ゴースト【ghost】
1. 幽霊。
2. テレビの画像にできる、影のようにずれた映像。
(典:デジタル大辞泉)
1.
部屋に帰ったら、窓辺のパキラが枯れていた。大きくないが片手では持てないほどの大きさはある鉢で、広げていたはず手のひら型の葉はくしゃくしゃと茶色くなって、落ちた葉が鉢の周りに散らばっている。
そんなに熱心に世話をしていたわけではない。今回だって二週間以上部屋を留守にした。ただ、けれど。それぐらい部屋を空けていても変わらず部屋で迎えてくれたのは、このパキラちゃんだけだった。そういう類の話だ。
ひぐ、と喉と突いたのは嗚咽で、まさかこんなことで泣くのか?と思ったときには、じんわりと涙が溢れていた。涙が滲んだことを自覚した途端、うわあん、とびっくりするぐらい大きな声が出た。正直こんな風に泣くのは恐らく学生時代以来で、成人してからの記憶にはない。泣いている自分とそれを見ている冷静な自分が混在していて、滑稽だった。近所のスーパーで買った値引きの総菜も、持ち出しPCの詰まった鞄も放り出してわんわん泣いていると、その鞄の中から空気を読まない電子音がした。どうせこういうときはあれだ、空気を読まないゴリラ上司からの着信なんだと思って鼻を啜れば、本当にそうだった。
「……で。その電話で呼び出しを受けてここにいます」
目元が赤いことを指摘されたので経緯を包み隠さず話せば、ゴリラ上司もとい、降谷零警視正は胡乱げな目で私を見た。他の女性職員は別任務や家庭の事情でどうしても都合がつかず、退庁していた私が呼び出された次第だ。
車の中で指摘された目元の赤さを薄く緑がかったラメシャドウで誤魔化し、手早くリップを塗りなおす。きわどい長さのスカートは支給品で、この後クリーニングに出すのかそれとも廃棄になるのかは、正直運次第だ。
「お前あれだろう。どうせ水のやりすぎだろう」
「え、なんで降谷さんわかるんですか。実家の母にも毎回同じこと言われるんですが」
「見ていればわかる。犬猫は飼うなよ、ストレスで衰弱させるタイプだ」
「……ええー。なら私のストレスはどうすれば? 癒しがほしいのですが」
「知らん」
なんて上司だ。部下のストレスマネジメントもあんたの仕事ではないのか。
私の言いたいことを察したのか、降谷さんは胡乱げな目線を止めないまま、シッシと手を払って私にさっさと店に入るように指示した。私はしぶしぶ、巻いた髪に隠したイヤホンを確認し、リップを塗った唇を薄いティッシュへ押し付ける。そのゴミをそのまま上司の車に置いてきたのは、私の精一杯の嫌がらせだ。
あのパキラは上京して少しした頃、近所にあった雑貨屋で買った。もう閉店が決まっていて、あのパキラも安くなっていたことと、抱えて帰れる距離だったため配送料がいらなかったことが購入に至った要因だ。そこそこの大きさのパキラだったからか、彼女、もしくは彼は私の日当たりのよくない部屋でも枯れることなく、ただその後気を良くして追加購入したいくつかの観葉植物は枯れた。一番最初に買った彼女だか彼だかだけが最後まで枯れず、緑の手ならぬ悪魔の手を持つ私の元でも生き残った。
カラン、とドアを開けば澄んだ音色が響いた。出迎えた黒服に今日の派遣であることを告げコートを預け、席へ案内される。高級ラウンジの内装と料金だが、実態は専用会社からの嬢派遣で回している店のため、入り込みやすい。統括者は女性ではなく男性なので、嬢が頻繁に入れ替わるほうが管理しやすいのかもしれないなど、関係のないことを思った。
今日の目標は、あるベンチャー企業代表のプライベート端末に盗聴用アプリを仕込むことだった。黒服にも公安から手が回っているため、私はまんまと指定された卓につき、該当の代表取締役社長に話しかける。上司が「さしすせそ」を忘れるなと口を酸っぱくして言っていたが、我が課内で上司ほどハニトラの上手い人間は他にいない。聞いてみろ上司の「さしすせそ」を。部下の我々全員全部ゲロってたわ。
いい感じに際どい服装をしてきたので、シャチョーサンの目が私の太腿に行ったり腰に行ったり来たりする。ほどほどにお酒を嗜み先方の頭も緩くなってきたので、自分が派遣ホステスであり、本業とのダブルワークで大変なだとぺろぺろ喋った。実はインフルエンサーになりたいと思っていて、シャチョーサンのような「顔がよくてシゴデキな人」とSNSの繋がりが欲しい、なんて。
うまいことを言ってシャチョーサンの端末を借りたところで、黒服として潜入していた公安の先輩がシャチョーサン近くのソファへ酒を溢す。そちらでシャチョーサンの注意を引いてくれている間にケーブル越しにアプリを仕込んだ。シャチョーサンは酒を溢した黒服先輩の態度に立腹して辞めさせろなどと喚いていたが、心配しなくても、シャチョーサンの気を引くという仕事を完遂した黒服先輩に接客されることは、もうないだろう。
しばらくしてお手洗いへ行くと言って席を立つ。アプリから端末内スキャンも盗聴も問題なく行えていると確認が取れたため、ゴリラ上司からもこれにて任務完了の許しを得た。もう日付も変わったが、寝る前に床に放り出した総菜を食べておくか、それとも美容のために寝るべきかを考えて、帰りのコンビニでビールを買うことを決意する。美容? それよりも明日を生きる活力(おビール)のほうが優先です。活力といえば、そうだ、おうちのパキラちゃまが枯れたのだったと嫌なことを思い出し、しなしなと萎れそうになった瞬間、ホールから女性の悲鳴が聞こえた。お手洗いから出れば黒服先輩の姿はもうなく、ここから店外へ出るにはホールを突っ切るしかない。そろそろと顔を出してホールの様子を見れば、目標のシャチョーサンが包丁を持った女に迫られている。別に個人としてはあのシャチョーサンが刺されようがもがれようがなんでもいいが、現在仕事中である。
「降谷さん」
「何があった」
少しのノイズ後、上司からは俊敏に返答が戻ってくる。対象のシャチョーサンが女に刃物を突き付けられている現状を説明すれば、一二秒の沈黙の後に「事態を収拾させるように」と短い命令が降りてきた。
「収拾させろったってね……」
マイクはついたままなので私のボヤキは聞こえているだろうが、上司はもう何も言わない。私は溜息を押し殺すと、手持ちの小さなバッグからスマホを取り出し、いじりながらふらふらとホールを抜けていった。途中「おい君」と焦ったような声を掛けられるが、気づかないふりをする。そして自分のついていた卓まで戻ってきて、初めて状況に気づいたという体で、叫んだ。
私の甲高い(喉枯れる)悲鳴を皮切りに、包丁女がシャチョーサンへと足を踏み込む。私は持っていたスマホを女に向かって投げつけた。上司は抜かりない仕事主義者のため、備品のスマホにはごてごてと飾りのついたスマホカバーがついており、重量もそこそこある。目元を狙ったため、イミテーションガラスに顔面をえぐられた女が額を押さえ、踏み込んだ足が鈍った。その隙に店の黒服たちが一斉に女に飛び掛かっていった。これで安心である。私はといえば、近くで恐怖からたたらを踏んで倒れ込んできたシャチョーサンに足を踏まれた。むき出しの足の甲を男の体重で踏まれるのは勘弁してもらいたい。だが任務は遂行すべしとシャチョーサンの体を支え、大丈夫ですか?と愁傷に声かけをする。
「あ、ああ……」
シャチョーサンは蒼白な顔で力なく返事をし、私は彼を近くのソファへ座らせた。水を取ってくると言って騒然とするホールを抜け出し、ドアカウが鳴らないように店を出る。少し離れたところで上司が車のライトを光らせたので、さっさと乗り込んだ。
「状況は?」
「女は黒服に取り押さえられていたので問題ないかと。先輩はラストまでいるんですよね?」
「ああその手筈だ」
姿は見えなかったが、先程の黒服先輩はまだ店内らしい。滅多なことにはならないだろうと溜息を吐くと、上司が後部座席を漁ってコンビニを袋をこちらへ突き出した。受け取ってみれば中身は昆布、鮭、おかか。そしてエナジードリンク様である。
「食ったら次は新宿の店だ。今度は客として紛れ込め」
「ええっ、帰ってお総菜食べて寝ようと」
「だからコンビニ飯買ってきてやっただろう」
じろりと睥睨され、私はしおしおとコンビニの冷たいお握りのパッケージを開いた。まずくはなかったが、非常に冷たかった。
その後新宿のホストにナンパされる任務一件、イカツイお兄さんに擦り寄る任務一件、売春の振りをする任務が一件あり、どれもこれも結構ギリギリのところで逃げ出す必要があったため、毎回上司が待っている車のところまで走った。最初のラウンジで踏まれた足は見る見る変色して腫れていったが、元々私がへまをしたので仕方ない。上司の予定も今日しか空けられないため、今日中に任務を済ませる必要があった。車に戻るたびに上司は甲斐甲斐しく私の足の手当をしてくれたので、少々気恥ずかしい。すべての任務が終わることには、もう日が昇って久しい時間帯だった。
「確認した。すべて完了、今日はここまでだ」
「お疲れ様でぇーす」
「待て」
上司の号令後すぐに車を降りようとした私を、上司が呼び止める。いやもうマジその目やめてくださいよ、怖いんですよアンタ。
ザ・マジの目の上司は私の腕を握って引き止めると、そのまま車を出した。まさか自宅まで送ってくれるのかと思いきや、現実は甘くない。上司が車を走らせ向かったのは霞が関なので、もはや諦めである。
「二時間仮眠していい、その後今日の調査についてまとめろ」
「私の家の総菜は?」
「今日の最高気温は二十度未満だ。運が良ければまだ食える」
「ウッソでしょ一昼夜置き去りにした総菜を食えっていうのこの人」
「駄目なら俺が引き取る」
「そうだったこの人鋼鉄の胃袋の持ち主……」
足は庁舎内の保健室で見てもらったところ、骨は折れていないとのことだった。仮眠室で眠る二時間なんてまるで一瞬で、アラームに起こされた私はぼやぼやとデスクに戻る。ゴリラ上司含む他のメンバーはデスクについて既に働いており、昨日の任務を肩代わりすることになった同僚たちからは軽く詫びられた。ゴリラ上司の電話は今日もリンリンと鳴りっぱなしだ。上司は電話を切るたびに増えた仕事をチーム内に振っていくため、いつ自分の名前が呼ばれるかと皆ひやひやしている。
「、税関で不審な動きだ。来い」
「…了解でっす」
そろそろ報告書を書き上げられそうなところで遂に呼ばれた。ゴリラ上司が上着を羽織り、身支度をする間に私は爆速で報告書を書き上げ確認フローへあげる。誤字脱字がありませんようにナムナム。既に部屋を出た上司の後を追って、彼の車に飛び込んだ。
ゴリラ上司は車を空港近くの建設中ビルへ向かわせており、本来であれば税関で引っかかるような類の物品がすり抜け、そこに集められているようだった。大した量ではないのでせこい商売の一旦であろうが、仕事は仕事だ。タブレットを手繰ってビル内外の地理を頭へ叩き込んでいく。車内でタブレット類を見ていても気分が悪くならなくなったのは、いつからだったか。上司は運転が上手いのに荒いため、三半規管が鍛えられたのだろう。ふ、と隣の上司を盗み見る。上司はまっすぐ前を見てハンドルを握っており、目が合うことはない。その向こうに透けて見えた快晴の青に、彼の瞳の色を思い出した。あの空より濃い青で金色の前髪の隙間から透ける。上司が盗み見ていることに気づいてこちらに目線を向けそうになったため、私は慌てて彼から視線を逸らした。あの時のように目が合ってしまったら、今度はどうしたらいいのか、検討もついていなかった。
2.
春と初夏の間の話だ。街路樹への防虫剤がまかれるこの季節の匂いを、わたしはどうしても青臭さだと認識してしまう。小学生の頃の授業で飼う羽目になった、小さな青虫の匂いだと思っているからだろう。青虫は虫かごの中に入れたキャベツを食べていたが、その後どうなっただろう。私はそのときにの青臭さだけを鮮明に覚えていて、あのぐんにゃりとした感触の青虫がどうなったか、さっぱり覚えていない。そして街路樹の防虫剤の匂いは、その青虫を思い出させるのだ。半年ほど前の、新緑の頃だった。
組織への潜入を終えてから、降谷さんは庁舎内の自身のデスクに詰めていることが多くなり、大きな事件もなかったことも相まって、私たちも飲み会なんてものを開いて親睦を深める余裕を持つことができた。もちろん深酒は厳禁であったし、今回は参加を見送って庁舎へ詰めている者もいた。それでも、降谷さんは珍しく飲み会に顔を出していたのだ。
私が早く帰らなければいけなかったのは、その日も前日から家に帰っておらず、また実家から荷物を届けると連絡があったこともある。一時間と少しほど飲んだところで「そろそろ帰る」と幹事に伝えれば、近くにいた降谷さんも「俺も出る」と言った。降谷さんは元々飲み会には上司はいないほうがいいだろう、なんてことを言うタイプの上司で、風見さんが頷きたいような否定したいような、微妙な顔をしていたことを覚えている。
駅まで一緒に行くことになったのはその場の雰囲気で、私も降谷さんもそうなることをわかっていて帰ると言い出したわけではない。ただ普段は降谷さんの車で仕事の話をしているときと、周りのざわめきの中で取り留めのない会話をする今とでは、少しだけ、状況が違っていた。
降谷さんは山手線に乗るといい、私は地下鉄に乗るつもりだった。改札へ続く地下道の前で「じゃあ」と会釈をして別れる。降谷さんは少しだけ軽く手をあげて、微かに笑った。奥歯を噛みしめて表情を変えないようにしながら、通常通りの速さで踵を返す。降谷さんのような人に憧れない人間はいないだろう。私も確かにその内の一人で、少しだけ過剰に心を掴まれて、揺さぶられている。ただそれだけのはずだった。振り向こうと思って振り向いたわけではなかった。けれど今思えば少しだけでも、降谷さんのあの金色の髪が揺れるのを見ていたかった。本当にそれだけで、それ以上を望んだりはしていなかった。
目が合ったのは、あの海を閉じ込めたような青い瞳だ。
周囲では、煌めくネオンがバカみたいに光っている。降谷さんは驚いた顔をしていた。それはきっと私も同じだっただろう。さっさと笑えばよかった。どうしたんですか?っていつも見たいに半笑いで、降谷さんらしくない、まさか酔ったんですか風見さんに報告していいですかって、いつもみたいに軽口を叩けばよかった。
馬鹿じゃないから、別れたはずの降谷さんがわざわざ振り向いて私を見ていたこと。私が別れたはずの降谷さんを振り向いて見てしまったこと。そしてお互いに何も言い出すことができないこの状況のその意味が、わからないはずなんてなかった。
何か言わなければいけないのに、何を言えばいいのかわからない。私たちは完全にそのタイミングを逸してしまって、ただぼんやりと突っ立っているだけ。そうしてバカみたいに突っ立っているたらオジサンがぶつかられて、やっと目を逸らすことができた。しどろもどろ、迷惑そうなオジサンに謝って顔をあげれば、そこに降谷さんはもういなかった。
「何してるんだ」とか「ぼさっとするな」とか「それでよく務まるな」とか。
いつもみたいに辛辣な言葉を投げてほしかった。そんな風に逃げるなんて、あなたらしくもない。私はどうしたらいいかわからない心臓を抱えて、帰路についた。
あんな風に私を振り向いて、「しまった」なんて顔をして、逃げるなんて、らしくない。降谷さんらしくない。溢れた生唾をぐっと飲みこんで、早鐘を打つ心臓と滲む視界と、赤くなってどうしようもない頬を擦る。
だってあんなの、降谷さんだって、私のことを見ていたのだ、と言っているようなものじゃないか!
タイミングよくホームに来た電車へ飛び込み、つり革を掴んでぎゅっと目を閉じる。瞼の裏でさっきまでの光景がちらついて、たわむようなハレーションを起こしていた。ぐわん、と車窓の外のネオンが瞬いて光は広角に拡散され、先ほどの降谷さんの青い目が脳裏に何度も映し出される。
「そんなの、困る」
絞り出した声は、まるで中学生の子どものようだった。座席に座っていたサラリーマンが怪訝そうに私を見る。赤い顔は酔っ払い故だと思ってほしい。切に思った。こんな話、誰にもできない。鼻にこびり付く青さに、私はぎゅっと瞼を閉じた。
あんな完璧な多面体図形のように美しい男に、私なぞ、ふさわしい人間じゃない。だから振り向いてほしいわけではなかったのだ。車窓の外の美しい夜景を見るように、近づかず遠くから見ていたかった。それだけのはずだった。
:
結論から言えば、これはせこい商売の一端でもなければ、恐らく「大した量ではない」。その報告事態が間違いだった。該当のビルは建設途中で資金トラブルがあったようで、周囲の壁は貼りかけの石膏ボードがむき出しになって見えている。付近の埠頭周辺は工場や倉庫も多く、建設が多少中途半端な状態であっても、そこまで目立ってはいなかった。ビル内は建設作業員もおらず閑散としてはいたが、はじめは上司も「特に問題はなさそうだ」などと言って、すぐにでも帰りそうな雰囲気だった。状況が一変したのは、むき出しの廊下に落ちた小さなラムネ状の錠剤もどきを見つけたせいだ。一見した限りでは悪戯目的などで入り込んだ子どもが落としていった菓子の類なのか、そうではないのか、が判別できない。
「どう思う」
「MDMAを想起させますが……、検査キットを使って見ないとなんとも。車に取りに戻りますか」
「そうだな。結果が出次第、応援を呼ぶ必要も……」
上司はそこまで言いかけたところで、はっと顔をあげた。私も咄嗟に反応して、持っていた鉄板入りの鞄を頭上に掲げる。がつん、と鈍い音がして鞄が鉄パイプを弾いたようだった。右足を軸にして体を回し、背後を振り返る。ぞろぞろと物陰から現れたのは、手に鈍器や鉄パイプのようなものを持った男たちだった。人相が悪く、あまり堅気の人間にも見えない。「大した量ではない」という報告を真に受けて来てしまったが、半グレ組織か何かが背後にいる案件であったのだろう。横の上司が小さく舌打ちをしてぐっと腰を落としたのがわかる。
「、お前は応援を呼べ」
「了解しました」
私の返答を皮切りに、腰だめにした上司がぐっと足を蹴る。思うスピードよりも速く突っ込んできたゴリラ上司に男たちは慄き、鈍器類を振り上げるがそれよりも上司のスピードのほうが速い。腕を掴んで抱え込んだ男を別の男へ投げ飛ばすと、上司はそのまま乱戦に入った。それしきで死ぬようなゴリラ上司でないのはわかっているので、私は鞄を抱えたままじりじりと後退する。少しでも男たちから離れて安全そうな場所を見つけ、応援要請をしなければいけなかった。表に停めた上司の車にも、どんな細工をされたかわからないため、このままではここから離脱もできない。壁を背にし、上司の乱闘の様子が見える行き止まりまで来た。窓から外の様子は見えるが、上司の車までは見えない。端末を取り出して通話ボタンをタップしようとした瞬間、地上六階ほどの高さの窓外から気配を感じ、慌てて振り向いた。が、遅かった。
上階から窓を割って入ってきた男に、手に持った端末を弾かれる。そのまま片手に持った鞄で応戦するも、元々のリーチ差もあり分が悪かった。窓を背にした男は上階から入ってこれただけあり、筋肉質で上背もある。背後では上司が乱闘中だったが、窓からの仲間の侵入に気づいて幾人かはこちらへ加勢に来そうな雰囲気であった。
逃げ場は脇の階段しかなかった。上司と分断されることになるためできれば避けたかったが、この場で私が捕まってしまい、上司の動きが制限されることは避けたい。鉄骨がむき出しの状態の階段を降りていくと、靴音が派手に反響した。後ろからも数人がこちらを追ってくる足音がし、二階分を降りきったところで再度廊下へ入る。現在地は三階のため、最悪窓から飛び降りても死にはしないだろう。振り向きざまに持っていた鉄板入りの鞄を投げつけ、それが当たった仲間を避けてこちらへ踏み込んできた男の腕を抱える。そのまま投げ飛ばそうとしたが、警棒などの獲物を出すには廊下の幅が狭く、一人ずつ相手をするには幅が広かったことが災いした。
横から伸びてきた、あの上背の高い男の腕に服の首元を掴まれ、壁へ投げ飛ばされる。ぐ、と息が詰まった。衝撃で脳味噌がくわん、と揺れて目の前がぶれる。そのまま壁に首元を押さえつけられて、詰まった息を吐き出すことができなかった。意識を保たなければいけないと思うのに、それができない。
落ちる寸前に、こんな醜態では、あのゴリラに死ぬほど怒られてしまう、そんな後悔を思った。
3.
目覚めたときには、後ろ手に結束バンドらしきもので拘束をされていた。薄暗い室内には人影はなく、ひとつ壁を隔てた向こう側の室内では人の話し声を慌ただしく騒ぐ声が聞こえる。薄ぼんやりと聞こえたところによれば、やはり上司はまだ捕まっていないらしい。
「おねえさん、起きたの?」
人の気配がないと思っていたが、そうではなかったらしい。工事中の幌越しの薄い日差しに目を凝らせば、部屋の隅に一人分の人影があった。まだらな赤に染まった髪色の若い男だ。年の頃は二十四、五に見えるが、こちらを見る目が妙に子どもっぽくも見える。
「死んだら面倒だから、死なないように見張ってろって言われたんだ。苦しいところはない?」
「……」
「答えてくれないんだ。まあ、いいけど」
若い男は拗ねたように言う。手首は後ろ手に拘束されていたが足は拘束されていなかったので、腕と足を使って体を起こせば、若い男はもう興味がなさそうにスマホの画面を眺めていた。
「あなた、ここで何をしているの」
「オシゴトでぇっす。おねえさんもそうでしょ」
「これがあなたの『仕事』なの?」
「そう、オシゴト」
男は端末から顔をあげて、にやりと笑う。軽薄な笑みだった。
「あの薬…MDMAを手に入れて売ったりすることも?」
「そーお、アレ、実は落っことしたの多分俺なんだよねぇ、バレたら殺されるかも」
「殺されるかもって……」
なんとなく気の抜けた男の喋り方に、こちらまで気が抜けてくる。ふうーっと一つ息を吐くと、男の顔を、目を見た。
「私の連れは今どうしてるの? 逃げている?」
「そうみたい。捕まえて二人揃ってから処分を考えるってフトウさんは言ってたけど」
「フトウさん?」
「俺たちの雇用主?みたいな立場の人のことを、ここが埠頭だからフトウさんって呼ぶんだって、先輩は言ってたけど」
要するに偽名だということなのだろう。そのフトウという人物が先ほどの乱闘の中にいたのかはわからないが、その後ろに別のものが隠れていないとも限らない。
「ねえ、そのフトウさんってどんな……」
その人物の人体を聞き出そうとしたときだった。けたたましく隣室とのドアが開き、先ほど窓を割って廊下に侵入してきた上背の高い男が目を覚ましている私と、赤毛の若い男とを見比べる。若い男がしまったという顔をして「フトウさん……」と呟いた。その一拍の後、フトウと呼ばれた男は、赤毛の若い男の鳩尾を蹴り飛ばした。肉が殴打された鈍い音がし、蹴られた男は窓近くまで吹き飛ばされ、くぐもったうめき声をあげている。
「失礼、目を覚ましたら教えるようにと言ってあったんだが、てんで言うことを聞かない」
「……」
フトウは今程の暴力などなかったかのように、紳士然として話し始めた。窓を破って私を追いかけてきたときの俊敏さや加害性やらは鳴りを潜め、今は至極冷静に話している。しかし目線には依然として、ぎらつくような光が見え隠れしていた。ぐっと奥歯を噛み締める。
「君の連れの金髪の男、あれも警察の人間だろうか? ずっとこのビル中を逃げ回っている。
まるで化け物のようだなあ、なかなか捕まらない」
「……」
「彼の名前、教えてくれないだろうか。僕たちも若い女性に暴力を働くのは少し、良心が痛む」
「……透」
「トオルくんね、どうも、ありがとう」
フトウは努めて穏やかに言う。私は少し考えてから、こう続けた。
「トオルは、大事な人なんです、…恋人なの。だから彼にもう危害を加えないで。お願いします」
「…なるほど? 善処しよう」
フトウは酷薄な目をして尤もらしく頷くと、まだ壁際にうずまっている若い男を一瞥して、部屋から出ていった。私はドアが閉まり、隣室が少し静かになったのを待ってから、蹲っている男に声をかけた。
「あなた、ねえ。大丈夫なの」
「う゛、…ン」
どうも若い男は、痛みに腹を抱えて泣いていたようだ。ズっと鼻を啜ってこちらを見上げる。涙やら鼻水やらが顔面を汚していて、非常に情けない。私はジャケットの内ポケットからハンカチを口で掴んで取り出すと、その男の顔に向けて落とした。
「拭いたら。汚いし」
「あ……、アリガト」
男は妙に礼儀正しく礼を言って、ハンカチを手に取った。べしょべしょに濡れた目元と鼻周りも容赦なく拭ってから私に付き返すので、「いらないから」と言い返す。男はこくりと頷いて、そのハンカチを自分のポケットにしまった。そして俯いたまま、また膝を抱えた。どうにも情けないというか、子どもっぽいところのある男だ。ホストにでもなれば、母性本能を擽られたお姉さま方が放っておかないだろうに。
「おねえさんも俺のこと、情けないやつだって思ってるでしょ」
「はあ、まあ……」
「俺も思ってる」
そうだね、としか思えず黙っていると、そのまま男はぽつぽつと自分の生い立ちを話し始めた。よくある話だ、出来のいい兄弟と比べられ辛く、自身の身の置き場や実入りのいい仕事を探して水商売やらなんやらに手あたり次第に手を出していたら、戻れないところまで嵌ってしまっていたとか、そういう話。
不幸で不運だったのは、本人は至って真面目に生きているつもりでも、周りに善性を持って彼を導いてくれるような存在がいなかったことだろう。真面目な人間というのは得てして騙しやすく御し易く、使いやすいものだ。
自分の生い立ちを話してまだ男がべそべそと泣いているのをいいことに、私は立ち上がって窓の外を見る。地上七階か八階ほどで、ここから飛び降りて逃げ出すのは難しいだろう。ゴリラ上司はそうそう捕まることはないだろうが、そのうち焦れてビルの爆破でもしかねない。その前に逃げたいし片を付けたい。
あのフトウという男は他の部下を連れてゴリラ上司のところへ行ったのだろう。「トオル」と呼ばれれば私が捕まっており、かつ喋れる状態だということも理解するはずだ。幸運なのは廊下でろくに暴れずに捕まってしまったせいで、監視の目も人員も甘いことだ。膝を少し屈めて後ろ手の拘束を上げられる限界まで上げ、ぐっと尻側に振り下ろす。訓練通りに結束バンドは外れた。
擦り切れた手首をさすりながら怪我がないかを確認していると、結束バンドが切れる音に顔を上げた男が「え、なんで……」と小さく漏らす。いつの間にか拘束から抜け出した私を彼はぽかんと見つめ、それから見る見る青ざめた。このまま逃がしたら先ほどのフトウにまた叱られると思ったのだろう。恐らく正解だ。それでも彼は、私を止めるために暴力を振るおうとはしなかった。扉へ向かおうとする私に、何か言いたそうな顔をして俯くのみだ。
ドア越しに聞き耳を立てれば、隣室にいる人数はそこまで多くなさそうだった。音を鳴らさないようにドアノブをひねる。そのままドアを蹴り開ければ、そのうちの一人が何事かとドアを覗き込んだため、ドアの内側で待ち構えて蹴り飛ばした。鳩尾を蹴られて吹き飛んだ男はそのまま壁に激突し、気絶する。幸いにも隣室には残り二人の姿しか見えず、近くにいたほうの男がこぶしを振りかぶるのを潜って懐に入ると、襟首を掴んでもう一人の男に向かって投げる。投げられた男が起き上がってくる前に、踵を側頭部に打ち込んで脳を揺らした。見事昏倒した男の下敷きになった最後の男は、仲間の体から抜け出そうと藻掻いていたが首に腕を巻きつけ、頸動脈を締めて気絶させる。三人ともを昏倒させると、彼らに取り上げられていた自身の拳銃と警棒を取り戻し、動作を確認した。これらに問題はないが、スマホは見つからない。仕方なしに武器のみを懐と腰のホルスターにしまい込むと、ドアを開け放ったままの先ほどまで閉じ込められていた部屋へ戻った。
「……きみ」
「っひぃ、」
赤毛混じりの男は、頭を抱えて震えていた。隣室で私が暴れている音を聞いていたのだろう。このありさまで、どうしてこんな世界にいるのか理解に苦しむ。
「私は今から上司と合流する。きみはどうする?」
「お、俺……?」
「きみがそうしたいと言うなら、警察で保護してもらうように進言する。どうしたい?」
「お、俺は……」
長い前髪の隙間から、目がかち合う。子どものように透き通った目だった。「俺は……」 彼が何かを言いかけた途端、隣室で昏倒している男たちのスマホがじゃかじゃかと、けたたましく鳴り始める。見れば最初に蹴り飛ばした男が、気絶する前にスマホで他の仲間に連絡を入れたのだろう。スマホ画面は通話中となっており、小さなスピーカーからは切れ切れに怒鳴り声が聞こえる。
「俺、は……、」
男の目が揺れて、じわっとまた涙が浮かび上がった。まるで小動物のような目に、私は我慢が利かなくなって手を差し出した。
「……あーもう、来い!」
鋭く言って、部屋から駆け出す。後ろからもう一人分の足音がついてきており、彼が私を追ってきていることがわかった。先ほどまで泣いていたからなのか、ひいひいと息を切らしながらついてくる。
「おねえ、さん、逃げるって言ったって、どうやって、」
「逃げるじゃなくて、『合流』」
「でも、お姉さんのスマホ壊しちゃったよ」
「でしょうね」
あの場になかったのだ。恐らく破壊されてその辺に捨てられたか何かだろうと予想はついていた。「ならどうやって」と彼は重ねて聞いた。廊下の角で立ち止まり、前方に人影がないことを確認してから、階段を降りていく。
「『トオル』は昔、喫茶店でアルバイトしてたんだけど」
「え? はぁ、」
「その喫茶店の名前が『ポアロ』。アガサ・クリスティの『エルキューレ・ポワロ』から取ったのよね。
あと、私は彼を恋人だと呼んだけれど、そういう関係の女性がいることを、フトウみたいなやつらはなんて伝えると思う?」
「あ、ええと、女…とか?」
「そう、『お前の女はこちらにいる』。十中八九、そういう言い方をするでしょう。
重ねて、アガサ・クリスティの代表作の一つが『第三の女』。あのゴリラ上司なら、これくらいはすぐに察せるでしょうから……」
階段を降りきり、三階に到着する。拳銃を片手に警戒しながら廊下を進んでいく。少し日が陰り始め、薄暗くなってきた。早めに決着をつけてしまわないと分が悪くなる一方だ。なるべく音を立てないように進んでいると、少ししたところで背後の男が「お、おねえさん……」と震えた声で私を呼んだ。
慌てて振り向き、そちらへ銃口を向ける。青ざめた赤毛混じりの髪に銃口を押し当てているのは、そのゴリラ上司だった。
「……これは誰だ」
「私を見張っていた男の一人です。その場に残しても暴力を振るわれるだけのため、連れてきました」
「のこのこと捕まえられておいてもまだ、他人の心配ができるとは。悠長なことだな、」
「警官として、起きるだろう一方的な暴力を看過することは、できません」
そう言い切れば、上司はふかぶかと溜息を落として銃を下ろした。少し見ない間に土埃に塗れた上司は、頭を振って米神に手を当てる。
「お前は何人見た」
「三人昏倒させてきました。私たちが逃げたことを考えれば戻ってくるので、拘束はしていません。もともと隣室に十名ほどいたようですが、あなたを探しに行きました。また、まとめ役の名前は、『フトウ』だそうです。はじめの乱戦の際、窓から飛び込んできた男です」
「ふうん」
上司は気のなさげな返事を漏らすと、赤毛の男の頭に押し当てていた銃口を下げた。赤毛の男はあからさまにほっとした顔をしている。
「こちらは上階に五名拘束してきた。そのフトウはいなかったから、恐らくまだ俺たちを探しているだろうな」
「探す……。逃げ出したのではなく、ですか?」
「ああ、俺もスマホをわざと落としてきたから、連絡手段がないだとか、思っているんじゃないか?
分があると思っているうちは、強気な姿勢は崩さんだろう。……で、君たちは総勢何名なんだ?」
上司が水を向けると、赤毛の男はうっと詰まった声を出した。よほど銃口を向けられたことが響いたのだろう。恐る恐る、という顔をして上司を見上げる。
「俺が知っている限りでは、俺以外で十二人です」
「ホー、では、俺が上階で拘束してきた五名を除けば残りは七名か。が昏倒させた三名も復帰しているだろうが、まあ大した人数ではないから、固まって動いているだろうな」
「それで。『迎え』は、いつ呼ばれたんですか?」
「君からの『三階』で合流というメッセージを受けてから、すぐ。最初に昏倒させた男のスマホを拝借した」
「でしたら、そろそろ到着する頃ですね」
そう言った途端、階下で何かを破壊する音と男の怒号が響く。私と上司との間で、どういうことか理解していない赤毛の男は挙動不審に私たちの顔を見比べていた。簡単なことだ。向こうは七名の人数がいて、こちらは二名。私たちがどこにいるかは不明だが、最終的にはビルから出ていかざる得ないのであれば、出入り口付近で待ち伏せるのが一番効率がよいと考えるのが筋だ。
そして、スマホを壊されたり落としたとしても、連絡手段はなくなるわけではない。上司も私も、緊急時の連絡先の番号ぐらいは暗記している。上司は彼らがやすやすとここから離脱しないような下地を作った上で応援を呼び、人数を減らした。あとは到着した応援の方々が一階で私たちを待ち伏せていた男たちを、拘束してくれるだろう。
「下が落ち着いたら、ゆっくり行きましょう。今日は疲れました」
「、帰ったらまた報告書出せよ」
「…………」
上司の鋭い目つきに、私はしらじらと返事をしなかった。
4.
建設中のビル内を走り回ったせいで、前日の夜中に踏まれて怪我をしていた私の足は悪化の一途を辿った。あとを応援で呼んだ方々に任せ、私たちは庁舎へ戻ったが、そもそも上司への報告に上がっていた『不審な動き』の報告は、報告すべき住所を間違ていたという先輩の一世一代の大ポカが明らかになり、帰りの車内の雰囲気は控えめにも地獄であった。戻ってから見た先輩の顔はかわいそうなほど青ざめていた。すまない助けられない成仏してくれ。
私はといえば、這う這うの体で報告書その二を仕上げ、その後あのまま組対に引き継がれた赤毛男への意見陳述書を書き続けていた。確認フローに上げてから即座に上司からの承認も下りたため、やっとのことで帰路に付こうとすると、また上司に引き止められた。いい加減にしろ私はもう働かんぞという意志を込めて上司を見上げれば、上司は少し罰が悪そうな顔をしてそっぽを向いていた。
「……総菜。引き取る約束だろう」
「ああ、忘れてました」
「その足だと電車で帰るのも難儀だろう、送る」
「はあ、……どうも」
実際上司の申し出は、庁舎を出た途端に緊張が切れて足の痛みがぶり返した私には大変ありがたく、彼の助手席に座り込んだときには疲労も相まって、歩けない状態になってしまっていた。こんなときばかり安全運転をする上司の助手席で意識を保つのも難しく、流れる車窓の光が疲労の涙で滲んできらきらと光っている。眠気をかみ殺してそっと上司の横顔を伺えば、目の前の運転に集中する振りをしていたくせに、ちらりと一瞬だけ、こちらに目線を寄越してきた。
「あの赤毛の男、どうしてあんなに気にかけた」
「ああ、どうしてって、…そうですね。あのフトウと赤毛の彼、きっと兄弟…血縁だろうなと思って」
「ほう?」
「私の目から見ても赤毛の彼は女性の庇護欲を誘うため、恐らく水商売にでも付けたほうが収益を上げてくるでしょう。でも赤毛の彼は、あんなところで私の見張りをすることが仕事だと言った。往々にして、身近な身内の能力というのは過大評価か過小評価されがちです。
赤毛の彼は能力を過小評価され、飼い殺しにされていたのであれば、それができる立場の人物は限られてくる。つまり、リーダー格の男が意図してそうしていたということです」
「……彼が君を見張り、兄に報告するために君についてきた。そうは考えなかったのか?」
「考えました。けれど、彼に一緒に来るかどうか聞いたとき、彼は迷ったんです。私と来るかどうか、悩んでいたのを無理やり連れてきました。
彼が私の動きを監視するための人間であれば、あんな風に迷いはしないでしょう。だから私は、自身が情けないと泣いていた彼の、逃げ出す私ではなく自身が兄に殴られることで場を収めようとした彼の、臆病な善意を無駄にしたくない。
私が、そう思っただけです」
そう言い切ると上司は「ふうん」と小さな息を漏らして、それきり黙った。ややあって住んでいるマンション前に到着し、上司は近所の時間貸し駐車場に車を停める。私が痛みと疲労でへろへろの風体のため、部屋まで付き添ってくれるつもりなのだろう。上司に肩を抱えられて、エントランスのドアを潜る。もたつきながらも鍵を取り出すと、上司が受け取って鍵を開けた。やっと部屋にたどり着いたときには限界で、玄関先に倒れ込むと後ろで上司が何事かを言っている。ぐわん、と回る視界には、枯れたパキラの鉢が映っている。後ろの上司に、ここまで送ってくれた礼を言わなければと思ったのに、沈んでいく意識を持ち上げることはできなかった。じわじわと涙がせりあがってきて、頬が濡れていくのがわかる。
「…?」
後ろで上司が私を呼んでいる。足が痛くて泣いていると思ったのだろう。違うと首を振った。パキラの鉢を枯らしてしまった。私の世話が至らなくて。赤毛の彼を連れてきてしまった。彼のためじゃない、私が彼を見過ごせなかったから。
わかってる。どんな言葉で取り繕っても、私が彼に「来い」と言ったのだ、だからこれは紛れもなく、私のエゴだ。自分でも何かの役に立つと信じたくて、何かを世話して連れてきて、そして枯らすのだ。
噛んだ嗚咽に、後ろで上司が狼狽している。視界は滲んだまま、意識が落ちていく。焦ったように肩を掴んでいた上司の手のひらが大きかったこと、骨ばっていて硬かったこと、それだけが克明だった。
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上司が長年潜入していた組織が瓦解し、彼が庁舎へ戻ってきたときと時期を同じくして、その組織への潜入時に殉職した捜査員たちの氏名が内々に公表された。上司がそのリストを眺めて、ぼんやりとしていた場面に行き当たったことがある。彼にしては、珍しいことであった。
「誰か、お知り合いがいるんですか」
今思えばそんなことを聞くなんて、そのときの私の心臓には毛が生えていたに違いない。けれどそのときに上司の顔があまりにいつもと違っていたから、少しでも普段の彼に戻って来てほしくて、きっと私は声をかけたのだ。
「ああ、そうだな。…同期がいる」
「……それは」
聞いておいて、何と言っていいかわからなくなってしまった。情けなさに唇を噛んで、彼に見てもらうはずだった資料の束を胸に抱え直す。上司は手のひらの紙コップを所作なさげに口許に運び、戻すを繰り返した。私は数秒迷った後、上司の座っていた休憩所のベンチに二人分ほどの間を開けて座り込む。彼は一瞬だけ驚いたように、こちらを見た気配がした。
「…どんな人だったんですか?」
「……ああ、うん。そうだな」
彼は少しだけ迷うように言い淀んで、タブレット上に表示された名前を見つめた。どれが彼の「それ」なのか、私にはわからない。知らない。けれど、人間の「放っておいて欲しいとき」と「放っておいても良いとき」は相反する場合があることを、私は少ない経験ながら、理解していた。
降谷さんは少し考えてから口の中で言葉を転がすみたいに、タブレットから顔を上げた。
「彼にはいつも、いつまでも、真新しい正義感があった。擦り切れてしまわない善性があった。
俺なんかよりよっぽど、警察官に向いていたし正しい人間だった。……本当にひどいお人よしで」
いいやつだったんだ、と続けた彼の言葉が少しだけ濡れたことに、私はずっと、見ないふりを続けている。
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ざらざらと何か、砂状のものが擦れる音がする。横向きになった視界に、白いワイシャツの背中が見えた。くっきりとした肩甲骨の骨に、幾筋かの皺が寄っている。ぼんやりとその皺の行先を見てから、蛍光灯を反射して光る金色の髪を見つめた。
のろのろと起き上がった私に降谷さんはすぐに気づいて、仕方なさそうに笑った。私が寝かされていたのはリビングのソファで、首元のボタンがひとつだけ開けられていたことに、彼の気遣いを感じる。
「女性の部屋に上がり込んで、悪い」
「いえ、私…ぶっ倒れたみたいで」
「ああ、このパキラの鉢を見た途端に泣き出してな……」
そう言って降谷さんは腕を広げて新聞紙の上に広げたパキラの鉢の中身を見せてくれる。茶色くからからになった根は、いつの間に用意したのか、剪定鋏で切られていた。
「近所のホムセンがまだやっていて助かった。勝手に悪いとは思ったが、君がこれを見て泣き出したように見えて、放っておけなかった」
「昨日お話したパキラですよ、私、また枯らしちゃったんです」
「だろうな」
降谷さんは苦笑混じりに言うと、まだ少しだけ枯れた葉の残る幹に剪定鋏の刃を当て、ぐっと力を籠める。ばつん、と乾いた音がして枯れた葉が幹ごと落とされてしまった。彼は何をしているのだろう。枯れたパキラの処分をしてくれているのだろうか。
「ほら、まだこのパキラ生きてるぞ」
「え?」
降谷さんが今切ったばかりのパキラの幹の断面をこちらへ差し出して、見せてくる。白い繊維の断面が見えた。どういうことだろうと思って、彼を見る。
「根腐れして枯れてしまった部分は黒くなるが、こうして腐ってしまった部分を剪定して汚れた土も取り替えてやれば、春には新しく芽を出すこともある。
土は取り替えてやるし、腐った根も剪定しておいたから。冷えない室内に置いておけば、もしかしたら冬を越せるかもしれない」
「そう……なんですか?」
「ああ。切った部分にはこうして木工ボンドで傷をふさいでやるんだ、……?」
ぼろぼろぼろ、と音がしそうなぐらい、涙が出た。
昨日パキラが枯れてしまい、私は植物も枯らすような駄目な人間だと思った。私がすることに、実を結ぶものなどないんだと言われた気持ちになった。
「私、本当に、そのパキラ、すごく大切にしてて、」
「あ、ああ……、」
「その子だけは枯れなかったから、だから、その子は大丈夫だと思ってたのに枯れてて、ひぐ、」
「そうか」
「降谷さんありがとうございますぅぅぅ、うう、」
「わかったが、そんなに泣くことか?」
べしょべしょと鼻水を垂らす私に、降谷さんが軍手を脱いでティッシュの箱を差し出してくる。私はありがたく受け取って鼻を噛み、目元を拭った。アイメイクもどろどろだ。
「う、嬉しくて、パキラが大丈夫かもしれないこともそうですけど、降谷さんが、パキラ、どうにかしようとしてくれたことが、嬉しくて、私は駄目な人間だって思ってたけど、降谷さんは見て捨てないでくれるから、」
「駄目なんかじゃないだろう」
「でも、今日も勝手なことして、迷惑かけて。……組対にも、口出しさせてしまいましたし」
「俺は君の、そういうお人よしさが、……嫌いじゃない」
そう言った降谷さんは誤魔化すように鉢に目を戻し、新しい土の中にパキラの幹を植えた。新聞紙の上の土をまとめて袋に入れ、口を縛る。私は洗面所へ手を洗いに行く降谷さんの背中を、ぼうっと見ていた。
戻ってきた降谷さんは私が体を起こしかけているソファに、ぎっと体重をかける。かち合った瞳はやっぱり海を閉じ込めたような青色だった。彼は至近距離でその瞼を閉じたので、私は彼の前髪が私の瞼をつつく、その感触が鮮明だった。一回目の唇はかさついていて、二回目はこじ開けてきた舌がぬるついて、熱かった。私の舌をねっとりと舐め上げた後に、降谷さんが顔を上げる。頬は少しだけ赤みが差していて、彼らしくなかった。
「……あの、降谷さん。
私今まじでメンタルがきてるので、『嫌いじゃない』じゃなくて、もっと肯定的な言葉がほしいです」
「はあ?」
降谷さんのワイシャツの裾を握って言えば、降谷さんは白々と胡乱げな目を私に向けたのち、ふいと目線を逸らした。目を逸らして口許を隠した彼がぼそぼそと言った言葉を、隠しきれなかった耳の赤さを、ゴリラ上司のその『らしくなさ』を、私だけが知っている。
「おま、、笑うな!」
「ふふ、すみませ、」
「だから、笑うなって、」
「すみませ、ふふ、…あの、」
「……なんだ」
「私も『大好き』です、降谷さん」
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パキラの鉢はあれから何とか冬を越し、春先に小さな葉の芽を出した。降谷さんが水をやりすぎなんだと口を酸っぱくして私を叱り、水やりのタイミングが管理できるように水やりチェッカーをパキラの鉢に差していってくれたことがよかったのだろう。
私は春になっても相変わらずゴリラ上司にこき使われて、ひいひいと嘆いて買った総菜を床に放り出して力尽きたりしている。赤い髪の男は執行猶予がついて保護観察処分になったと上司がひっそりと教えてくれたこと、パキラが小さな芽を出したことと、その総菜を回収して冷蔵庫に入れてくれる人がいること。だからゴリラ上司に呼び出されたときに目を真っ赤に腫らしている、そんなことは、もう、なくなったみたいだった。
余談だが、私が唐揚げを買って帰ってきたのを見つけると降谷さんは「俺が作ると言っているのに」と怒る。けれど、買っては床に放り出されている総菜を使った降谷さんの親子丼がとてもおいしくて、だから私は総菜を買うことをやめられない。そのことを彼はどうも、気づいていないようだ。