「あんた、どこまで行くつもりなの」 その一言で、セブルスは走る足を止めた。そうして振り返ってみると、・が肩で息をしながらセブルスを怪訝そうに見上げていた。 「がむしゃらに走ってたんでしょう。なんでこんなに遠くまで来ちゃうのよ」 彼女にそう言われて辺りを見ると、湖の先にホグワーツ城があった。 セブルスはそこでようやく我に返ったようにして、掴んでいた・の腕から、慌てて手を放した。 ――僕としたことが、なんでここまで、こんな奴を連れて来てしまったのか。 「何度も声を掛けたのに、あんた、全然気付かないんだから」 ようやく解放された腕を擦りながら、・は口先を尖らせた。 そしてセブルスは、そう言う彼女の手首に、自分の手の跡がくっきりと残っているのを見た。ただでさえアザだらけの身体に、もう一つ跡を付けてしまったことが、セブルスの調子を狂わせた。 「悪かった」 「……何よ、えらく素直じゃない。きもちわるい」 ・は眉根をひそめた。 「本のことも」 セブルスは片手に握っていた童話本を見下ろし、続ける。 「たまたま手に取った本が、これだったんだ。見ようと思って見たわけじゃない。お前が書いたことを言いふらすことも、しない」 「なんで?私が、かわいそうだから?」 彼女は笑った。それは、どこか自嘲的な笑みだった。セブルスは言い返すこともできず、ただ黙り込んでいた。 風が吹き、森が揺れる。・はセブルスの傍らを通りすぎ、湖の方へと歩を進める。 この湖のほとりは、セブルスのお気に入りの場所だった。シリウス・ブラックやジェームズ・ポッターから冷やかしを受けた後は、大抵ここへ来て、気持ちを落ち着かせるのだ。それに、向こう岸に見える壮大なホグワーツ城を、この場所から眺めるのが好きだった。外から見れば、やはりこの城は美しいのだ。中に居れば、嫌でも醜いものが見えてしまうが。 「同情されるのは嫌よ」 ・は静かに、しかしはっきりと、セブルスを見据えながらそう言った。 「それに、あんたは悪くない。私が愚かだっただけ」 言いながら、彼女は杖を振った。すると、セブルスの手にあった童話本が宙に浮き、・の元へ漂っていく。そうして彼女の手の平に乗ると、本は独りでにページをめくり始めた。その様子を見て、セブルスは思わず彼女の元へ足を進めた。 「だって私、こんな……血迷ったこと」 あの落書きが残るページで、本の動きはぴたりと止まった。・は再び杖を振り上げる。杖先から、朱色の光が漏れ出ようとしたときだった。その杖は彼女の手から離れ、くるくると円を描きながら湖へと落下した。 「マダム・ピンスに殺されるぞ。本を燃やそうとするなんて」 セブルスの掲げた杖が、彼女を制止したのだった。・は唇を噛み、セブルスを睨んだ。しかし、セブルスは構わず近づいて来るので、・は後ずさりしながら口早に言った。 「大丈夫よ。あの人、生徒達の行動ばかり気がいって、本の管理には少し抜けた所があるんだから。それに、どうせこんな童話、誰も読まないんだし。失くなったって、誰も気付かないわよ」 そして、「ちょっと、杖はどこよ」と湖の中に足を入れ、片腕を突っ込んだ。水しぶきをあげながら探すも、そう簡単に見つかるはずはなく、とうとう・は「杖を返して」とセブルスに訴えた。すると、セブルスが杖を構えたので、彼女は安堵の笑みを浮かべた。 「その前に、その本をこっちへ渡せ」 その言葉で、緩んでいた・の表情は途端に強ばった。 「なんでよ、なんであんたに?気がおかしいんじゃないの」 「渡せば杖を水中から出してやる」 目尻が裂けそうなほどに見開いていた彼女の目は、杖を掲げたままのセブルスを捉えていたが、「ふざけないで」と言った後、手元の本へと視線を落とした。 「やめろ」 水しぶきがあがった。セブルスが湖に入り、足で水をかき分けながら、今まさに本のページを破ろうと指先に力を込めている・の元へ駆け寄った。 「離して」 「やめろ」 本を奪い取ろうとするセブルスと、それから逃れようとする・は、互いに身体をぶつけながら争った。もう少しで本を取られそうになった彼女が、自らの上半身すべてを使って思い切りセブルスを押した。するとセブルスは、後ろにのけぞりながら・の片腕を掴んだので、二人は激しい水音を上げながら倒れたのだった。 「ちょっと!もう何なの!」 セブルスの身体の上に倒れた・は、すぐに離れて立ち上がった。長い髪の先から水をしたたらせ、額から伝う水が口に入るのにも構わず、彼女は声を荒げた。 「放っておいてよ!」 「逃げるな!」 セブルスは立ち上がった。今まで聞いたことのないセブルスの大声、そしてその様子に、・は怯む。セブルスも、思わず声を上げてしまった自分に驚いたのか目を丸くしていたが、少し間を置いた後に再び口を開いた。 「あの学校には、嫌な奴ばかりだ。愚かで、下品で、どうしようもない奴ばかりだ。でも、だからこそ、信じられるのは自分だけだ。唯一信頼できる自分からも逃げてしまえば、お前は消える。消えて無くなってしまう。そうなれば、あいつらに敗れたことになる。あいつらのつくる愚かな世界で、自分を持たずに生きることになるんだ」 自分が同じ空間にいると知れば必ずと言っていいほど、手や口を出してくるシリウス・ブラックやジェームズ・ポッター。それを見て下卑た笑い声を上げる生徒達。思い出しただけで目を瞑りたくなる。それでもここまでこの学校での生活を続けられたのは、憎いブラック達への復讐心と、自分を受け入れてくれる唯一の存在があったからだ。 幼馴染みのあの女がいなかったら、僕はきっと消えていた―― 水音がした。・が、水面に漂っていた本を拾い上げたのだった。 「ほぼ無傷ね」 確かに、童話本は水の中に落ちたにも関わらず、インクが滲むこともページがふやけることもなく、まるで何事もなかったかのように彼女の手に納まっている。 「その戯れ言は、お前自身なんだろう」 シリウスの名前をなぞる・に、どうしてこの女にこんな話をしているんだろうと、セブルスは自分に呆れた。きっと、この女は聞き入れない。 「あんたも、自分にそう言い聞かせながら、今までやってきたんだね」 セブルスが諦めかけていたとき、彼女はようやく口を開いた。 「あんたのこと、ひどいあだ名で呼んで、ごめんなさい」 そして、本を閉じて微笑んだ。 「ありがとう」 ここまでやわらかな声で、やさしく笑える女だったのか。セブルスは、しばらく・から目を離せずにいた。もしかすると自分は、この女について何か勘違いをしていたのかもしれない。そう思わされた。 「でも、その本どうしよう。誰かに見られる可能性を考えたら、図書館に戻したくないし、持っていたくもないし」 セブルスが我に返ったときには、彼女の顔から笑みは消えていたので、セブルスはまるで幻を見ていたかのような錯覚を味わった。 ・は本を見下ろし、ため息をつく。 「この場所のことを誰にも話さないなら、僕が隠してやってもいい」 「……なに、ここってあんたの秘密基地なわけ?」 セブルスは何も返さず、彼女の手から本を奪った。そうして本に杖を当て、呪文を呟く。すると本は一瞬、光に包まれた。 「何をしたの?」 「保護をした。誰かが破いたり、燃やしたり、濡らしたりしないようにな。もちろん落書きも。マダム・ピンスもこの呪文を覚えるべきだ」 片方の口角を上げながら言ったセブルスの腕を、・は拳骨で打った。 「痛い」 「あんたにも痛覚はあったのね。で、次はどうしてくれるわけ?」 やっぱりこの女は傲慢だ。 セブルスは舌打ちをひとつ打ちながら、湖に向かって杖をもう一度振った。ぽこぽこ、と水音が鳴る。渦を巻きながら、水面にぽっかりと小さな穴が開いていくので、・は目を見開いた。その穴の周りだけ水が押し分けられて、湖底の貝殻や魚の骨が丸見えになった。セブルスはさらに杖を振る。露になった湖底の土が掘り返され、そこにもまた穴ができた。それを確認すると、セブルスはその穴に本を置く。人と動物が陽気に踊る表紙は、覆い被さる土の中に消えていった。水面に開いた穴も塞がれていき、そうしていつも通りの湖に戻るのだった。 「この場所のこと、誰にも教えるなよ」 「私の秘密も隠したわけだから、誰にもに話せるわけないでしょ。それと、私の杖、返してくれない?」 すっかりそのことを忘れていたセブルスは、慌てて杖を掲げる。呪文を唱えれば、湖の底に眠っていた・の杖が、水面を下から突き刺すように飛び出してきて、彼女の手に戻った。「どうも」と・は一言。 空は日が落ちかけていた。背景が赤く染まるホグワーツ城を見ながら、セブルスはそろそろ帰ろうと思った。森に入ろうと湖に背を向けたセブルスだったが、足音が続いて来ないことを訝しく思い、立ち止まる。湖の岸辺に突っ立ったまま、・はホグワーツ城を見ていた。 「でも私、最初から自分なんて持ってない。 だからこうなったのよ。でも、なんでこんなことになっちゃったんだろう」 矛盾している。セブルスは思った。しかし、よく見ると彼女の足は、微かに震えていた。 ここに居ると、束の間の自由に心が安らぐ反面、あの場所へ戻ることが怖くなるのだ。 「逃げるな」 セブルスの声に、彼女は振り返った。その唇は、かたく結ばれていた。 「うん」 何かが溢れ出してしまわないように、慎重に唇を開いた・は、杖を懐に仕舞ってから、セブルスの元へ駆け寄った。 わかる、と思う瞬間が増えてしまったことを悔い、しかしどこかで安堵しながら、セブルスもまた矛盾する気持ちを抱えて、二人は城へと帰る道を進んでいくのだった。 (2014.10.03) |