郎を見送りに店の表まで出ると、松五郎が言った。 「とてもね。あんたも見ていたじゃない」 「そうじゃなくて、のお母さんが」 「ああ。うん、きっとね」 まさか、会ったこともない母を思いながら仕事をしていたのだろうか。どこまで人のいい男なのかと、は思わず呆れ笑いそうになるのを堪えながら、 「引手を替えただけで前より良い箪笥になったみたいだし。また腕を上げたんじゃない?」 と、感心しきったように言って誤魔化した。 「それはそうだ。でなきゃと会うのを我慢してまで修業している意味がないからね」 大真面目な顔の松五郎に、はしずかに笑んだ。松五郎はその顔のままで、入り口に立つ越しに店内を覗き込む。 「あの男が新しい手代の?」 言われて振り返り、松五郎の見る方へ目をやった。そこでは一人の男と女二人が、見世に他に人が居ないのを良いことに、座って談笑していた。あれはうちの腰元、あっちはどこの乳母だろうか。 「ああ、そうよ」 今にも怒鳴り散らしたい衝動を抑えながらが短く答えた。二人の視線に気づいたのか、腰元の女が手代に耳打ちをした。男の方はこちらへちらと目をやった。小ばかにするような目つきだ。なんだあの態度はと、は眉をぴくりと動かし、胸の内で舌打ちをする。 「いい男だね」 「さあどうだか」 が言い捨てると、松五郎はどこか安堵したような笑みを見せた。 「さてと。そろそろ行くよ」 松五郎が一歩踏み出したのをがつんと袖を引いて止め、いたずらに訊く。 「次会うのは三日後だけど、今日のも勘定に入れておく?」 「や、それはいけない、いけないよ」 「冗談よ」 ふふ、と笑って袖から手を離すと、松五郎がすばやく握った。そうしてそのまま顔をの耳元へ近づけて、「待ち遠しい」と囁いた。 やっぱり、とは思った。結局この男も他の男たちと同じだ。いちばん恋しいのは身体なのだ。 お夏はほほえんで、松五郎の肉刺だらけの手を握り返す。 「それじゃあ、またね」 松五郎の姿が見えなくなると、は威勢よく振り返ってまず腰元の女を睨みつけた。先ほど松五郎に耳打ちしていた女だ。それまで手代に媚を売るようなわざとらしい笑い声をあげていたが、の鋭い視線に気づくと色を失った。 「油売ってないで働きな。とっとと行かないと暇を出すよ」 「すみません、さん」 腰元は盆に湯飲を乗せて立ち上がり、慌てて奥へ引っ込んだ。腰元とは主人の身の回りの世話をする役目であって、手代に茶を運ぶ必要などないはずなのに。は唇を噛んだ。 「あんたはどこの乳母よ。米に赤ん坊の小便かけられちゃかなわないのよ。さっさと出て行きな」 乳母は罰が悪そうに、すみませんと言った。おそらくは赤子を使って手代の気を引こうとしたのだろう。なんて浅ましい。 乳母はに急き立てられながら、眠る赤子を抱えて但馬屋から出て行った。 「で、次は俺の番かい」 手代はあぐらを掻いたまま、帳場机の上に乗るそろばんを引き寄せながら、愉快そうに言った。 男は総悟といった。の兄で主人の九右衛門が知り合いから頼まれて、この春から但馬屋の奉公人となった。総悟の仕事ぶりには主人も感心して、今では見世の万事を任せるまでになっている。 「あんたがうちの見世に来てから、女たちが仕事をさぼるのよ」 「ひでぇな。俺のせいですか」 は気に喰わなかった。見世の女たちが総悟に気を取られて仕事に手を抜くようになってしまっても、確かに手代自身は真面目に働くから、言いようがないのだ。 「みんながあんたの気を引こうと必死になっているのに、あんたはそれを咎めない!」 手代を見下ろし顔を赤くして言うに、手代はそろばんをいじりながら喉奥をくっくと鳴らして笑う。 「へたなことを言えば何をするか分からねぇからなあ、女は。恐ろしくてなんにも言えねぇや」 一瞬、手代の横顔が翳ったように見えた。口ぶりからも、その場しのぎの言ではないことを直感させた。 なんて男だろうとは顔をしかめる。「だからさん」と、手代は顔を向ける。 「代わりにあいつらを追い払ってくれてどうも。いい加減うんざりしてたんだ。女ってのはうるさくていけねえ」 ふしぎな男だった。いつも女に囲まれているせいか、てっきり好色なのかと思っていた。しかしさっきから聞いていれば、むしろ女を嫌っているようだ。いや、それとも――。 「でもまあ、いいことも知れたしな。さっきの、松五郎とかいう男と長いらしいですね。好色のさんにしてはめずらしく」 手代はにやりとした。さっき腰元が耳打ちして伝えたのはこのことかと、はふたたび唇を噛んだ。 「夫婦になるつもりですか」 は目を丸くした。呆気にとられたまま「そう見える?」と訊けば、手代は鼻で笑った。 いやだ。もし自分と松五郎が周囲から見ても夫婦の契りを交わした仲のように深く馴染んでいるようなら、いやだ。自分に釣り合うのは、もっと金がある男ぶりのいい人だ。それに家へ入って家事に育児だなんて、まっぴらごめんだ。まだ縛られたくはない、遊んでいたい。 不意に笑いがこみ上げてきて、はぷっと吹きだした。 「まさか、笑わせないでよ。私は遊んでやってるだけ。夫婦になんてならない」 手代はとつぜん笑い出したを見ても、顔色ひとつ変えなかった。は「あーあ、おかしいんだから」と目尻に手を当てて、笑い涙を拭う。 「そうしたほうがいい。さんにあの男の女房はむりだ」 手代は、そろばんの珠をぱしんと弾く。 「あの男はさんにはきれいすぎるんだ。ここが」 そう言って、そろばんで自身の左胸を指した。 「だからこそ化けるときはすごい。何かの拍子に、水に墨を垂らすように一気に穢れちまうんだから、ああいうやつは」 帳場机にそろばんを戻す手代の動作を、はただ目で追った。ふと目が合う。 「向こうはさんをまるで女房のように見てた。あんたが遊びでも、あっちは本気ですよ。気をつけたほうが身のためです」 手代はいやに真面目な口ぶりだった。をまっすぐに見据えている。も目をそらさずに手代の心を読もうとしたが、そうする内に出来そうも無いことを悟った。はついに視線をはずした。手代も、帳面をめくりはじめた。 「なに言ってんのよ。たった一目で、あの男の何が分かるって言うの」 はばかにするように笑ったが、手代は「いや。分かるね」と言い切った。 「あんたみたいな女には、もっと根性の悪いやつのほうがいい」 「ああ、それもそうね。たとえば、そこの手代さんみたいな?」 の挑発に手代は帳面をめくる手を止めた。そうしてを見ると、ゆっくりと言った。 「お断りでさァ」 ふっと鼻で笑った手代はすぐに視線を帳面へ戻した。冗談で言ったのにと、は恥ずかしさと怒りとで顔を真っ赤にした。 「こっちだって頼まれたっていやよ!」 言い捨てて、見世と奥とを隔てる中戸のほうへ走った。しかしいったん足を止め、振り返って厳しく言う。 「それと、帳面に触るんじゃないわよ。あんたは手代なんだから」 「旦那から任されたんですよ。今日は帳場の半兵衛がいないからって」 手代は背を向けたまま、ひらひらと手を振った。はやく奥へ戻れとでも言っているのだろうか。 「いやな男!」 いつもは重たくて苦労する中戸を、そのときは容易に閉められた。それほど体中が怒っていたのだ。 次へ |