番外編 人の見た夢の話ほどなんとやら



 どうしてこんなことになったんだっけ?
 腕の中でうぎゃあうぎゃあと泣く赤ん坊。体をゆらゆら揺らしてあやしつつ、眠さで動きが鈍くなった頭を振り絞りながら回想する。

 ――きっかけは山菜だ。ある日、硝子ちゃんが「山菜のおいしい季節だよね。あー、タラの芽の天ぷら食べたいなあ」とボヤいた。ここは寮母代理としてひと肌脱いで、おいしい山菜の天ぷらを作ってあげようと意気込んだ私は、知り合いが所有する山へ山菜採りに出かけた。一人で行くつもりだったのに、クマ除けだ、と言って五条悟と夏油くんが付いてきた。「学生とはいえ特級術師はただでさえ多忙なんだから、こんな非術師の女の山菜採りにノコノコ付いて来るもんじゃありません」だなんて強気に言ってみたけれど、近ごろクマに襲われる事件が多発しているとニュースで見たこともあり、二人が一緒に来てくれるなら怖い物なしだな、と内心ホッとしていた。
 けれど、ただの山菜採り――では終わらなかった。タラの芽だと思って触れたものが、どうやら呪詛師の術式が仕込まれたトラップだったようで、私を庇おうとした五条悟と夏油くんもろとも妙な帳に閉じ込められてしまったのだ。帳が下りた後、テロリロリン、という間の抜けた電子音とともに、どこからともなく垂れ幕が出現した。そこに書かれた文字に、五条悟と夏油くんは「ゲッ」と口を揃えた。幕には、ご丁寧にこう記されていた――『子育てしないと出られない帳』と。

「なかなか泣き止まないね」

 その声に、ハッと顔を上げる。危ない。立ったまま寝てしまうところだった。
 夏油くんは私の腕の中で泣き続ける赤ん坊を覗き込み、やさしく声を掛ける。

「悟ー、どうした? オムツかい?」

 そう。この赤ん坊は、五条悟なのだ。
 帳に閉じ込められ、垂れ幕が下りてきて。そのすぐ後に白い煙が立ち込め、なんだなんだと騒ぐうちに赤ん坊の声が響き始めた。煙が引くと、そこには夏油くんと、小さくなった五条悟がいた。困惑する私たちの頭上に、新たな幕が下りてくる。そこには『呪力総量の最も多い人が赤ちゃんになるよ!』とポップな文字が踊っていた。
 何が何だか分からない。けれど、泣き喚く赤ん坊――五条悟をそのまま地面に放っておくわけにもいかず、ひとまず私が彼を抱え上げた。ふわふわして、あたたかかった。どうやら、見た目は子ども頭脳は大人、というわけでもないようだ。五条悟は泣くのを止め、まん丸の青い瞳で私をじいっと見つめたのち、なんと、チュッチュと指しゃぶりを始めたのだ。凝視する私の顔がおかしかったのか、「きゃぁう」とザ・赤ちゃんな声を上げながら、くしゃあっと笑った。ぐ、ぐぅかわ……。口を開けば生意気ばかり宣うあの五条悟が、己の指を咥えることで口寂しさを満たし、曇りなき眼で穢れなき笑みを惜しげもなく浴びせてくる。
 中も外も完全に乳児化してしまった五条悟を抱っこしながら悶絶している一方で、夏油くんは冷静だった。「このままだと悟が危ない」と言って、護衛の呪霊を二体出すと、辺りの様子を確認しに行った。まもなく戻ってきた夏油くんが、どうやらこの帳は半径二キロほどの範囲にわたって広がっているらしいこと、この山を下りてすぐのところに小さな一軒家があることを知らせてくれた。空き家のようだからとりあえずそこに行こう、と言う夏油くんの後に付いて山を下りた。
 赤い屋根の小さな家には、育児に必要な物が揃っていた。きっとこの家も帳を下ろした呪詛師が用意したものなのだろう。何がしたいんだよこの呪詛師は、なんてボヤきつつも、夏油くんは「とりあえずミルク……かな」と、お湯を沸かし始めた。ミルクといっても、棚には種類の異なる粉ミルク缶が三つほど並んでいる。当然、夏油くんも私もミルクなんて作ったことがないので、缶に記された作り方を念入りに確認し、「全然溶けない! 哺乳瓶の底でミルクが固まってる!」「飲みごろの温度が分からない!」とひとしきり騒ぎながらも、やっとの思いでミルクを完成させた。
 五条悟のくりくりとした青い目が、哺乳瓶をじいっと見つめる。小さな口を開けて乳首を咥え、一口飲んだ――と思えば、ガハッとむせ込み、ふぎゃあぁと泣いた。温度か? そう思い、腕に垂らしてみるが熱くはない。むしろぬるい。そういえば、五条悟は生ぬるい飲み物が苦手だって言ってたっけ。「もうちょっと温度高くても良いかも」と、改めてミルクを作り直すも、五条悟は「ヤダ!」とばかりに顔を背けて飲もうとしない。じゃあ味が気に入らなかったのか? と、今度は別のメーカーの粉ミルクで作り、夏油くんが少し味見をした。「うん。さっきのよりも甘いから、悟は気に入るんじゃないかな」というその言葉通り、五条悟はやっとミルクを飲んだ。五条悟が、哺乳瓶でミルクを飲んでいる。天井の一点を見つめ、ゴックゴック喉を鳴らしながら。
 ミルクを飲みながら、五条悟は寝落ちした。どうやら彼は勘の鋭い赤ん坊らしい。ベビーベッドで寝かせようとしたけれど、ベッドに背中が付いた途端に目をパチッと開いて、ふぎゃあっと泣くものだから、腕に抱え続けるしかなかった。夏油くんは何度も「代わるよ」と言ってくれたけれど、五条悟は男性の硬い腕がお気に召さないのか、夏油くんが抱っこすると再び目を開けて首を振りながら泣くので、もう私がベビーベッド代わりになる他なかった。
 そんなこんなで数時間が経ち、私も眠気でうとうとし始めた頃、夏油くんが冒頭の「オムツ」という言葉を口にしたのだった。そうだ。五条悟が赤ちゃんの姿になってから、まだ一度もオムツを替えていなかった。

「……え、っと」
「ああ、大丈夫。さすがにオムツ替えは私がやるよ。悟の尊厳に関わるからね」

 ベビーベッドに五条悟を寝かせ、私は後ろに下がった。すかさず夏油くんが新しいオムツを片手に、五条悟の前に立ちはだかる。

「夏油くん大丈夫? やり方分かる?」
「うん、さっきパッケージの説明書きを見てシミュレーションしたから」
「あーっ、うーうー」
「なんだい悟。私だって君の下の世話をすることになるだなんて思いもしなかったよ。でもこうなった以上は仕方がないだろう? お互いに諦めよう」

 不慣れながらも短時間でオムツ交換を終えた夏油くんは、ふうっ、と達成感に満ちた息を吐いたのち、「よければ休んでて。私が見てるから」と言ってくれた。オムツ替えで少し自信をつけたらしい。
 その言葉に甘えて、私はソファに横たわる。そうしつつ、夏油くんと五条悟の様子を遠巻きに見ていた。よくよく見てみると、五条悟は数時間前より少し体が大きくなった気がする。いつの間にかハイハイもするようになっている。子どもの成長ってものすごく早いんだなァ、なんて呑気なことを思ううちに、意識が遠のくようにして眠りに落ちてしまった――。

「さとる! やめっ、やめなさい悟!」
「きぃぃあ! ばぁっぶぅ!」
「いたっ! 抜ける! 抜けるだろう!」

 賑やかしい声で目を覚ますと、床に仰向けで倒れている夏油くんに五条悟が乗っていた。きゃっきゃと楽しげに笑いながら夏油くんの前髪を引っ張っている。さすがに赤ん坊相手に力づくで振り解くわけにもいかないのだろう、夏油くんは生え際を押さえながらやめてと懇願していた。
 私が慌てて駆け寄り、赤子を魅了してやまないその前髪から手を離させると、五条悟は一瞬何が起きたか分からないというふうに目をパチクリとさせたのち、うああんと泣き出してしまった。ぎゅっと瞑った目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちていく。

「ちょ、ちょっと、えー? そんなに泣く? 五条悟の涙なんて初めて見たよ私」
「すまない悟、でもさすがに毛を抜かれるのは困るから……あっほら悟、ほらほら、これは?」

 夏油くんは手近に転がっていたクマのラトルを拾い上げ、カラカラと鳴らした。けれど五条悟はそれを一瞥すると、「違う!」とばかりに背中を反らしながらギャンギャン泣く。「仕方ないな」とため息を吐いた夏油くんは、渋々と自らの前髪を差し出すのだった。
 しばらくは夏油くんの前髪を掴んでご満悦の五条悟だったが、突然表情を曇らせて私を見上げてきた。

「あ、夏油くんマズい。また泣き出しそうな予感……」

 言ったそばから五条悟の唇が震え始めたので、私は体を上下に揺らしてなんとか宥めようとする。いまだに前髪を掴まれたままの夏油くんは、頭部ごと五条悟に差し出す形になっているので、私との身長差を埋めるために膝を曲げていた。なので、私が上下に動くごとに夏油くんも膝を屈伸させるという、なんともおかしな状況になってしまった。

「あっ悟!」

 突然、五条悟が夏油くんの前髪を口に含んだ。むちゃむちゃと音を立てながら髪を吸うように食む五条悟に、夏油くんは助けてと言わんばかりの目を私に向けた。

「だーめだよ五条悟! これは食べるものじゃないの! 夏油くんのアイデンティティなの!」
「アイデン……えっ?」

 小さな口から髪の束を引っこ抜くと、五条悟は憤怒したように泣き、夏油くんは「……う、ヨダレまみれだ」と掠れ声を漏らした。
 どうやらお腹が空いたらしい。夏油くんは前髪をティッシュで念入りに拭きながらミルクを作ってくれた。けれど――。

「……あれ? 飲まない」
「おかしいな。さっきのと同じ粉ミルクなんだけど」

 飲まないどころか、哺乳瓶を押し退けながらイヤイヤと首を横に振っている。

「あ、もしかしてミルクじゃなくて……離乳食?」

 私の言葉に、夏油くんも「そうかも」と賛同した。言ってはみたものの、当然私も夏油くんも離乳食なんて作ったことがなければ、それが何なのかもいまいちよく分かっていない。

「えーっと、何を食べさせたらいいんだろ? おかゆ的なもの?」
「そういえば向こうの棚にそれらしきものがあったような……」

 夏油くんは台所に走ると、戸棚を開けて「あった!」と声を弾ませる。けれどこちらを振り返った夏油くんは、神妙な面持ちを浮かべていた。

「……今の悟って、生後何カ月なんだろう」
「え?」
「ほら、この表記。こっちは五カ月から、こっちは七カ月からで、これは九カ月から」

 夏油くんが手にした小瓶やパウチには、赤ちゃんや野菜などのイラストの横に、それぞれ異なる月齢が記されていた。私は五条悟とパウチを見比べながら「分かんない」と眉尻を下げる。

「とりあえず五カ月のものを食べさせてみようか。おかゆって書いてあるし、これが一番無難だろうから」
「うんそうだね、それがいいね」

 夏油くんは小瓶のフタを開け、おさじで中身をひと掬いした。

「夏油くん、これってそのままあげていいの?」
「そうみたいだよ。ほら悟、おかゆ」

 五条悟は唇にちょんちょんと当てられるおさじを、怪訝そうな目で見ていた。私たちの「あーんして、あーん」という言葉に、しゃあなし、といった様子で口を開け、一口食べた――と思ったら……。

「ぅあああっ!」

 口の中の物をブフーッと勢いよく噴き出したのだ。米を浴びせかけられた夏油くんと私はたまらず声を上げる。
 口内に一粒も残してたまるか、と言わんばかりに、ケッ、ペッ、と吐き出す五条悟に、夏油くんは果敢にも再チャレンジをする。けれど――。

「んーダッ!」
「うわ!」

 紅葉のような小さな手が、おさじを持つ夏油くんの手を払い落とした。

「悟! だめじゃないか食べ物を粗末にしちゃ」
「だぃだぃだぃだぃ!」

 叱る夏油くんに対して、五条悟も口を尖らせながら一丁前に何か言い返しているようだった。

「ちょっと五条悟、おかゆだよおかゆ、お米!」
「ダッ!」
「悟、じゃあこっちはどうかな。かぼちゃとさつまいものピューレみたいなんだけど……ほら、あーん」
「……ブーッ!」
「あああっ!」

 見事に吐き出した。黄色のどろどろを顔に浴びた夏油くんは、私に横目を向けて力なく笑う。

「参ったな」
「おかゆも、かぼちゃとさつまいものピューレも気に食わないなんてことある? だって素材の味だよ?」
「その素材の味が気に入らないんじゃないかな」
「くっ、無駄に肥えた舌め……! ここで御三家っぷり出してこないでよもう」
「あ、もしかして食べ応えがないのかも? 歯って生えてる?」

 夏油くんの言葉に、私は五条悟の口を覗き込もうとする。しかし五条悟は唇をきゅっと結んで、どこか反抗的な目で見上げてきた。

「ちょーっとごめんね、口の中を見せてね」
「悟ー大丈夫、怖くないよ」
「……っ、この子! 無下限張ってる!」
「悟ー!」

 五条悟は口を触らせないどころか、ふわふわと浮かび始めた。風船のように天井へ向かっていく。私たちは「待って待って」と腕を伸ばしてムチムチの足を掴もうとするが、無下限バリアのせいで触れない。ヤキモキする私たちを見下ろして、五条悟はキャッキャと声を上げて笑った。

「あ、今ちょっと口の中見えたな」
「えっ本当?」
「ちょろっと生えてたよ、下の前歯が」

 夏油くんの優れた動体視力のおかげで、おそらく食べさせたものが月齢に合っていないから気に入らないのだろう、という仮説を立てた私たちは、七カ月以降向けのベビーフードをかき集めた。なんとか五条悟を降りて来させて一口食べてもらったが、やはりだめだった。全部吐き出す。

「……やっぱり味なのかな」

 ふよふよと浮かぶ五条悟を見上げながら、夏油くんはため息を吐いた。私も同じく重めの息を吐き出しつつ、ふと部屋の隅に本棚があることに気づいた。目に飛び込んだのは、『離乳食完全ガイド』なるタイトル。
 ――やってみるか。

「あー! 食べたー!」

 モッモッと口を動かしながら食べ進める五条悟に、私と夏油くんは安堵と歓喜の混ざった声を重ね合わせた。離乳食レシピ本を見ながら作ったのは、ナスとしらすのおかゆ、トマトと豆腐のだし煮。ダメ元で五条悟の口に近づけてみると、食い気味でかぶりついたのだった。

「結局手作りが良かったってこと?」

 市販のものを食べないなんてとんだ親泣かせな子だよ、とボヤく私に、夏油くんは言った。

さんの味が恋しかったんじゃないかな」
「……えー? そうなのかなあ。でもこれ、私の味というより、レシピ本通りに作ってるから……」
「その人の味って、単に味付けだけじゃなくて、切り方とか火の入れ方とか、そういう細かい部分にも表れると思うんだ」

 そう言って微笑んだ夏油くんの横顔に、そういうものなのかなあ、なんて返しながらも、内心は自分の作ったものを五条悟がガツガツと食べてくれていることが嬉しかった。ああ、そうだった。食堂で少年のように目を輝かせながら「俺こんなの初めて食べる!」と、いわゆる庶民的な料理を食べる五条悟の姿を見るのが、私は好きだったんだ。その隣で「おいしい」と静かに笑う夏油くんを見るのも、好きだった。

「早くこの帳から出て高専に帰ろ。山菜の天ぷら、硝子ちゃんに食べさせてあげないと」
「うん。そうだね。そのためには帳を出る条件をクリアしないとだな」
「思ったんだけどさ、子育てしないと出られない、って……そもそも子育ての終わりっていつなんだろう?」

 首を傾げ合う私と夏油くん。そのとき、

「はぁっクチュン!」

 五条悟がくしゃみをしたその拍子に、口からトマトやら豆腐やらが噴き出して、夏油くんの顔面を汚した。それを見て五条悟はニマァ、と笑っている。

「……終わりなんてないんじゃないかな」
 
 虚ろな目でそう言った夏油くんは、ずいぶんと老け込んでしまったように見えた。

 その後も二人して育児に追われてんやわんやだった。人手が足りない。赤ちゃん一人につき五人は必要だと思う。
 まず食事で汚れた体を洗うために、夏油くんが五条悟を連れてお風呂に入った。これがまあ、浴室まで行くのが大変だった。服はなかなか脱がせてくれない、抱き上げようとすると猫のように腕からぬるりと抜け出してしまう。「ダッダッダッ!」と私に向かって何かを訴えかけてくるので「さすがに私は一緒に入れないよ」と言うと「俺だってそんなこと望んでない! 心外だ!」と言わんばかりにンダダダダと連呼した。夏油くんが「水が怖いのかな。大丈夫だよ悟、目に入らないようにちゃんと気をつけるから」と宥めながらなんとか浴室に連れて行った。はじめのうちは、それこそこの世の終わりのように泣き叫んでいた五条悟だったけれど、夏油くんがうまく洗ってくれたのだろう、泣き声はぴたりと止み、最後には二人して笑いながら水遊びしているようだった。
 お風呂から上がった夏油くんは、片腕にオムツ一丁の五条悟を乗せて部屋に戻ってきた。二人とも湯上がりで頬がほんのり上気している。夏油くんは濡れた髪を後ろで一つに結い上げていて、いつもと違うその姿につい目を奪われていると、床に降ろされた五条悟が「髪を拭け」とばかりに頭を擦り付けてきた。
 私が五条悟の頭を拭いていると、夏油くんが「洗面所に赤ちゃん用の保湿クリームがあったんだ。つまり塗れってことかな」と首を傾げながら白いチューブを持ってきた。私が首を傾げ返すと、夏油くんは本棚から育児書を引っ張り出し「肌が乾燥しやすいのか……」と呟いたかと思えば、「悟。ちょっと失礼」と言いながらクリームをべたべたと塗り始めた。

さん、顔をお願いしてもいい?」
「あっ、うん。こんなに塗るの?」
「テカテカになるぐらいがちょうどいいんだって」

 手の甲にたっぷりと絞り出されたクリームを、私はおそるおそる五条悟のぷっくりとした頬に乗せた。五条悟はというと、バスタオルの感触に魅せられているようで、にぎにぎと握ったり噛み付いたりしていた。大人しくしているうちに、と慌てて手を動かしたのがいけなかった。私の指が目に入りかけてしまい、五条悟は「ンギャアッ!」と癇癪を起こしてしまった。ごめんごめんごめんと連呼しながらもクリームを塗る手を止めない私に、五条悟はいい加減にしろとばかりに指をガジィッと噛んできた。

「いッだぁ! っ歯! 上の歯も生えてるじゃん!」
「あ、本当だ。いつの間に? さっきまでは下の前歯だけだったのに」

 指が食い千切られるかと思った。赤子、容赦なさすぎて怖い。
 その反応が楽しかったのか、五条悟は何かのスイッチが入ったかのように、私の手や腕をガジガジと甘噛みし始めた。小さくて脆そうな体を押し退けるわけにもいかなくて、ただ「夏油くん」と助けを乞うしかなかった。夏油くんは「歯茎が痒いのかな」と呟きながら五条悟を抱き上げ、「口寂しいのかい? あ、喉が渇いてる? ミルクあげようか?」とやさしく言う。しかし五条悟はそんな夏油くんのやさしさを蹴散らすかのように、ガジッと顎に齧り付いたのだった。

「やめっ、さとる、肉がっ抉れるだろう!」

 今度は私が五条悟を引き剥がす番だった。「ほらほらタオルだよ!」とバスタオルを握らせれば、五条悟はタオルに顔を擦り付けながら「うー」と小さく声を漏らした。

「……眠そう?」

 五条悟は重めの瞬きを一つ打った後、片手でごしごしと目を拭い始めた。そしてタオルを吸いながら、また「うー」と声を出す。私と夏油くんは目を見合わせ、うんと頷く。寝かしつけよう。私たちは五条悟の子育てを通じて、声に出さずとも分かり合えるほどの仲になってしまった。
 部屋の明かりを落とし、夏油くんが作ったミルクを飲ませているうちに、五条悟は目を閉じた。そうっとベビーベッドに置いてみると、そのままスーッと眠りに入った。月明かりが差し込む部屋の中で、夏油くんと私は再び頷き合った。と思ったら、突然体から力が抜けたようにその場に倒れ込んでしまった。それは私だけではなく、夏油くんも同様に。
 ――疲れすぎたのだ。私たちはもうとっくに限界を超えていた。やっと寝れる。寝たい、寝たい、寝たい。寝よう。
 頷き合いながら目を閉じようとしたそのとき、私は、とんでもない光景を目の当たりにする。
 窓に映る月をバックに、むくりと起き上がる一つの小さな影。
 信じたくなくて、私の呼吸はハッハッハッと荒くなる。夏油くんもそれに気づき、細切れに呻き声を上げた。
 ――子育てに終わりなんてない。なら一生この帳から出られない。ああ、もう今はそんなことよりも、とにかく寝たい。寝たいんだよ私たちは。お願い神さま、力を貸して……。

「んーダッ!」

 五条悟、推定月齢十カ月。そうやすやすと眠る赤子ではない。長い夜が今、幕を開ける。

◇◇

「っていう夢を見たんだよね。いやー子育てって大変だわあ」

 山菜の天ぷらを揚げながらしみじみと語るに、五条と夏油、硝子の三人は特に反応を返すわけもなくガツガツと揚げたての天ぷらを食べる。「ねえ聞いてる?」とむくれるに、三人は箸を止めずに顔だけを上げる。

「別に真面目に聞く話でもないだろ。人の見た夢の話って総じてつまんねーし」
「大変なんだろうね育児ってね。夢の中とはいえさんはよく頑張ったよ」
「タラの芽おかわりー」




(2025.02.21)
夢呪WO2アンソロ企画寄稿
テーマ「出られない帳」



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