第九話 そこにいて
くたびれたコンクリート造りのマンション。最上階の角から二番目の部屋の前で、傑は足を止めた。そうして鍵を差し込むと、扉はドアノブを下げる前に勢いよく開き、
「おかえり夏油さま!」
肩の上で切り揃えた茶髪を無邪気に揺らしながら、少女が満面の笑みで出迎えた。その後ろから遠慮がちに顔を出した黒髪の少女も、
「おかえりなさい」
と、照れくさそうに笑う。
傑は「ただいま」と返しながら靴を脱ぎ、二人の頭を撫でる。
「二人ともお腹は空いてるかい」
「ぺこぺこー! 夏油さま何か作ってー! あっ、あれがいいなぁ」
「菜々子。夏油さまは今帰ったばっかりなんだから」
「いいんだよ美々子、ありがとう。で、菜々子は何が食べたいのかな」
廊下を進んだ先にある台所へと向かいながら傑がそう問えば、
「あのね、チャーハン!」
菜々子は声を弾ませた。傑はその言葉に、短く息を吐くように笑った。
「好きだね」
そう呟いた傑は、冷蔵庫を開ける。卵とたくあん、ネギを取り出すと、不意に台所の壁へと視線を向けた。どこか虚ろだったその目は、「お手伝いする」という菜々子の声で、微かに光を取り戻すのだった。
◇◇◇
美々子と菜々子のチャーハンを作り終えた傑は、「少し出掛けるね」と言って部屋を出た。
そうして少女二人と住まう家の隣戸――角部屋の扉の前に立つと、ゆっくりと鍵を開けた。ドアノブを下げれば、玄関一面に真っ黒な水たまりが、まるで沼のように広がっている。沼からぬるりと顔を出したのは、一つ眼の呪霊。傑の姿を視認すると、沼を縮めていき、彼が通れるように小道を作った。
「ご苦労さま」
傑が沼の中から様子を伺うように上目で見つめてくる呪霊に一言告げると、呪霊はどこか安堵したように瞬きをした。
この部屋の間取りは、美々子と菜々子の住まう家とは真逆の作りになっていた。違いは間取りだけではない。山村の薄暗い牢に閉じ込められていた二人のためにと、日当たりのいいマンションを選んだ。少女たちは太陽の光で目覚め、あたたかな陽光に包まれながら日中を過ごしている。しかし、この部屋は違った。窓は分厚い雨戸で塞がれ、日が差し込まない。
暗い廊下を進む傑は、その先のリビングのソファで横たわる彼女の後ろ姿に、口角をゆるめた。
「硝子に会ったよ。悟にもね」
そう声を掛けると、小さな背中はぴくりと反応した。
傑は食卓の上に置かれたおにぎりと味噌汁に目を落とす。米粒は乾燥し、汁椀の底には味噌が沈殿している。
「また食べなかったんだね。だめじゃないか。食事は大事だって言ってたの、さんだよ」
ゆっくりと身を起こしたは、眉根を寄せて傑を睨むように見上げながら、
「……硝子ちゃんと五条悟と会って、何を話したの?」
「それは内緒」
「私のこと、何か――」
「特に何も? あー、硝子とは少し話題に上がったけど。でも悟なんて、さんの名前すら口にしなかったよ」
そう言われたは、唇を噛み、力なくうなだれた。
「さんが私の後を追ったと思ってショックだったのかな」
傑がソファに近寄ると、は膝を抱えて身を小さくした。傑はそんな怯えた様子のに構わず、彼女の隣に腰を下ろす。
「さんがここでの暮らしに慣れたら、美々子と菜々子にもさんの手料理を食べさせてあげたいんだ。いつも私が作る雑多なものばかりで、栄養がちゃんと足りているか少し気がかりでね。お願いできるかな?」
美々子と菜々子は、まだと対面していない。傑にこの部屋へと連れられて以来、は一度も外へ出ていないからだ。傑はが逃げないように、玄関には沼の呪霊を、窓の外にはまた別の呪霊を監視役として置いている。携帯電話も使えないよう、呪霊に電波を妨害させている。
「夏油くんは、私をどうしたいの?」
傑が顔を横に向ければ、は真っ直ぐにこちらを見つめていた。
「子守りをさせるために連れて来たの? それとも、こうやって閉じ込めて、ゆっくりと弱らせて……殺すつもり?」
揺らぐことのない眼差しとは裏腹に、言葉尻は少し震えていた。
「どうしたいの、か」
傑は息を吐くように呟いた。
子守りのためではない。もちろん、殺す気もない。彼女を連れ去ったことに、これといった目的はなかった。ただ、理屈ではない何かを感じたのだ。
呪霊を取り込む時のあの味。呪霊を呑むうちに、自らの魂も泥を塗りたくられていくようだった。たまに思うのだ。こうも体内を侵されていれば、そのうちに自分も呪いに転じてしまうのではないかと。
けれど彼女の味は、そんな仄暗い思いも、地を這うような感覚も、すべてを祓ってくれる。人であることを思い出させてくれる。この人を手放すと、自分はいよいよ人ではなくなるような気がした。
だから、強引に連れて来た。呪術師としてではない。一人の人間として、これが――最後の執着だった。
「これだけは言っておく。さんを殺す気はないよ」
自分がやったことが間違いだったとは思わない。けれど彼女にとって、それらのすべてが理解しがたい行為だったのだろう。今は何を言っても納得してもらえない。
そう思った傑は、今言える最低限のことを伝えた。気休め程度にはなるかと思っていたが、
「こんな暮らしが続くなら、死んだ方がまし」
静かに、しかしはっきりと言い切ったに、傑は束の間言葉を失う。
「そんなことを言わせたいわけじゃなかったんだ」
傑にとって、彼女は死とは真逆の場所にいる存在だった。だからこそ、彼女が口にした「死」という言葉に視界が揺らいだ。
「夏油くんの気持ちが見えない。だから、怖い……こわいよ……」
は掻き抱いた膝に顔を突っ伏し、怖い、怖い、と震え始めた。傑はそんな彼女の肩に手を置くが、
「っ、やめて!」
は鋭い声を上げて彼の手を払いのけた。けれど傑の表情を見て、「あ……」と目を見開く。
「ご、ごめんね、引っ掻いちゃった?」
どこか痛みを堪えるかのように眉を下げ、唇を噛み締めている傑に、はおずおずと顔を近づける。手元を覗き込んできた彼女に、傑は静かに尋ねた。
「さんはさ、私の気持ちが見えたら、最後まで一緒に来てくれる?」
「……最後、って――」
言葉を遮るように、傑はを抱き締めた。その勢いで後ろに倒れ、傑が彼女を組み敷くようなかたちになる。「夏油くん」という言葉は、傑の腕の中に消えた。
「何もしない。何も、しないから」
ただそこに存在してくれるだけでいい。沼に沈むこの身は、彼女の足首を掴んで顔の先だけでも這い上がることで、わずかに地上の空気を吸えるのだ。ともに沈んでほしいとは思わない。この底なし沼に引きずり込もうとは思わない。ただそこに居てほしい。こんな身勝手、許されることではないと分かっているのに。彼女を求める者が他にも大勢いると分かっているのに。――どうか悟らないでほしい。愚かな私の、愚かな思いを。
(2023.12.20)
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