第六話 手


「お前さ、いつまで俺のことフルネームで呼ぶつもり?」

 腹が減って気が狂いそうと騒ぐ悟のために、は昨夜の残りのポテトサラダを揚げてコロッケにした。悟は揚げたてのコロッケをカウンターで立ち食いしながら、唐突にそう尋ねた。

「語感が良くて気に入ってるの」
「はー? ゴカン?」
「そ。いいじゃん、飽きるまでこうさせてよ」
「飽きるまでって、もう一年経つけど」

 厨房のは、大根の皮を剥きながらどこかとぼけた顔で悟を見やる。悟は「まーいいや」と諦めたようにコロッケをもう一口頬張る。途端に「アチッ」と目をつむり、はふはふと口の中に空気を入れる悟に、は笑った。

「てかそうだ、オバさん元気?」
「……あー、あんまり元気じゃないかな」

 の母は交通事故以来、片足が思うように動かせなくなり、寮母の仕事に戻るのはほぼ絶望的だと診断されていた。もとは活発に動き回るタイプの母なので、家でじっとしているのがストレスだったのだろう。先週から体を壊して検査入院をしているのだった。

「どうして人ってさ、自分の周りにいる人たちが明日もこの世に存在してるって、当然のように信じ込んじゃうんだろうね」

 そこではハッとしたように顔を上げた。今の悟にとっては重い言葉だったのかもしれないと思ったのだ。悟と傑は先日、星漿体の護衛任務で、少女の死を目の当たりにした。

「……ごめん。呪術師のみんなが生きてる世界は、もっとずっとシビアだろうから、"明日も一緒にいることが当然"だなんて思ってないのかな」

 包丁を置いたは、様子を伺うように悟を見る。悟は視線を上に向けて何かを考えているようだった。
 
「……もしもし?」

 は沈黙に耐えかねたのか、そう声を掛ける。悟は視線をに向けると、

「いや、そんなん考えたことなかったなーって」

と、再びコロッケを食む。

「ほら、俺は強ぇから寿命以外で死ぬことはよーっぽどの限りないだろうし。けど、まあ、他の奴らにとってはそうだよな」

 カウンターにこぼれ落ちたコロッケの衣を指で集めながら、

「俺の大事な奴らがみんな不死身ならいいのに」

と、呟くように言った。

「いるんだね、五条悟にも大事な人が」
「……は?」
「意外。だってほら、俺は一人で産まれて一人でも生きていけまーす、みたいな顔してるから」

 再び包丁を手に取ったは、少しおかしそうに笑いながら大根を切る。

「そんなん無理だろ」

 バカ言うなよ、とぼやきながら、悟はすっと腕を伸ばす。その手のひらはの頭に乗った。彼女は途端に動きを止め、訝しげに眉根を寄せる。

「え、なに?」
「お前が不死身になるように俺の呪力送ってる」
「五条悟の呪力を貰ったって不死身にはなれないし無下限使いにもなれないよ私は」

 そこまで言って、ははたと気づく。

「……もしかして、そういうこと?」

 悟はの頭に手を乗せたまま、彼女をじいっと見つめている。

「私も五条悟の大事な人のうちの一人……ってこと?」

 すると悟は少し面食らったような、罰が悪いような顔をして、

「自惚れんなよバーカ!」

 コロッケをもう一つ手に取って、食堂を出て行ってしまった。呆気に取られたように目を丸めて見送ったは、その感触を確かめるように、自分の頭に手を乗せるのだった。


◇◇◇


 近ごろ、五条悟の姿を見ない。硝子ちゃん曰く、出張が続いているらしい。前は夏油くんと一緒に出掛けていくことが多かったけれど、今では二人とも単独で任務をこなしているようだった。校内で二人が談笑する姿も、ほとんど見かけない。五条悟が寮に帰ってくると、それと入れ替わるように夏油くんが遠方の任務に出てしまう。三人揃って授業を受けることもあまりなくなったと、硝子ちゃんが言っていた。
 夏油くんは、以前よりも笑わなくなった。顔に笑みは浮かべるけれど、目は違った。まるで瞳の奥に、真夜中の暗い海が広がっているような。何かが蠢いているけれど何が浮かんでいるのかは全く見えない、そんな、目。

「夏油くん!」

 寮の廊下で見かけた夏油くんは、部屋着のスウェットのポケットに手を突っ込んで、俯き加減に歩いていた。そんな夏油くんに後ろから声を掛ければ、彼は振り向いて「おはよう」と、穏やかな声で返してくれた。声はいつもと変わりないように聞こえるけれど、その両目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。

「今日って予定ある?」
「今日? いや、特にはないよ」
「じゃあさ、ちょっと付き合ってもらってもいい? せっかくのお休みで申し訳ないんだけど……」
「それはいいけど、さんは私でいいのかい? 硝子とか、悟――は、まだ出張中か」
「夏油くんがいいの」

 そう返せば、夏油くんは少し驚いたように目を見開いた。

「じゃあ着替えたら校門のところで落ち合お!」
「あ……ああ、うん」

 またね、と手を振った十五分後、私は夏油くんに「おまたせ」とまた手を振る。私服姿の夏油くんは私なんかよりもよっぽど大人びて見えて、なぜだか隣に並ぶのをためらわれた。
 目的地の駅で降りてからも数歩下がって歩く私に、夏油くんはたまりかねたのか、振り返って小さなため息を吐いた。けれどその顔は、笑ってた。

「はぐれるといけないから」

 そう言って、私の手を握った。はぐれるも何も、そこまで人通りは多くないし、背の高い夏油くんを見失うわけもないんだけどな。そう思いつつも、きゅっと握られた手を離そうという気にもなれず、そのまま二人、横に並んで歩いた。

「蕎麦屋?」

 店の前に着くと、夏油くんは首を傾げる。

「……ごめんさん、私いまいち食欲が――」
「知ってる。最近の夏油くんがあんまり食べないって」

 夏油くんがあまり食を受け付けなくなったのは、あれ以降だ。星漿体の女の子の一件。

「余計なお世話かもしれないけど、でも私、寮母代理だから……だから、心配で。好物なら食べてくれるかなって」

 夏油くんは何も言わず、ただ私の手を握ったままこちらを見おろしている。

「あ、でも今日はね、ただ食べるだけじゃないの。ちょっとスペシャルな体験もしてみないかなーって思って」
「……スペシャルな体験?」
「そう! じゃあほら、入ろ!」
「あっ、ちょっと待ってさん。定休日の看板出てるよ」
「問題なし!」

 ちょっとちょっと、と焦る夏油くんを引っ張って、店内に入る。するとカウンターの向こうから店主のおじさんが顔を覗かせて、「いらっしゃいちゃん」と笑った。

「ここ、私が小さい頃からよく来てるお蕎麦屋さんでね。今日は蕎麦打ち体験をさせてもらえることになってるの」

 夏油くんに寮で声を掛けたすぐ後、急いでお蕎麦屋のおじさんに電話をした。簡単に事情を話すと、今日は店が休みだけどいいよ食べにおいでよ、と快諾してくれた。せっかくなら自分たちで蕎麦打ってみるか、と提案してくれたのもおじさんだ。

「自分で打って食う蕎麦は格別だぞ。ほら兄ちゃん、突っ立ってねぇでこっち来いよ」

 訳が分からないというふうに瞬きを繰り返していた夏油くんに、おじさんはそう言って手招きをした。私は夏油くんの手を握ったまま、彼の反応を見守る。もし拒んだら強制はせずに、おじさんには悪いけれど一旦帰ろう。そう思っていた。けれど夏油くんは、私を見おろして、

「参ったな」

と、眉を下げて笑った。その時の目に、暗い海は広がっていなかった。


 夏油くんと打った蕎麦の味は、おじさんが言う通り格別だった。お古の道具も譲ってもらって、その日の夜は二人で蕎麦を打ち、高専のみんなに振る舞った。夏油くんは、笑ってた。あの一件以前の頃のように、等身大の彼の笑顔で。
 よかった、と思った。心からそう思った。安心した。その体内に蠢いていたものが、少しでも動きを止めて、彼が年相応の平穏な時間を過ごせたのならば、よかった。

 
 でも、翌日は少し大変だった。出張中だった五条悟が帰って来て灰原くんに昨夜の蕎麦のことを聞いたのか、「俺の分は」と不機嫌アピールが止まらなかったからだ。
 また作るから、と言っても、

「お前と傑が打ってくれんの? それみんなで食べられんの? 昨日の夜と全く同じ状況で俺も蕎麦食えんの?」

と、口角を下げっぱなしだった。
 つまりは、仲間はずれにされた気持ちなんだろう。そう思うと少し哀れになって、その頭に手を伸ばす。

「っ、はァ⁉︎ おっまえ誰の頭撫でて――」
「撫でてるんじゃない。私の呪力を送ってるんだよ」
「は? 術式もないパンピーのお前のザコ呪力貰ったって何の足しにもなんねーし」
「そう? でもこうされると、自分はひとりじゃないんだなあ、って思えない?」
「はあ? 別に――」
「さっきから"は?"ばっかりだよ。もしかして動揺してる?」

 笑いを堪えながら言えば、五条悟は少し悔しそうに唇を噛んだのち、

「気安く触んなよ!」

と、私の手を払いのけた。思いのほか力が籠ってしまったらしく、五条悟は「あ……」と声を漏らし、気まずそうに私を見つめた。しかしすぐに補助監督さんから声を掛けられ、「俺もう行くわ」と踵を返す。もう次の任務に出るらしい。まさに、息つく間も無く、だ。けれど五条悟の顔色は、夏油くんのそれのように悪くはない。きっと食事や睡眠の時間はちゃんととれているんだろう。

「あ、そうだ」

 五条悟は不意に立ち止まると、こちらを振り返って言った。

「また蕎麦作れって、傑にも言っとけよ」

 そうして、車に乗り込んで行ってしまった。走り去る車を見送りつつ、先ほど五条悟から払いのけられた手をさする。

「……自分で言いなよ」

 私じゃなくて、夏油くんに。
 不平も不満も、愚痴も、泣き言だって。前は何でも二人で言い合ってたんだろうから。私なんかじゃ、何の足しにもなれないよ。
 五条悟に払われた手の痛みが、昨日感じた夏油くんの温もりで中和されていく。消えてしまわないように、手のひらを握る。
 

 ――明日も一緒にいられることが当然、だなんて。あの頃の私は、どうしてそんな何の保証もないことを、当たり前に信じてしまっていたんだろう。






(2023.09.18)


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