「夏油が連れてったんだよ。あいつ、に惚れてたから」

 新宿で傑と会った日の夜、硝子はタバコの煙とともにそう言葉を吐いた。
 主を失った厨房は静まり返り、ゆるんだ蛇口から時折り水が滴り落ちる音だけが虚しく響く。悟はカウンターで頬杖を突きながら、そんな薄暗い厨房をただ見つめている。
 「惚れてた」と硝子は言った。そこで悟は、傑の気持ちを初めて知った。同時に、を奪われてしまった、と思った。そうして気づいた。自分にとって、彼女が大切な存在だったのだと。
 でも、取り返そうとは思えない。傑は、一つの村を潰しても、実の両親を手にかけても、だけはそばに置きたいと思ったのだろう。それだけ傑にとって彼女は特別なのだ。もまた傑を思っているなら、仲を引き裂こうという気は起こらない。
 唯一無二の親友と、いつの間にか代え難い存在になっていた女性。そんな二人をなくした喪失感で虚脱した日々を送る悟に、硝子は下手な慰めの言葉を掛けるわけでもなく、ただ付かず離れずそばに居た。傑の時にはできなかったことだ。硝子もまた、自分の気付かぬうちに大切な人が去ることを恐れていたのかもしれない。
 悟は言葉を発する気配がない。その様子を横目に見た硝子は、がいたら「食堂は禁煙だよ」と叱られるんだろうなと思いつつ、悟と同様に、誰もいない厨房を見やり、彼女の面影を探すのだった。


最終話 さよならなんて



「この音、なに?」

 台所に立つは、わずかに耳へと届いた音に首を傾げた。この部屋に来た当初はソファの上でただ呼吸をするだけの日々だった彼女が、今では日に何度かは台所で料理を作るようになった。まだ美々子と菜々子に会ってはいないが、彼女たちのために食事を用意し、それを傑が少女らに届け、食べさせる。事情を知らない二人は「夏油さま腕上げた?」と不思議そうに言いつつも、おいしい、と目を輝かせるのだった。

「ああ、そういえば……」

 傑は思い立ったようにソファから立ち上がると、窓へと近づく。そうして雨戸を押し上げた途端に、は短い悲鳴のような声を漏らした。窓に張り付いた呪霊がこちらをギョロリと見つめてきたからだ。しかし傑が「ご苦労さま」と声を掛ければ、呪霊はたちまち姿を消した。

さん、こっちに来て。ほら、見えるかな」

 傑が柔和な表情を浮かべて手招きをする。は少し怪訝そうにしながらも、招かれるまま窓に近づく。すると、

「わあ……」

 夜の空に打ち上がった色とりどりの花火。時間差で、弾けるような音が響く。隣のベランダからは、花火が上がるたびに美々子と菜々子のはしゃぎ声が聞こえてくる。

「この街の花火大会、青菜のより規模も大きいんだって。花火なんて一年ぶりだよね」

 傑が言えば、はわずかに視線を下げた。去年はみんなで見た花火。灰原、七海、悟、硝子、傑、みなが一年後の自分たちの姿を知らずに笑っていた。

「……帰りたい」

 ぽつりと呟いたに、傑は重めの瞬きを一つ打つ。

「高専には、みんなとの思い出があるから……」
「思い出の中で生きていくのかい」

 ゆっくりと顔を上げたは、傑を見上げて言った。

「一つの思い出も忘れないように守りながら生きていきたい。みんなの分も」

 ひときわ大きな花火が上がった。わあっ、という美々子と菜々子の声。そんな状況に昨年の花火大会の記憶がまざまざと蘇ったのだろう。は花火を見上げたまま、静かに涙を流した。傑は灰原の死以来、彼女が泣く姿を見ていなかった。
 ぷつり。傑の中で、何かが切れる音がした。――それは、最後の執着が切れる音だった。

「いいよ。解放してあげる」

 傑の口からこぼれ落ちたのは、地に足が着いていないような、どこか浮遊した声だった。
 傑を見上げるは、少しためらったのち、「夏油くん」と切り出す。
 
「たまに来る。ごはん、作りに来るから……」
「必要ないよ」

 傑は腰をかがめ、と目線の高さを合わせる。そうして、
 
「今から君の記憶を消す」

 真正面から顔を見つめたまま、そう言った。

さんには色々と知られてしまった。高専に戻ってこの場所を告げ口されたらいけないからね」

 の瞳が微かに揺れている。そこに浮かんでいたのは恐怖の色ではない。憐れむような、慈しむような、そんな曖昧な色。

「夏油くん。最後まで、一緒に行けなくてごめんね」

 傑は何も言わずに頭を振った。
 そうして、指先を彼女のこめかみに添える。ぴくん、ぴくんと脈打つのは、彼女のものか、それとも自分のものか。
 指先を当てながら、もう片方の手で垂れた横髪を耳に掛けてあげる。この柔らかな髪が好きだった。きっと、もう二度と触れることはできない。

「いってきます」

 傑の言葉に、は唇を震わせた。

「いってらっしゃ――」

 その言葉が終わらないうちに、指先から放たれた黒い光が彼女を包み込んだ。その中で、彼女の頬を流れ落ちた涙に、傑もまた震えだしそうな唇を噛み殺すのだった。

 ――さよなら。


◇◇◇


 もうどんなに待ったって食事が出てくるわけでも、彼女が姿を見せるわけでもないのに、悟は今日も日課のごとく食堂へと足を運ぶ。
 出張先では暴飲暴食、寮ではコンビニで買い込んだ菓子で腹を満たす。そんな乱れ切った食生活だったので、顔にはニキビができてしまった。硝子は摩訶不思議なものを見るような目で「五条でもできるんだ、ニキビ」と言っていたっけ。

「……は?」

 ポケットに手を突っ込みながら渡り廊下を歩いていた悟は、食堂から漏れる灯りと漂ってくる味噌汁の香りに声を漏らした。
 もしかして――。眼前に一瞬浮かんだ人の姿に、途端に鼓動が速くなった。ゆっくりと踏み出したはずの足は、意思と反して次第にスピードを上げていき、最後には駆け出していた。

「あ、おかえりー」

 勢いよく飛び込んできた悟に、間延びした声が掛けられた。悟は瞼の端が裂けんばかりに目を大きく開く。

「お前……」

 厨房から顔を覗かせたが、こちらに向けてひらひらと手を振っていたのだ。

「そんなに走って来るほどお腹減ってるの? ちょっと待ってね、すぐできるから」

 くすくすと笑うに、悟は呼吸を整えながら首を傾げる。
 傑が連れ去ったと聞いた。けれど目の前にいるは、まるで今さっきスーパーから帰って来たとでもいわんばかりに、普段通りで。あっけないほどにいつもと変わらぬ様子で。少しの間、悟は頭の整理が追いつかずにいた。

「どこにいたんだよバカ」
「え? どこって、お母さんのお見舞いだよ。今日はいろんなレシピを教えてもらってねー。今作ってるから、もうちょっとだけ時間ちょうだい」

 はそう言って厨房へと引っ込むと、再び包丁を握り、まな板に向かう。しかし不意に顔を上げて、カウンター越しに自分を見つめる悟を訝しむように目を細めた。

「なーによ五条悟。なんでそんな顔してるの? 病院に行ってただけだよ? あ、もしかして寂しかったとか?」

 そんなわけないか、と笑い飛ばしながらネギを刻み始めた。その隣に並んだ悟は、彼女の首元に顔を寄せた。

「わっ、ちょっと!」

 なになに、と首を隠すように手で覆いながら距離を取っただったが、悟は構わずに近づき、再びの体に顔を寄せる。正確には、鼻先を寄せた。悟はの体から漂う匂いを嗅いでいたのだ。そうして気づいた。これは傑の残穢だと。

「傑、今どこにいんの?」
「え?」
「傑」
「……すぐるって、だれ?」

 その瞬間、悟はすべてを察した。――消したのだ、記憶を。彼女の記憶の中には、最初から夏油傑という人物は存在しない。

「あ、ねえ私もお腹空いちゃったからさ、一緒に食べない?」

 フライパンを振るいながら言う。彼女が作っているものが何なのか気づいた悟は、目を見開いた。

「それって……」
「これ? たくあんが入ったチャーハン。今日お母さんから教わったんだよね」

 違う。それは、傑の味だろ。
 そんな言葉を呑み込んだ悟は、何も言わずを抱き寄せた。はじめは驚いたように身を固くしただったが、まるで母親にしがみつく子どものように抱きつく悟に、ふっと息を漏らして笑った。
 そうしては、腰に巻きつく悟の腕をぽんぽんと宥めるように叩きながら言った。

「ただいま」

 悟は彼女を抱き締める腕の力をさらに強め、

「……おかえり」

 絞り出すような声でそう言うのだった。
 ――彼女の中にはもう、夏油傑は存在しない。いつかこんな日が来るなんて、誰が想像した? すべての日々は、こんな別れのために在ったのか?

「この味」

 その声に悟が顔を上げると、チャーハンを一口食んだが瞬きを忘れたように呟いた。

「なんだろう、これ。なんかすごく、懐かしいというか……」
「うん」
「――恋しくなるような、そんな味が、する」

 そこまで言うと、は自分の意思と反して溢れ出した涙に戸惑い、救いを求めるように悟を見上げた。
 悟は察した。彼女の中に夏油傑は存在しないけれど、彼の痕跡は確かに残っているのだと。傑が記憶の抹消をしくじるとは思えない。きっと彼女の想いが、その微かな痕だけは消されぬよう守り抜いたのだろう。

「え、五条悟……もしかして笑ってる?」
「別にー?」

 らしいと思ったのだ。傑の忘却術にも屈しなかった、記憶の欠片。いや、舌の記憶なのか。いずれにせよ、頑固な女だと思った。執念深いとでも言うべきか。

「俺にも食わせろ」
「ちょ、っと! 待って待って今お皿に取り分けるから! あーだめ! フライパンから直接食べるのはお下品!」
「うるさい女はモテないよー?」
「いいよ別にモテなくったって!」
「まあお前みたいな小うるさい頑固女、もう貰ってくれる男は俺ぐらいしかいないか」
「……はい? え、やだ、鳥肌立っちゃった。心なしか寒気もする。変なこと言わないでよ」
「失礼なヤツ」


 さよなら――
 なんて言わせるかよ、傑。
 また会った時には、立つ鳥跡を濁さずと言わんばかりに自らの痕跡をきれいに拭い去れたと思い込んでる愚かなお前を、散々バカにしてやる。だから、必ず。いつか。いつの日にか、また。



 - 完 -


(2023.12.20)


 三人が再会するまで、あと十年。それまで彼らはどんな時間を過ごしたのか。
 高専に戻ったさんは、これから恵と津美紀のお世話をすることになります。多分きっと。人使いの荒い五条悟のことだから(彼は伊地知さん然り、信用できる相手だからこそいろいろ頼んでそう)
 もしも傑の元に残っていたら、美々子と菜々子にとって実の姉のような、母のような存在になっていたのかもしれません。
 ……と、後日談やIFストーリーの妄想は止まりませんが、本編はこれにて完結です。ここまでお読みくださり、ありがとうございました!



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