「気色悪ぃよ」

 あのとき五条さんが口にしたその一言が、いまだに私の脳にべったりと張り付いて離れない。
 高専時代、私は一学年上の五条さんに一目惚れした。見てくれだけで惚れたら痛い目見るぞ、と硝子先輩に警告されたけれど、私の気持ちは揺らぐことがなかった。好意を示す方法がそれ以外に分からなくて、五条さんを見かけるたびに「好き」と言い続けた。まるでそれが挨拶かのように。おはようございます五条先輩、朝まで先輩のこと考えちゃって寝不足です好きです。こんにちは五条先輩、午前中もずっと先輩のこと考えてました好きです。こんばんは五条先輩、今日の任務は危なかったですけど明日も先輩に会うために死なないよう頑張りました好きです。
 はじめは口悪く罵ってきていた五条さんも、私の好き好きアピールに気圧されたのか、それとも何を言っても無駄だと諦めたのか、顔を合わせても好きだと言っても反応を返さなくなった。それどころか、私を見つけた途端に踵を返して逃げるようになった。
 ある冬の日、女の人と歩く五条さんを街で見かけた。イルミネーションで煌めく街でさえも、五条さんの放つオーラを覆い隠すことはできない。それほど彼はどこに居たって目立つから、すぐに気づいた。連れの女性はそれはもう楽しそうに笑っていたけれど、五条さんの顔に浮かぶのは、薄っぺらい、嘘くさい笑顔だった。――夏油先輩が非術師を殺して姿を消した後から、五条さんは変わった。何かを誤魔化すように笑っていたし、遠い目をして宙を見ていたし、なにより、夏油先輩との失った時間を埋めるかのように女の人と遊び回るようになった。そんなことしたって埋まるわけないのに、なんて、本人が一番理解してたはず――。

「口ばっかだよなお前は」

 あるとき、私は五条さんを空き教室に呼び出して告白をした。今となっては思い上がっていた自分を恥じるが、当時の私は、彼の中にぽっかりと空いてしまった穴をほんの一ミリでも埋められたらいいな、と思っていた。だから伝えた。
 けれど、いつも挨拶のように伝えていた「好きです」ではなく、ちゃんと、真心を込めて伝えた「好き」の言葉は、そんな乾いた声で蹴散らされた。

「俺、一人に縛られたくないんだよね」

 五条さんはそう言って、教室から出て行った。
 そのときの私は、そんな言葉が出てくる五条さんに同情した。きっと彼の隣に夏油先輩がいたなら、出てくる言葉はもっと違うものだっただろうなと思ったから。特別な存在をつくると、失ったときのショックが大きいから。だから拒むんだろうな、と思った。
 私の恋が完膚なきまでに散ったのは、その後の五条さんの言葉だった。翌朝、食堂に入ろうとすると、中から五条さんの声が聞こえてきた。私が告白したことを硝子先輩に話していた。そうして、こう言い放ったのだ。

「気色悪ぃんだよ、あいつ」



◇◇◇



 数年前の任務で瀕死の怪我を負ってから前線に立つのが怖くなった私は、配置転換をしてもらい補助監督になった。伊地知くんに仕事の一通りの流れや庶務までの諸々を教わり、今では複数の呪術師に付いて任務地までの送迎や報告書に追われる多忙な日々を送っていた。
 中でも一番神経がすり減るのが、五条さんの送迎だった。大抵は伊地知くんが担当するのだけれど、五条さんは任務終わりにプライベートな予定があるときに限って、なぜか私を指名するのだ。

「あーここでいいや、降ろして」

 今日も今日とて、言われた通りに車を走らせ、クリスマスイルミネーションに彩られた街を走る。後部座席にどっかりと座る五条さんは、スマホに目を落としたままでそう言った。高級ブティックが並ぶ通りの路肩で停車させれば、五条さんはこちらを見ることなく車を降り、ショーウィンドウの前で佇んでいた一人の女性に手を振る。
 ――ああ、今日の相手もとっても美しいお方で……。
 五条さんを見つけてうれしそうに笑んだ女性。ロングヘアの毛先がゆるやかにカールしていて、歩くたびにふわふわと揺れ動く。
 五条さんは、毎回違う女性とデートしている。どの女性もいわゆるいい女だ。そして私は毎回、その待ち合わせ場所まで送り届けさせられる。学生時代に恋していた相手なので、はじめは「これってなんの拷問だろう」と思った。でも今ではさすがに、慣れてしまった。どうぞ今宵もごゆるりとお楽みくださいな、とすら思っている。
 キャメルのコートの似合う美人に腕を絡められた五条さんが、不意にこちらを振り返って――目が合う。あ、うそ。笑った。いや……笑われた? 五条さんは私を見ながら、唇の端をゆるりと上げて笑んだのだった。ちょっと意味がよく分からない。けれどすぐにこの場を離れるべきだと本能が言っていたので、私は車を発進させた。
 道を進むごとに笑われたことへの憤りが湧いてくる。あのあと五条さんが不恰好にバランスを崩して足を挫けばいいのに。あの綺麗な女性にプッて笑われたらいいのに。そんなことだけを考えながら、高専までの田舎道を駆け抜けた。




 クリスマスをひとり虚しく過ごした私は、年末に帰省したときに参加した中学の同窓会で、一人の男性と再会した。彼は昔から私に心を寄せてくれていたらしい。久しぶりに会えてうれしい、他の女性と付き合っても忘れられなかった、と言われた。その後、地元にいる間に二人だけで会った。そのとき、彼から「好きだ」とストレートに言われて、高専時代の自分を思い出した。報われなかったあのときの自分を救いたかった。だから、彼の思いを受け入れることにした。
 そんな自分本位な始まりだったけれど、数カ月経った今では、ちゃんと彼への気持ちが高まってきている。一途で誠実で、私に嫌なことがあったときにはそれを忘れるほどに楽しいことで塗り変えてくれる、やさしい人。結婚の話もすでに出ている。

「寿退職して地元に帰るってマジなの?」

 桜の季節も終わりに近づく頃。フロントガラスに付いた花びらをワイパーで振り落とそうとしていると、五条さんが乗り込んできて、バンッと大きな音を立ててドアを閉め、高専時代のような荒い口調でそう言った。

「えっと……」

 本当だった。夏の繁忙期を終えたら、補助監督の仕事を辞めて地元に戻り、彼と結婚する予定でいた。まだ学長にも話していないのに、五条さんは誰から――ああ、伊地知くんかな。仕事の引き継ぎのこともあるし彼には内々に話していた。

「伊地知くんから聞き出したんですね」
「てか隠す気ないでしょ」

 五条さんに指をさされ、ハッと気づく。昨晩もらった婚約指輪を、左の薬指に嵌めっぱなしにしていたことに。

「相当浮かれてんだねえ」

 控えめとはいえダイヤが輝く指輪なんて、この仕事にはそぐわない。そんなことに思いが至らないほどに、私は随分と浮かれてしまっていたようだ。

「……で、五条さん、今日はどちらまで?」
「銀座」

 目隠しの下でどんな表情をしているのかは分からない。けれど五条さんの機嫌の良し悪しを判断するには、その声色だけで十分だった。
 後部座席から漂ってくる重苦しい空気に、ルームミラーを確認することすら憚られる。婚約指輪を付けてきたことは申し訳ないと思っている。けれど、それだけでこんなに不機嫌になられるものなのだろうか。別に私が結婚しようがしまいが、この人は何の関心もないんじゃないの? あ、もしかして五条さんも結婚願望があったとか? だから一足先に結婚する私が羨ましくて嫉妬しちゃった感じ? いや、五条さんに結婚願望なんてあるわけないか。一人に縛られたくないって、言ってたし。

「着きました」

 指定の場所で停車させるも、五条さんは降りる様子がない。外には、五条さんを待っていると思われるショートヘアの女性が、きょろきょろと辺りを見渡している。

「五条さん?」
「いい。行って」

 思わず「へっ」と間抜けな声を漏らしてしまった。

「行くってどこへ? というか、お待ちですよ」
「急用あるって断ったから」

 再び外へと目を向けてみれば、女性はスマホを確認して肩を落としていた。

「とりあえず出して。僕の家まで」
「え? 五条さんの家って……私知らないんですけど」
「伊地知に聞いてないの?」
「ええ、だってその情報必要ないですから。五条さんが私を使うのって、いつもデートの待ち合わせ場所までなので」

 ていうか高専以外に家があったんだ。五条さんが教職員寮で寝泊まりしてると聞いたことはあったけれど、都内に自宅があるとは知らなかった。

「なにボケッとしてんの。住所言うからナビ入れて」

 有無を言わせない圧に、私は「はい」と頷き返すことしかできなかった。そうして五条さんの告げる住所を入れ、ナビに従って車を走らせる。道中、五条さんはずっと押し黙っていた。




「なんで停車させてんの?」
「え? だって着い――」
「そこ、駐車場入って」

 閑静な住宅街にある低層マンションは、外観だけで億ションだと分かる重厚かつ洗練された造りだった。その前に車を寄せると、五条さんは喋るのも面倒くさそうに「あそこだって」と駐車場へと下る入り口を指した。
 思考が追いつかないまま「降りて」「乗って」「入って」という指示に従っているうちに、気づけば最上階にある五条さんの部屋に上がっていた。

「あ、あの私――」

 帰ります。その言葉を紡ぎ終える前に、視界がぐらりと揺れた。

「何この安っぽい指輪。似合わないよ?」

 ソファに押し倒されたのだと気づいたときには、もう五条さんが私に馬乗りになっていた。左薬指から指輪を抜き取られ、雑に放り投げられる。絨毯の端に転がった婚約指輪は、虚しく光っていた。

「何するんですか」

 体を起こそうとしても、両肩をソファに押し付けられて身動きがとれない。五条さんは目隠しを外し、こちらを見おろした。

「あのさぁ、お前って僕に惚れてたんじゃなかったっけ?」

 冷たく光るアクアマリンのような目から逃れるため、顔を背ける。

「……昔はそうでしたけど、でも、振られたから――」
「一回振られたからってもう違う男に気移りしたわけ? 何? 僕が振り向いてくれないからって自分のこと好きって言ってくれる手近な雑魚男に尻尾振って飛びついたの? そんなに結婚焦ってたんだ?」
「は、何言って……」
「諦めるの早すぎじゃない? お前口先だけでなんの行動も示してなかったじゃん」

 その言葉に、全身の血が沸き立つのを感じた。

「しましたよ! 忘れたんですか? わた、わたしっ、好きって、告白しました……! それに、早すぎるってなんですか? もう十年も前の話じゃないですか! 諦めるには十分な期間だと思いますけど」

 口先だけ、なんて、そんなこと言われたくない。自暴自棄になっていたあの頃の五条さんに思いを伝えるのが、どれほど勇気のいることだったか。まっすぐに伝えた気持ちをへし折ったのは、そっちじゃない。

「足りねぇんだよ」

 震える口元を覆うように、五条さんに顎を掴まれた。ぐいっと持ち上げられて、視線が真正面からぶつかり合う。青いはずの五条さんの瞳が、少し黒く見えた。

「もっと僕に固執しなよ。いろんな女と遊びまくる僕に嫉妬心丸出しの必死な顔でもっともっと迫ってみせろよ」
「だってそれは……私なんかじゃ見向きもしてもらえないって、思ったから――それに、気色悪いって言ってたじゃないですか、私のこと」

 五条さんから放たれるオーラに押し潰されそうになりながら、声を捻り出す。すると五条さんは目の下をぴくりと痙攣させた。

「それは本心からの言葉じゃない。あの頃の僕は、直球で好きだって言ってくるお前が理解できなかった。信用できないって思ってた。愛してるなんて言われた日にはきっとゲロ吐いてた。愛ってなんだよ訳わかんねえ、って」

 言いながら五条さんは、自嘲するように笑った。続いて、煽るような目を向けてくる。

「お前僕のこと好きだったくせに、そんなことにも気づけなかったわけ?」
「なんですかさっきから、自分勝手なことばっかり……つまり私の気持ちを試してたってことですか?」

 ハッ、と鼻で笑い飛ばすと、五条さんは自らの前髪を掻き上げながら言った。

「それでなんだっけ? 見込みなさそうだから二番目に好きな男と結婚するって? 自己肯定感低いとこんなことになるんだね。かわいそー」
「二番目にって……私もう五条さんのこと好きじゃ――」
「嘘」

 そう言って、鼻先をつんと突かれた。

「嘘つきの顔してるよ」

 その指先が唇へと下ると、私はもう言葉を奪われた人形のように、瞬きも呼吸も忘れて五条さんを見上げるしかなかった。五条さんと出会ってもう十年。十秒以上見つめ合ったのは、これが初めてだった。

「僕は優しいからね。君の本心と向き合わせてやるよ」




 拗らせた思いを一身に受け続けるうちに、空が白み始めて朝が来て、また次の日も五条さんの下で夜を明かし、挙句、勝手に仕事を辞めさせられてこの家から出られないようにされて、気づけば左薬指には宝石をちりばめた指輪が一個どころか指先まで届くのではというほど何個も重ねられていた。

「これでもう他の男が入る余地ないよね」

 五条さんは宝石の重みで持ち上がらなくなった薬指を見つめながら、恍惚の表情を浮かべてそう言った。その一方で私は、この重みは薬指から感じるものではないのかもしれないと思っていた。五条さんは指輪を「愛」の象徴だと言ったけれど、私にはそうは思えなかったし、愛というものを疑い続けた五条さんが紡ぐ「愛」には実体がないように感じた。
 もはや重みで折れそうなのは薬指ではなく、私自身だ。そのことを分かっていてもなお、五条さんは空虚な「愛」を浴びせ続ける。