第二話 祓う味


 寮で食べる家庭料理というものが好きだった。
 実家ではハムカツとかスパサラとか、そういうモサッとしたものは食べたことがなかった。それに、出来立てのあたたかな料理にも親しみがなかった。五条家の跡継ぎに何かあってはいけないからと、調理場で作られたものは毒味役が試食し、時間を置いても異変がないかチェックをする。そうやって俺の元に届く頃には、膳の中はすっかり冷え切っていた。
 だから呪術高専に入って寮生活を始めたとき、モサッとしたあたたかな料理を食べて、この世にはこんなにうまいものがあったのかと感動すら覚えた。寮母が変わって、若い女にオバさんの熟年の技が染み込んだ味が出せるのかと疑っていた。――ら、普通にうまかったので、内心めちゃくちゃ驚いた。

「あっ、おかえり」

 食堂に入ると、夕食の支度中のが厨房カウンターから顔を覗かせて笑った。
 が寮母代理として寮にやって来てから(と言っても俺が知らなかっただけでこいつは昔からここに住んでいるらしい)もうすぐひと月が経つ。初対面時には感じの悪い仏頂面の女だと思ったが、どうもただ緊張して肩に力を入れすぎていたらしく、今ではその間抜けっぷりを隠すことなく見せつけてくるから、たまにムカつく。今もああやって、へらへらと笑いかけてくる。俺が今、どこに行ってて、何をしてきたのかも知らずに。

「お味噌汁に卵落としてもいい? そういうの嫌い?」

 五条家ではみな、うん百年ぶりの無下限呪術と六眼の抱き合わせである俺に対して、腫れ物に触るように接していた。でも、高専では違った。傑や硝子が初めてだ。俺を五条家の次期当主としてではなく、無下限使いの六眼としてではなく、一人の人間として対等に扱ってくれたのは。そして、ある日突然ふっと湧き出てきたこの女も。

「ねえ聞こえてる? たーまーご」
「……今の」

 厨房と食堂を隔てるカウンターに肘を突けば、厨房側に立つは菜箸片手にかすかに首を傾げる。

「今のもっぺん言って」
「え? 卵を味噌汁に……」
「その前」

 俺が、どこで何やってたかも知らずに。――いや、こいつは知らなくていい。呪いに襲われた人間のむごい死体も、祓われるときの呪霊の断末魔も。
 はなおも首を傾げたまま言う。
 
「……おかえり?」
「ちゃんと言えよ」

 するとは菜箸を置き、カウンターに肘を突く俺を真正面から見つめると、

「おかえり」

 そう言って、穏やかに微笑んだ。平和ボケした顔して笑いやがる。でも全然、嫌な気はしない。
 おかえり。そんな四文字、五条家には存在しなかった。あの家でその言葉は、もっとうやうやしく、長ったらしいものに変わる。

「……ただいま」

 そう返した俺は、口元をゆるめていたと思う。が驚いたように目を見開いて「五条悟がウブっぽく笑った」と言ったから、とりあえず「卵入れとけよ」とだけ返して背を向けてやった。がさがさと物音がするので振り返ってみると、が「卵入りまーす」と言いながら鍋に卵を割り入れていた。バカみてえ。お気楽なやつ。そう思いつつもなぜか目が離せず、椅子に腰掛けてその様子をしばらく眺めていた。それが物欲しげな顔に見えたのか、は「今持って行くから」と慌てて味噌汁を手に駆け寄ってくる。

「ひっ、あ――!」

 何もないところでつまずくのは、こいつの特技なのかもしれない。が体を前のめりにさせると、手にしていた椀が宙を舞い、中身の汁と卵が俺の頭上に降りかかった。

「ッ、……だあぁもう! お前! ほんっとお前!」
「ご、ごめ……」

 すっかり油断して無下限を解いていたため、頭部は味噌汁まみれ、おまけに半熟の卵が眼帯のように張り付いて視界が黄色い。

「救いようのないマヌケっぷりだなお前ほんと! なんか憑いてんじゃねーの?」
「えっ、うそ。憑いてないよ、憑いてない……よね?」

 は自分の左右の肩を見ながら不安げに言う。ああそうだ、こいつ非術師だけど呪いは視認できるんだっけ。

「いいからなんか拭くもん寄越せよ」
「あっ、はい!」

 は厨房から布巾を持ってくると、無遠慮に俺の顔面を拭いはじめた。

「ぶっ、は……! ちょ、おまっ、おれ、自分で――」
「ごめんごめん! 本当にごめん!」
「てかこれ! くっせぇ! その辺のボロ雑巾で国宝級イケメンの俺の顔――」
「許して許して!」

 その腕を掴めば、はぴたりと制止する。その顔にはニヤニヤとよからぬ笑みが浮かんでいた。もしかしてこいつ、いや、もしかしなくとも――。

「面白がってんだろ!」

 「バレた」と笑ったの頬を摘んで引っ張れば、いひゃいっ、と情けない声が上がった。

「あ、夏油くん」

 の言葉に振り返るが、そこに傑の姿はなかった。「隙あり」と言って厨房へ逃げていくに、あいつ本当に年上かよと呆れてしまう。俺を呆れさせるなんて、ほんとに大したバカ野郎だ。


◇◇◇


 食へのこだわりはなかった。鳴る腹をおさめるために物を入れているぐらいの認識だった。
 けれどある時、その認識は少しずつ変容していった。早朝の任務で寮を出ようとすると、さんが「軽食」と言って袋を持たせてくれたことがある。大学の講義もあるのに、毎朝早くに起きて朝食の支度、昼の仕込み、大学へ行って帰って来たら夕食の準備。合間に買い出しや寮内の清掃もしている。目が回るほど忙しいはずなのに、それを表には出さずに働いている。見習わないとな、と思いつつ移動中の車内で袋の中身を確認してみると、そこにはラップに巻かれたおにぎりが二つ。スープジャーには、具だくさんの味噌汁。まだ起きたばかりで空腹ではなかったが、湯気につられて一口飲んでみる。とてもおいしく感じた。彼女の料理は、なぜだか懐かしい味がする――。
 それ以来、寮での食事が待ち遠しくなっていった。特に好きなのは、冷蔵庫にある余った食材をたくさん入れた鍋、のような味噌汁。それと、普通の塩むすび。口に入れると体がほっとした。特に呪霊を取り込んだあとは、あの気持ち悪さを掻き消してくれる。不思議だった。

「おかえり」

 補助監督の車から下りて寮へと戻っていると、不意にそう声を掛けられた。振り返ってみると、自販機横に立つさんが笑いながら手をひらひらと振っていた。その片手にはエナジードリンクが握られている。目はいつもより力がなく、うっすらと隈もできていた。

さん、少し疲れてる?」
「あーちょっと、試験前で徹夜しちゃってさ。単位危ないんだよねぇ」

 誤魔化すように笑いながらドリンクの瓶をゴミ箱に入れると、さんはこちらを覗き込み、思い立ったように自販機のボタンを押した。ガコン、という音に、さんは膝を折って取り出し口へと手を突っ込む。

「……私に?」
「うん。さっぱりさせたいかと思って」

 差し出されたレモン炭酸のペットボトルを、すぐには受け取れなかった。内心びくりとした。見抜かれた、と思って。今日取り込んだ呪霊は、特にタチが悪かった。食道を伝い落ちていく感覚が、まだ残っている。そんな後味の悪さを感じていることに、さんは気づいたのかもしれない。

「夏油くん、今日のごはん何がいい? 特別にリクエスト聞いたげます」

 ようやくペットボトルを受け取れば、さんは「夜用」とひとりごちながらエナジードリンクのボタンを押す。出てきた瓶を取り出しつつそう訊くので、少し考えたのちに答えた。

「味噌汁が飲みたいな。あと、塩むすび」
「そんなんでいいの?」
「それがいい。好きなんだ」

 そう言うと、さんは「渋い子」と笑った。

 ――まるで身体に染みついたものを祓ってくれるような、彼女の料理。この寮にいる限り、どんなに非道い呪霊の味を知っても、彼女が祓ってくれる。そんな気がした。






(2023.07.16)


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