――今思えば夏油傑という人は、なんともないフリをするのがうまかった。その心に積み重ねてきた仄暗い絶望を、他人に悟られないようにしていた。しかし同時に、自らもその心を直視することを避けていたのかもしれない。
周りに悟られないようにすることには長けているけれど、自分の思いに気づいてしまったら最後、誤魔化すことなんてできない。
そういう人だったと、思う。
第八話 夢じゃない
「俺が悪い。気づけなかった」
もう何度目になるだろう。五条悟がそう口にするのは。
食堂のカウンターに突っ伏す彼に、私は言葉を返す。
「誰も悪くないよ。心のうちを察することなんてできない。でも、誰もが自分の心を打ち明けられるとも限らないから……だから、誰も悪くない」
まな板の上には刻んだ長ネギと蒲鉾、たくあん。少しの間それを見つめたのち、熱したフライパンに流し入れる。
「俺、食欲――」
「だめ。ちゃんと食べないと倒れちゃう。ただでさえ任務続きなんだし」
五条悟は輪郭のぼやけた瞳で、カウンター越しにフライパンを見ていた。
「それ何?」
「チャーハン」
「その黄色いのは?」
「たくあん。お漬物だよ」
チャーハンに漬物かよ、とでも言いたげな五条悟の顔に、思わず笑いがこぼれる。こんな時でも笑えてしまう私は、どこかが欠落した人間なのだろうか。
「たくあん入りチャーハン。夏油くんから教えてもらったの」
彼は一瞬眉を上げたのち、
「……それ今食わせるか? 残酷な女」
と、頬杖を突いてそっぽを向いてしまった。言いつつも腹の虫を鳴らすので、私はまた小さく笑い、鳴らした本人はバツが悪そうに口先を尖らせた。
「恋しくて、つい。ごめんね」
夏油くんが残していったものは多くはないけど、確かにある。彼の部屋に置きっぱなしにされた必要最低限の衣類や生活用品、読み古された書籍、きちんと整理された写真。目に見えるものは、それぐらい。あとは全部、彼と過ごした人々の中に刻まれた記憶。私にとって、夏油くんが教えてくれたこのチャーハンは、彼との記憶を具現化できる唯一のものだった。
ふと気づけば、五条悟が傍らに立っていた。彼は炒め終えたチャーハンがほくほくと湯気を立たせるフライパンにスプーンを突っ込む。
「ねえちょっと、お下品だよ」
「うっせ」
一口頬張ると、咀嚼し、飲み下す。すると五条悟は、眉根をぎゅっと寄せ、どこか苦しそうに言った。
「……うまいよ」
おいしい、と言う時の五条悟の顔は知っている。本人には絶対に言わないけれど、未知のものと遭遇した少年のように目を輝かせる様が愛らしいと思っていた。でも今「うまいよ」と呟いた彼の顔は、その時のものとはまるで違う。
その背にそっと手を当てれば、五条悟も私の肩に腕を回し、私たちは束の間、互いの重みを支え合うようにして立ち尽くしていた。
夏油くんは――夏油くんは今、どうしてるの?
◇◇◇
台風が近づいていた。明日には東京を直撃する可能性があると知ったは、朝一番で馴染みのスーパーへ買い出しに向かった。雨も風も凄いよ、と止める硝子に「でも今行かないとみんな飢えちゃう」と聞かなかった。
こんな天候でも呪霊はお構いなしに湧く。その日は悟も硝子も七海もみな任務の予定が詰まっており、誰もに付き添うことができなかった。――あの時、補助監督に無理を言ってでも一緒に行けばよかったと、のちに悟は後悔することになる。
「や、久しぶり」
提げていた買い物袋を脇から奪われ、あっと声を出す間もなく眼前に現れたその人の姿に、は息を呑んだ。
「――夏油、くん……?」
の持っていた買い物袋を片手にぶら提げ、もう片方の手にはビニール傘を差した夏油傑は、返事をする代わりに目をすうっと横に引いて笑んだ。
は傘の柄を両手で握り締めながら、一歩後ろに退がる。
「どうしてあんなことを? 一般人だけじゃなくて、ご両親さえも……その――」
「殺して?」
言い淀んだの言葉をさも平然と口にした傑は、乾いた笑い声を漏らす。
「非術師の猿どもを淘汰して、術師だけの世界をつくるためさ」
猿、淘汰、術師だけの世界。傑の紡ぐ言葉を聞きながら眉を震わせるは、それでも彼から目線を逸らすことなく見上げ続けていた。
「私が怖いのかい」
「……だって夏油くん、私を殺しに来たんだよね?」
アスファルトを打ちつける雨粒が、ひときわ勢いを増した。マンホールの下で流れる水の音が、地鳴りのように轟々と鳴り響いている。
「それには意味がない」
ぽつりと呟くように言った傑のその声は、の耳には届かなかった。
傑はゆっくりととの距離を詰めていく。しかし彼が近づくごとにもまた後退りをする。
「君も私と一緒に来ないか」
傑の言葉に、は一瞬目を見開いたのち、ふるふると頭を横に振った。
「悟かい?」
静かに尋ねた傑に、「違う」と声を捻り出す。
「母から頼まれてるから。寮母のこと、ちゃんとやるって……約束、してるから」
「約束ねえ」
ふっと笑った傑は、はらりと垂れた自らの横髪を掻き上げながら言う。
「お母さん、随分と具合が悪いみたいだね。入院して半年経つんだっけ? もうじき死ぬ人との約束を守り続けて何の意味があるのかな。生き方を縛られるだけだと思うけど?」
以前の傑では考えられなかったような、何の配慮もない言葉の数々。は打ちのめされたような表情で、ひどいよ、と力なく声を漏らした。
傑は、ふっと微かに笑みを浮かべると、立ち尽くすに近づく。はまるで金縛りにあったかのように、身動き取ることも瞬きを打つことすらもできず、ただただ傑を見上げていた。
「さっきは言い方を間違えたな。"来ないか"じゃない。君も私と一緒に"来い"」
◇◇◇
夏油が消えて、しばらく経つと、もいなくなった。台風直撃の前日にスーパーへ買い出しへ行ったきり、帰ってこなかった。現場を見に行った補助監督の話によると、店から数百メートルほど進んだところにの傘が落ちていたらしい。それは、二人で街に出かけた時に買った傘だった。いきなり雨が降って来て、雨宿りする時間もなかったからその辺の雑貨屋で間に合わせに買った、色違いのやつ。が淡いブルーで、私のがクリーム色。謎のカエルがプリントされている妙な傘だったけど、は気に入っているようだった。ダサいじゃん、と言えば、「でも硝子ちゃんとお揃いだから」と笑ってた。
補助監督からブルーの傘を渡され、カエル柄を見つめながら思った。夏油だ、と――。
「で? なんで連れてっちゃったわけ? おかげで食べるもんなくて痩せたわ」
吐き出したタバコの煙が、風に散っていく。新宿駅前の喫煙所で久々に肩を並べたかつての学友は、肩の下まで伸びた黒髪を無造作に結び直しながら、ハッと短く笑った。
「連れて行ったわけじゃないよ。気づいたら付いて来てただけさ」
「ふーん。ま、つまんない嘘はいいからさ、早く帰してね。私と五条が骨になるから」
夏油は掴みどころのない笑みを浮かべて、「そろそろ行くよ」と、もたれかかっていたガードレールから腰を離した。
「君に会ったこと、彼女にも伝えておくよ」
そう言って雑踏に消えていった夏油に、なんの言葉も掛けられなかった私を、五条は責めるのだろうか。
夏油のライターで火を灯したタバコ。それを持つ自分の指先が微かに震えていることに気づいた時、思わず乾いた笑いがこぼれ出た。
「……やってらんねー」
全部、夢だったらいいのに。
(2023.11.23)
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