第五話 好きな人


「花火大会ぃ?」

 自販機からコーラを取り出した悟は、目を輝かせる灰原を見おろしながらプルタブを引く。

「はい! 青菜市納涼花火大会! この辺りじゃ有名みたいですけど、先輩たち去年は行かなかったんですか?」
「そんなんやってたんだな。硝子知ってた?」
「知らなーい」

 自販機に背をもたれつつタバコを咥えた硝子は、ライターの火をつけながら言う。

「でも花火大会ってすっごい混むじゃん。花火見るというより人間見に行くみたいなもんだし、立ちっぱで見んのもキツいし」
「青菜の花火大会はマス席で見れるみたいなんで! 有料ですけど!」
「ふーん、なら、まあ……」

 硝子の言葉を聞くと、灰原は一層瞳を輝かせ、

「じゃあ僕、席のチケット買ってきますね!」

と、意気揚々と走り去って行った。
 まだ行くとは言ってないけどな、と思いつつ硝子が視線を上げれば、そこには「花火大会」と呟きながら口元をゆるませる悟がいた。

「傑とも来るよな?」
「まー五条が誘えば来るんじゃない?」
「そうか? そうかな、そうだよな!」

 コーラを一気に飲み干す悟を見ながら、硝子はふうっと煙を吐きつつ笑うのだった。



 しかしその晩、灰原が持って帰ってきたのは花火大会のチケットだけではなかった。

さんが! 男と一緒にいました!」

 その報せに、傑の部屋でゲームをしていた悟は「あ?」と眉根を寄せる。

「まあ座って灰原」

 傑は冷蔵庫からペットボトルの水を取り出すと、それを灰原に手渡しながら宥めるように言った。そうして灰原をベッドに腰掛けさせると、

「その話、じっくり聞かせてくれないか?」

 そう言った傑の目は据わっていた。悟もコントローラーを放り投げて灰原の隣に座る。

「僕、花火大会のチケットを買うために青菜の観光所に行ってて。その帰りにコンビニに寄って、スイカバーかアイスキャンディーどっちにしようか迷って、結局スイカバーにしたんですけど――」
「お前の話はいーから! はどこでどんなやつと何してたか早く教えろって」
「そのときさんがどんな表情をしていたのかも教えて」

 特級二人に両サイドを挟まれた上に凄まれてしまえば、さすがの灰原も少し居心地が悪そうに目線を左右に泳がせた。

「コンビニを出たら、向かいの歩道を横並びで歩くさんと男の姿が見えて。何か話し合いながら歩いてる感じでした。さんの表情は……笑ってた、かな?」

 笑ってた。その言葉に、傑の眉はぴくりと動いた。そこへ、

「あー見つけた!」

 開け放たれたドアから顔を覗かせたのは、だった。灰原を指しながら「こんなところにいたよ」と弱ったように言う。そのすぐ後ろから硝子も顔を出して「桃鉄やってんの?」と訊くので、悟は「バイオ」と短く返す。傑の静かな目がを捉え、悟もどこか不機嫌そうにを睨む。いつもと違うその視線に彼女も察したのか、

「……もしかして、もう聞いちゃった?」

と、恐る恐る尋ねた。

「聞くって何を? お前が妙な男と楽しげに歩いてたって話ー?」

 面白くなさそうに言った悟に、は驚くわけでもなく、むしろ言葉の続きを待つような素振りを見せた。しかし悟がそれ以上は何も言う様子がなかったので、

「あ、それだけ?」
「……は?」
「なんだなんだ、よかったあ」

 安堵したように息を吐くに、悟と傑は目を見合わせる。

「灰原、お前が見たのってそれだけ?」
「はい! あんまりジロジロ見るのも失礼かなと思って」

 まっすぐに答える灰原の額を、悟は「薄っぺらい情報を嬉々として報告すんな」と指で弾いた。
 傑はベッドから離れると、へと近づきながら尋ねる。

さん、その男とそれ以上の何かがあったの?」

 え、と顔を上げたは明らかに動揺しており、傑は目を細める。背後で携帯をいじる硝子に助けを求めるように「硝子ちゃん」と声を絞り出したの腕を、傑が掴む。

「悪いけど、ちゃんと答えるまで逃がす気はないよ」

 ニコッと笑む傑に、は目を見開いたまま「あ、あ、あの」と口ごもる。

「彼はその、同じ大学で、ゼミが同じで……」
「うん」
「それで、その……花火を、一緒に見に行かないかって、誘われて」
「花火? それって青菜の花火大会かよ?」

 いつの間にか傑の後ろに立っていた悟が、傑の肩越しに訊く。「うん」と返したに、悟はチッと舌を打つ。

「で、なに? お前はその馬面男と花火見に行きまーすって話?」
「いや馬面じゃないし五条悟は彼に会ったことないでしょ」
「んだよさっきからカレカレって――」
「悟、待って。本筋からズレていってるよ」

 このまま悟と口論していた方がマシだったのに、と思ったのだろう。傑が話を戻したので、は逃げ場をなくしたような顔をして部屋のドアに背を張り付け、傑を見上げた。

「花火大会に誘われた。それだけ?」
「……え、っと」
「もう吐いちゃえ。じゃないとコイツらまじで逃がさない気だぞ」

 硝子に促され、は観念したようにうなだれた。

「――好きって言われた」

 水を打ったように静まり返った空間で、ベッドに放置された灰原の目だけが爛々と輝いていた。傑は曇った瞳でを見おろしていたし、悟はサングラスを外して天を仰ぎ、硝子は悟と傑の反応がおかしくて笑い出しそうなのを隠そうとしているのか顔を覆っている。
 たっぷりと間を置いたのち、悟が口を開いた。

「始末するか」
「そうだね」

 やむなし、というふうに頷き合う悟と傑に、は「えっ?」と目を丸める。

「始末って……え、なんで? 何の罪で?」
「詐欺罪とか?」
「別に騙されてないし!」

 ムキになって悟を睨むに、傑が静かに訊く。

「で、さんはなんて答えたの?」
「断ったよ当たり前でしょ」
「どうして?」

 どうして。そう問われて、は押し黙った。

「好きな人がいるからー?」

 飄々とした口調で言葉を投げた硝子に、悟と傑は鋭い眼光を向ける。

「なんだそれ? 俺そんなの聞いてないけど? お前それマジなの?」

 は硝子を小突きながら、

「デマです!」

と叫ぶように言うと、自身に注がれる視線を跳ね返すように、

「私には! 好きな人なんていませんから!」

 そう宣言して、傑の部屋から飛び出して行くのだった。



 そんな騒動の翌日。任務を終えた傑が食堂に向かえば、夕日の差す窓辺の席で突っ伏すの姿があった。筋取り作業の途中で眠ってしまったのだろう、彼女の周りにはさやいんげんが散らばっていた。
 傑は彼女の隣に腰掛けると、彼女が片手に持っていたいんげんを手に取る。そのとき、指先の絆創膏に気づいた。傑は彼女が、人知れず料理の練習をしていることを知っている。もう十分においしいのに、もっともっとと努力している姿が健気だと思った。
 傑は頬杖をついて、その寝顔をじっと見つめる。まるで穢れを知らないような、無垢な顔。彼女は知らなくていい。呪霊に殺された人々の姿も、祓われる呪いの断末魔も、呪術界上層部の腐敗も、術師の苦悩も、何もかも全部。
 ひぐらしの鳴く声が聞こえる。傑はしっとりと汗ばむ彼女のこめかみに触れ、やわらかな髪に隠れていた耳へと顔を寄せる。そうして、ひぐらしの声に紛れさせるように囁くのだった。

「好きだよ」



◇◇◇



 一マスごとに紐で区切られた区画内にレジャーシートを広げ、持ち寄った弁当や露店の食べ物を摘みつつ花火の開始を待つ人々の姿。先に会場へ行っていた灰原と七海と合流すると、は早速ビールを買おうとする硝子を懸命に引き止め、悟は両手いっぱいに焼きそばや焼き鳥、イカ焼きを買い込み、傑は初めての花火大会に興奮する悟を落ち着かせつつ買い物に付き合うのだった。
 灰原は今日のために二マス分の区画のチケットを購入していた。一つのマスには灰原、七海、硝子が、その隣のマスにはを挟むかたちで悟と傑が座った。地面にレジャーシートを敷いただけではお尻が痛くなるだろうから、と灰原が座布団まで用意していたので、硝子はその気遣いが気に入ったのか「いっぱい食べな」と悟が買ったタコ焼きやら唐揚げやらを悟の許可なく灰原にあげるのだった。

「私、花火大会って初めて」

 悟にもらったフライドポテトをかじりながら、が声を弾ませた。

「二人は?」
「俺もこんなパンピーの行事に来んの初めて」
「私は一度あるかな」
「あー元カノと行ってケンカ別れしたって言ってたな」
「えっ、そうなの?」
「……余計なことを」

 悪びれずにヘッと笑う悟に対し、傑は苦々しい顔をしたのち、

「昔の話だよ。もうほとんど忘れてた」

と、に笑いかけた。

さん枝豆食べる?」
「あっ食べたい。いいの?」
「もちろん」
「傑、それ俺が買ったやつだろ」
「これは私が買ったんだよ。さん、豆類好きだから」

 そうなの、と首を傾げる悟に、

「好きだよね?」

と、傑はに問いかける。

「うん、好き。夏油くんはなんでもお見通しだね」

 は少し照れたように小さく頷くと、差し出された枝豆を手に取った。越しにどこか勝ち誇った笑みを見せた傑に、悟は口角を下げた。

「おい。お前これも食えよ、好きだろ?」
「りんご飴? うーん、私こういうのは……」
「なんだよ」
「あんまり、得意じゃなくて……」

 悟は一瞬打ちのめされたような顔をしたが、フンッと不機嫌そうに息を吐いたのち、りんご飴をガリガリとかじり始めた。

「これあげる」

 そんな悟に、が紙袋を差し出す。

「なんだこれ」
「ベビーカステラ」

 悟は首を右に左に倒しながら、袋の中から小さな鈴のようなものを取り出す。食べてみて、と目で促すに、悟は手にしたベビーカステラを口へと放り込んだ。

「うっま!」
「でしょ。五条悟、こういうの好きだと思って」

 の言葉に、悟はベビーカステラを摘む手を止めた。へへっと笑うの向こうでは、傑がどこか遠い目で悟の手元の紙袋を見ていた。その視線に気づいた悟は、傑の方へと腕を伸ばす。

「傑、お前も」
「いや私はいいよ」
「じゃあ俺にも枝豆食わせて」

 目の前で行われるやりとりに、は「よし」と手を叩く。

「みんなでシェアして食べよ」

 片手に枝豆が入ったカップ、もう片方にベビーカステラの紙袋を持ち、「好きなタイミングで摘んでね」と言った。

「それじゃさんの手が疲れるから」
「そうだよ。取る側も気ぃ遣うだろ。ここに置いときゃいいって」

 悟に促され、は自分の前にカップと紙袋を置いた。すると、悟はすぐに枝豆を摘んだ。しかし傑はベビーカステラに手を伸ばすことはなく、瓶のコーラを少しずつ飲むばかりだった。
 そこで場内アナウンスが入り、会場の照明が落とされる。期待に満ちたどよめきが起こるなか、口笛のような音とともに、夜空に一筋の光が昇った。それはパァンと弾けると、赤や青、黄、橙の大輪を咲かせる。

「きれい」

 手を伸ばせば届きそうな光に、はまるで夢を見ているかのような声音で呟いた。そうして、悟と傑を交互に見やって、

「また来年もみんなで見ようね」

と、目を細めて笑うのだった。


 彼らはまだ知りようがない。一年後の夏、自分たちの姿がこの花火の下にはないということを。夜空に咲いて刹那に散っていく花火のように、彼らの日々もまた――。






(2023.08.14)


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