五条悟は人をからかうということが好きだ。生まれ持った能力が己を傲慢にさせるのか、基本的にはナチュラルに他人を煽っている。中でも反応が良い相手にはしつこく絡むので、彼の標的にされるとなかなかにストレスフルな日々を送ることになる。
 ――と、庵歌姫はに前置きした上で、こう忠告した。「相手にしないこと」と。「一度相手にすると面白がって一生からかってくるんだからね」。真に迫った彼女の表情に、はごくりと生唾を呑み込みつつ頷くのだった。

第三話 初めての


「これ捌いてみろよ」

 まな板の上にドサリと置かれた大魚に、は思わずのけぞる。そんな彼女の反応に、悟はニヤリと口角を上げた。

「……何これ」
「マダラ? とかいう魚らしいわ」
「ま、だ……? なに、どこで」
「漁村で貰った」
「貰ったって、こんな――」
「ごちゃごちゃうるせーなあ。はいはい包丁握って握って。お手並みはいけーん」

 包丁を握らされて硬直しているに、五条はくつくつと喉を鳴らして笑う。魚を捌くのが苦手だと小耳に挟んだのだ。今日の任務地が海辺の村だったので、漁師から肥えた真鱈を買い付けた。わざわざ、をからかうためだけに。

「できないのー? 寮母代理なのに魚一匹も捌けないわけー?」
「――ちゃ、だめ……」
「ん?」
「……相手にしちゃ、だめ」

 はギッと鋭い目で悟を睨みつけると、包丁を手放し、脱兎のごとく厨房を飛び出して行くのだった。

「逃げた」

 悟は予想外の反応に目を丸めたのち、まな板の上に横たわる真鱈をつんつんと突く。
 あいつが捌かなかったらこれどうなるんだよ。傑がいけるか? 魚捌けそうな顔してるからな。悟はそんなことを考えつつ、とりあえず冷やしとくかと、漁師から貰ったクーラーボックスに真鱈を戻すのだった。



 逃げたと思われたは、ものの一時間もしないうちに戻ってきた。自室に戻っていた悟を呼び出し、たまたま食堂にいた傑と硝子にも声を掛けて自らギャラリーを増やすと、真鱈と対峙して大きく息を吐く。

「お前どこ行ってたんだよ?」
「魚屋のご主人に捌き方を聞いてきた」

 真面目かよ、と噴き出す悟を横目で睨んだは、見てろと言わんばかりに真鱈を両手で抱え上げて流しに置くと、ゴシゴシと鱗を取り始めた。
 そうしてまな板の上に戻すと、神妙な面持ちで頭部に包丁を押し当てる。しかし躊躇ったように一度手を引っ込めると、真鱈の目を覆い隠すように布巾を掛けてあげるのだった。

「……介錯する気持ちだ」
「なんだそれ」

 笑う悟の横で、傑はの首筋に視線をやっていた。汗が光っている。自転車を爆走させて帰ってきたのだろう。傑はキッチンペーパーを手に取ると、の首をそっと拭った。一瞬驚いたように肩をびくりと上げただったが、「汗かいてたから」と言う傑に、

「汗拭ってもらったの、お母さん以外で初めて」

と、ふっと力を抜くように笑った。
 そんなやり取りを見てムッとした表情を浮かべた悟は、の方へ顔を寄せて――。

「っ、ひゃ――! なっ、なに! は? なんなの!」

 は咄嗟に悟へ包丁を向けて、慌てふためく。悟がの首筋を舐めたのだ。ペロッと。まるで犬か猫のごとく。
 包丁を突きつけられても悟は動じることなく、悪びれずに言う。

「汗舐められたの、おかーさん以外で初めて?」
「お母さんにも舐められたことないよ!」

 硝子はオエッと嗚咽する素振りを見せ、傑は「今のはさすがに引くわ」と目の下を痙攣させている。

「五条悟ってそんな感じ? こんなこと平気でしちゃう男なの? よくないよ、よくない! 女の人の体に無遠慮に触ったら普通は警察行きだからね?」
「この顔の男に触られて警察呼ぶ女なんていねえっての」

 さらりと放たれたその一言に、一同は「うわぁ」と哀れむような目で悟を見る。

「五条悟。君は一回痛い目にあった方がいいよ、ほんとに」
「はァ? なんでだ、よ!」
「いたっ! ちょ、ねえ見た硝子ちゃん? 頭突きされたんですけど!」
「おー見た見た」

 硝子は気だるそうに笑いながら椅子に座り、「お腹空いた」とぼやいた。その言葉に、悟を睨んでいたはハッと我に返ったようにして真鱈を見おろす。

「ほら魚。早く捌いてあげないと」

 傑はそう言って、の背中をぽんっと軽く叩いた。それを見た悟は、

「そうだよ早くやれっての」

と、バシンッと背を叩く。その力の強さにはよろけた。加減を知らない男は嫌われるぞ、と小言を言ってやりたいのを堪え、はついに真鱈の体へと包丁を入れるのだった。
 
「わ! お腹から脳みそみたいなの出てきた!」

 腹を割ると、どろどろと溢れ出すように内臓がまろび出てきた。脳みそと表現するに、傑が「これは白子だね」と教える。

「うげぇ何だそれ? グッロ、きっしょ」
「だから白子。タラの精巣だよ」
「セイソー?」

 音の響きと漢字が頭の中で結び付かなかったのか、悟は右に左に首を傾げる。そんな彼に、傑はため息を吐きつつ耳打ちをした。その傍らでが「これが白子かあ」と呟く。傑から白子の正体を具体的に聞いたのであろう悟は「まじかよ」と絶句する。
 そんな厨房の三人に構わず、硝子がハーイと手を挙げながら言った。
 
、私それ天ぷらで食べたーい」
「えっ食うのこれ?」
「ツウだね硝子。もしかして飲み屋とか通ってる?」

 食うのかよ、と恐ろしいものを見るような目を硝子に向ける悟。一方の傑は、でも確かにうまそうだな、と声を漏らす。その隣で、は、

「飲み屋なんてだめだよぉ硝子ちゃん未成年の飲酒は」

と、どこか棒読みで言った。そんなに、硝子は頬杖を突きながら返す。

「こないだ一緒に飲んだ人がよく言うよ」
「え? ……さん、それ本当?」
「――や、えっと、んー」
「ほんとほんと。さすがに外じゃマズいからって、の家で」
「しょ、硝子ちゃん」
「あ、白子なら日本酒がよさそうだな。ねえ、こないだのあれまだ残ってる?」
「硝子ちゃんっ、硝子ちゃーん……!」

 傑の視線を気にしながら声を絞り上げるようにして呼びかけるに、硝子はにやりと笑う。

「私との夜をなかったことにはさせないよ」

 言い方。は胸の内で突っ込みつつも、女殺しのような硝子のセリフに耳を赤くするのだった。

「大丈夫。夜蛾先生には黙っておくから」

 は傑の言葉に「夏油くん」と安堵したような息を漏らす。そんな彼女の赤らむ耳に、傑はそっと顔を寄せて言った。

「その代わりと言ってはなんだけど、その飲み会、今度私も混ぜてほしいな」
「――えっ」
「まずいかな?」

 微笑みつつも有無を言わせない圧を感じたは、「ノンアルだからね」と弱ったように言う。よかった、と笑んだ傑に、「何の話?」と今まで白子を凝視していた悟が声を掛ける。は傑が口を開きかけたのを阻むかのように「あっそうだ」と声を上げる。

「この白子、春巻きにしてもおいしいかも?」
「いーねそれ」
「俺ムリ、そんな共喰いみてーなことできっかよ」

 いいねいいねと足をパタパタとさせる硝子、その一方で悟は心底気持ちが悪そうに言った。
 しかしその後、誰よりも白子の天ぷらと春巻きをおかわりしていたのは悟だった。硝子に「あんた共喰いしてるよ」と言われても、「よく考えりゃ魚と俺のアレじゃモノが違うからいいんだよ」と謎の自信を滲ませながら、ばくばくと食べ進める。を試そうとした結果、五条悟は白子という新たな味を覚えたのだった。


◇◇◇


「こんなのいじめだよ!」

 は悲劇的な声を上げながら食堂を飛び出して行った。その背中に向かって、悟はひらひらと手を振り「勝った」とほくそ笑む。
 先日の真鱈作戦は悟の敗北に終わった。はあの大魚を見事に捌き、何品もの料理をこしらえたのだ。
 今度こそから降参の言葉を引き出したくて持参したのは、大きな水蛸だった。これも漁師から買い付けたものだ。

「いじめ?」

 首を傾げながら食堂に入ってきた傑に、悟は水蛸を見せる。すると傑はため息を吐きつつ言った。

「悟。さんのことを気に入ってるのは分かるけど、おちょくるのも大概にしないと、本当に嫌われるよ」
「別に気に入ってなんかねーよ! ただ遊んでるだけで」

 ムキになって否定する悟に、「どうだか」と笑う傑。
 そこへ、息を切らしたが戻ってくる。その片手には携帯電話が握られていた。覚悟を決めたような目をして厨房へ入ると、五条をキッと見上げて、

「見てな」

と包丁を手に取る。
 そうして蛸の足を切り離してボウルへ投げ込み、塩をまぶして流水で洗う。次に片栗粉を投入すると、ギュッギュと蛸足を扱いて滑りを取りはじめた。

「うう……ヌメヌメしてる……」

 もうやだ、と言いつつ蛸を扱く手を止めない。そんな彼女の手元をじっと見つめていた悟に、何かを察した傑が「悟」と肩を叩く。悟は我に返ったように目を開くと、傑が視線で送る合図に気づき、自らの下腹部を見下ろす。

「――げっ、まじかよ」
「え?」
「うそだろ、こんなんで……」
「なに? どうしたの?」

 は手を止めて悟を見上げる。しかし悟は「こっち見んな!」と彼女の顔を蛸へと戻すと、

「俺ちょっと……」

と、どこか慌てた様子で食堂を出て行った。

「ねえ夏油くん、五条悟どうしちゃったの?」
「どうしちゃったんだろうね」

 別段気にするふうでもない傑に、もきっと大したことではないのだろうと思ったのか、蛸の滑り取りを再開するのだった。
 悟が食堂に戻ったときには、蛸の唐揚げ、蛸刺し、蛸しゃぶが並んでいた。勝ち誇った顔で「召し上がれ」と言うに、悟はチッと舌を打つ。

「なんかズルしただろ」
「してないよ!」
「私も見ていたけど、ちゃんとさん一人で捌いてた」

 悔しげな表情を浮かべる悟に、は携帯電話を突き出す。

「魚屋のご主人に捌き方を教えてもらったの」

 そうだった。こいつにはブレーンがいるんだ。ていうかいつの間に魚屋のおやじと連絡先交換してんだよ。俺だって知らねーぞ、こいつの番号。
 「おいしい」と声を弾ませる傑に「よかったあ」と安堵の笑みを浮かべる。そんな彼女を睨むように見つめながら、連絡先知らねぇぞ俺は、と悶々とする悟であった。


◇◇◇


「やると思った」

 水蛸の余りでタコワサをこっそりとこしらえたは、料理を盛った皿を忍ばせて食堂を後にする。すると廊下の角から待ってましたとばかりに硝子が現れ、咥えタバコでニヤリと笑んだのだ。

「硝子ちゃん……まだ起きてたの」
「まだ九時だしね。十六の夜はこっから始まるんだよーってことで、ご相伴に預かっても?」

 は諦めにも似た笑いをこぼしながら、

「ビールしかないけどいい?」

 そう言うと、硝子はグッと親指を突き上げるのだった。

「いいのかな。未成年に飲酒させても」

 不意に耳元で囁かれ、はヒィッと小さな悲鳴を上げる。いつの間にか背後に立っていた傑を見上げ、後退りをしながら「夏油くん」と声を震わせた。

「言ったよね。私も混ぜてくれたら……って」
「――どうしよう硝子ちゃん、私、脅されてる」

 は助けを求めるように硝子の元へと駆け寄った。すると硝子はタバコを指に挟み、ふうっと煙を吐く。

「いーよ夏油。あんたも結構いける口だし寂しんぼだから、仲間に入れたげる」
「……いや、寂しんぼではないけどね」
 

◇◇◇


 ドンドン、と戸を叩く音には飛び上がった。傍らでは円卓を囲むようにして硝子、傑が酒を酌み交わしている。
 の住む小さな平屋建ての家は、寮の裏手にあった。代々の寮母家族が住まう家として高専から貸し与えられている。原則、寮生が立ち入ることは禁じられているのだが、前に一度硝子と酒の話で盛り上がった際に、勢いで家に招き入れてしまったため、それ以来味をしめた硝子は隙あらばの家を訪れるのだった。

「ど、どうしよう……夜蛾先生かな」
「だったら表の玄関からチャイム押すんじゃなーい? こんな夜中に人んちの裏口を容赦なく叩く非常識野郎といえば……」

 は台所の脇にある裏口へと恐るおそる向かう。硝子と傑は、酒を飲みながらその背を目で追う。ドアノブに手を掛け、ゆっくりと回すと――。

「お前んちってここかよ? ボッロいから物置きかと思ったわ」

 見るからに不機嫌な五条悟が、ふんぞり返って立っていた。の肩越しに傑と硝子の姿を認めると、途端に眉をしかめる。

「三人で何やってんだよ? もしかして……」
「いやらしいことではありませんジュース飲んでただけです」

 口早に言ってドアを閉めようとしたに、悟の罵声が飛ぶ。

「しーっ!」
「ふッ、ン――!」

 その大きな声に、は慌てて悟の口を塞ぐ。

「ここは学生の立ち入り禁止なの! バレたら私ものすごい怒られるの! だから静かにして!」

 悟はの手の下でもごもごと口を動かし、何か反論している。は「あーもう!」と半ばやけくそになりながら悟を家の中へと引き入れる。

「もう好きにやんなよ若人諸君! 責任はお姉さんが取るから!」

 そう言って、傍らの冷蔵庫をバンッと開け、ビール缶を取り出してごくごくと飲み始めた。

「五条、あんたよくこの場所が分かったね」

 荒ぶったの姿に目を細めた悟は、そのまま視線を硝子の方へと向けた。傑は硝子のために新しいビール缶を開けながら、悟を見やる。

「別に。ただ隣の部屋から傑の気配が消えたなと思って。んで、傑の残り香をたどって来たらここに着いたってだけ」

 傑の気配、傑の残り香。そのパワーワードに、は思わず振り返った。視線がかち合った硝子と共に首を傾げながら、瞬きを繰り返す。

「悟……私の気配を察知しようとするなって、何度言えば分かるんだよ」
「勝手に分かっちまうんだから仕方ねーだろ」

 やれやれ、とでも言うように首を振った傑は、タコワサをひと摘み口に入れる。すると悟は首を伸ばして、「それ何?」とタコワサを指す。

「五条もこっちおいでよ。あんたまだ酒飲んだことないっしょ」

 硝子の手招きに誘われるように、悟は円卓に近づいて来るとその場に腰を下ろす。

「硝子、悟に酒はまだ早いかも」
「だーいじょうぶだって。五条家のボンが酒の一つも知らずにどうすんの。あれだよあれ、禪院あたりに舐められるよ」

 硝子は開けたばかりのビール缶を悟の頬に押し付ける。禪院という言葉に、悟の眉根はピクリと動いた。

「はあ? 俺を誰だと思ってんだよ? あんな連中に舐めさせねーし」
「おうおうその意気だ」
「酒? こんなん変な味のジュースみてぇなもんだろ?」
「いけ五条やったれやったれ」

 硝子の合いの手に乗せられた悟は、缶をむんずと掴むと、ゆっくりその飲み口に唇を近づけていく――その時。

「硝子ちゃん、初心者を煽っちゃダメ」

 悟からビール缶を奪い取ったは、硝子に厳しい口調でそう言うと、はあっとため息を吐きながら悟の隣に座った。ほんのりと頬を赤く染めるの横顔を盗み見るようにしていた悟だったが、

「五条悟にはこれ」

と差し出されたオレンジジュースに、口を尖らせる。

「初心者さんの代わりに、このビールは私がいただきます」

 喉を鳴らしながらビールを飲み始めたに、悟はぼそりと呟いた。

「……めやがって――」
「ん? なに?」
「舐めやがってっつったんだよバーカ!」

 悟はからビールを奪うと、まるで湯上がりの牛乳を飲むかのようにグビッと缶をあおった。

「悟ストップ!」

 慌てて傑が止めに入り、悟から無理やり缶を引ったくる。「さすがに一気飲みはまずいって」と、返せと暴れる悟の頭を押さえ付けて制する。すると悟はぴたりと静止し、口内に広がった味に顔をしかめる。

「……まっず」

 五条悟、初めての酒の味。さすがにまだ舌が慣れないのか、ビールの味を洗い流すかのようにオレンジジュースを一気に飲み干した。その姿に硝子はゲラゲラと笑い、も、

「五条悟もかわいいところあるね」

と笑った。その言葉に、悟は眉根を寄せる。

「お前それやめろって」
「それって?」
「すーぐ年上ぶんの」
「だって年上だもん」
「中身はガキなんだよ」
「……はい?」
「どっかで聞いたけどお前、夜中に一人でトイレ行けないんだってな。昔、朝まで我慢して膀胱炎に――」

 そこで、悟の口は再びの手によって塞がれる。

「誰に聞いたの」
「ひょーこ」
「……っ、硝子ちゃーん……!」
「えー? 私そんなこと五条に教えたっけ」

 悟はの手を口から引っ剥がすと、「そういえば」とよからぬ笑みを浮かべる。

「漁村のおばちゃんに聞いた話なんだけど。明け方、まだ辺りがほの暗い時、海辺にある電話ボックスの前を――」
「待って! え? いきなり怪談始めようとしてる?」
「潮風のせいか、その電話ボックスって今じゃもうボロボロで壊れかけてて、使う人も全くいないし何なら撤去寸前らしいんだけど、おばちゃんが通りかかったちょうどその時――」
「やめてー! 苦手なんだって! 怖い話ダメなの私!」

 それでも話を続けようとする悟に手を伸ばしただったが、その指先は悟に届かなかった。

「ず、ずっる……!」

 に口を塞がれるのを術式でガードした悟は、勝ち誇った顔で彼女を見下す。

「怪談苦手なら、傑は何の話したらいいんだよ。なあ?」

 それまで悟とのやりとりをじっと見つめていた傑は、不意に話を振られて少し驚いたように目を開いた。

「別に怪談以外にも話せる話題はあるけど」
「……なに? どういうこと?」

 無下限越しに悟へ向かってパンチをし続けるは、傑の方へと顔を向け、声を潜める。

「集めてるんだ、仮想怨霊。だから怪談話も、実体験込みでたくさん知ってるよ」
「――え? 集めて、る?」
「あの話してやれよ傑。ほら、口裂け女の呪霊取り込んだ時の」
「えっ? 口裂けおん……夏油くん? その体の中に、口裂け?」

 困惑したように言葉をただ繰り返すに、硝子はピーナッツを頬張りながらプククと笑う。傑は自らの口に手を持っていきながら言った。

「出そうか?」
「いやーっ! やめてやめてやめてやめて!」

 悲鳴を上げただったが、手を下ろして力なく笑った傑の様子に、はたと我に返る。そうして「夏油くん」と四つん這いで傑の隣に移動すると、言葉をつっかえながらも懸命に訴える。

「ちっ、違うからこれは、夏油くんじゃなくて口裂け女が私、怖くて……だから夏油くんが嫌なんじゃなくて――」

 その表情がごめんなさいと言っていた。傑は息を漏らすようにして笑うと、

「分かってる。私こそ悪ノリしてごめんね」

と、の頭に手を置いた。ゆるゆると撫でられると、は耳を垂らした犬のように大人しくなり、その場に正座をして唇をきゅっと結ぶのだった。
 その反応が面白くなかったのか、悟は先ほど傑に奪われたビール缶を手に取ると、缶を逆さにしてどばどばと喉に注ぎ入れる。そうして缶を術式で縮小させると、に向かってポイッと投げた。するとそれは、悟の飲みっぷりに唖然としていたの額にクリーンヒットした。何すんのよ、と怒りながら戻って来たに、悟は何も言わずただその顔をじっと見つめる。そうして彼女の頬にそっと手を当て、

「腹立つ顔。叩かせろ」

と、ペチペチと軽く両手ビンタを喰らわせるのだった。

「ちょ、っと!」
「あと連絡先教えろ」
「……え?」
「なんで魚屋のおやじが知ってて俺が知らねーんだよ、ンなのおかしいだろ」

 は悟の両手を掴むと、少しうなだれている悟の顔を覗き込む。そこで見た赤く染まる悟の頬や焦点の定まらない瞳に、眉根を寄せた。

「私も知ってるよ、さんの連絡先」
「私もー」
「はあ? なんでお前らそうやって、いっつも俺の知らねぇところ――で……」
 
 悟はそこで言葉を切り、上体を揺らした。しかしその体が後ろに倒れる前に、が悟の腕をグイッと引き、抱き留めた。瞬発的に対処できたのは、先ほど悟の顔を覗いたときに察したからだ。かなり酔いが回ってきているな、と。
 悟は縋り付くかのように、の背中へとぎゅうっと腕を回してくる。そうして、彼女の首元に顔を埋めるかたちで寝息を立てはじめた。その姿はまるで、母の胸で眠る幼い子どものようだった。
 悟を抱き締める――というより、に抱き付く悟に、硝子と傑は互いに目を見合わせる。

「ひとまず、吐かなくてよかったけど……」

 そんな二人の反応に気づいて、は少し困ったように笑いながら言った。

「こっからまだ分かんないぞ。寝ゲロするかも」
「仕方ないな。悟、さとるー」

 円卓の向こうから身を乗り出して悟の肩を叩く傑。しかし悟は起きる気配はもちろん、寝息を乱すことすらない。

「いいよ大丈夫。ここで寝かせよう」
「そこまでさんに迷惑を掛けるわけには……私が抱えて帰るよ」
「ほんとに大丈夫だよ。……だって五条悟、初めてのお酒なんだよね? 部屋で一人になったときに容体が急変したりとかしたら怖いから」

 は悟の体を抱き締めたままゆっくりと上体を横に倒し、悟の背が畳についたのを確認すると、腕をそうっと離した。

「じゃあ私も泊ーまろっと。と二人っきりにしたら、こいつ何するか分かんないしね」

 そう言って、硝子もその場にごろりと転がり、仰向けになる。

「じゃあ私もお邪魔しようかな。酔い潰れた親友が女性二人に何かされたら困るからね」

 傑がため息混じりに体を横たえると、硝子が気だるそうに「しねーよ」と突っ込んだ。
 は今にも寝んとする彼らに「お布団持ってくるから」と慌てつつも、小さな居間に四人で雑魚寝する絵を思い浮かべ、笑いを堪えきれずにプッと噴き出す。なに、どうした、と首を傾げる傑と硝子に、

「こういうお泊まり会って久しぶりで……なんかワクワクしちゃうね」

と笑った。
 その言葉に硝子はむくりと起き上がり、「じゃあもう少し飲むか」と声を弾ませる。傑も「いいね」と上体を起こすので、も諦めたように円卓に着く。
 しかし、ビールを取ろうとした彼女の腕を、すうっと伸びてきた手が掴んだ。

「……し、い」

 悟だ。目を瞑ったまま、何かを言っている。はその顔に耳を近づけた。

「まぶしい」

 その四文字を確かに聞いたは、すくっと立ち上がって蛍光灯の紐を掴んだ。そうして、

「ごめん二人とも、今日は解散! おやすみ! 消灯!」

と、問答無用で部屋の明かりを消すのだった。



 翌朝、ひどい頭痛とともに目覚めた悟は、自らが抱き締めて眠っていたその人の姿に目を見開く。傑だ。なんで隣に傑が寝てんだ、ていうかここはどこだ、と辺りを見渡し、傑の隣で眠るの姿に目を止める。ああそうか、と昨夜のことを思い返しつつの寝顔をうかがっていると、ふと気づいた。と傑が、手を繋いでいたのだ。――いや、よく見れば、の手を傑が握っている。

「……傑、怖い夢でも見たのかよ」

 プッと笑う悟は気づかなかった。そこにどんな意味があるのか。どういう感情が、傑の手には込められていたのか。
 すべてを知るのは、もっと後。この日々が終わる、その時のこと。






(2023.07.24)


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