結局、・は午後の授業には出てこなかった。あれだけのギャラリーが居たので、シリウス・ブラックと彼女が別れたことは、この日一日だけでホグワーツ中に知れ渡った。初めのうちは「マドンナが捨てられた」「シリウスは他の女に走った」など、・が悲劇のヒロインのように語られていたが、夕食が済む頃にはそれが一変して、「"ホグワーツのマドンナ"は"マドンナ"ではなかった」「・は猫被りの性悪女」という彼女の批判や、「そんな女だったのなら捨てて当然だ」など、シリウスやハッフルパフのローラを擁護する生徒が大多数を占めるようになっていた。 セブルスは人気の少ない談話室の隅で、・の噂話をする生徒を横目でちらちらと見ながら、変身術のレポートを書いていた。しかし、大広間で夕食を済ませて戻ってきた生徒がだんだんと増え始め、ついには座る場所も無くなるほどのスリザリン生が談話室に集まっていた。そして、セブルスの使っている机の端に男子生徒が腰を掛けたとき、セブルスの不快感は頂点に達して、眉根に皺を寄せながら羊皮紙と羽ペンを鞄に仕舞い込み、男子寮へ下がった。 部屋の扉を開けると、そこには誰も居なかった。他のルームメイトは全員まだ談話室に残っているらしい。ようやく一人きりになれたことに、胸の詰まりが取れたように思えた。ベッドに横になり、細く長い息を吐き、そうして目を瞑った。今日は色んなことが起こった。セブルスが何をしたというわけではないが、いつもより疲れていたし、そしてなぜか気持ちが晴れない。 ――あの女、今頃どうしてるんだ。 シリウスに「退屈な女だった」と言われたとき、それまで固く握り締められていた彼女の拳が力を無くしていく様子を思い出した。泣いているだろうな、と思ったが、セブルスはすぐに頭を振った。 ――あの女がめそめそ泣くはずはない。今はきっとどこかで、ブラックとあのハッフルパフの女にどう復讐してやろうかと企んでいるに決まってる。もし本当にそうだとしたら、ブラックへの復讐を手助けしてやってもいい。 セブルスは、自分の呪文にやられながら必死に許しを請うシリウスの姿を想像し、鼻で笑った。 どこからか聞こえてきた大きないびきで、セブルスは飛び起きた。いつの間にか眠ってしまっていたのだ。辺りを見回すと、ルームメイトたちがベッドに横になり、寝息を立てている。セブルスはベッドから降り、制服を脱ごうとシャツのボタンに手を掛けた。しかし、変身術のレポートを終わらせていないことに気が付き、胃が沈むような感覚に襲われた。急いで鞄から羊皮紙と羽ペンを取り出しながら、聞こえてくるいびきに苛立った。 ――こいつらは全員レポートを終わらせたのか? そう思うと無性に焦り、変身術の教科書を探す手は荒々しく鞄の中をかき回した。 ――無い……。 セブルスはベッドの上で鞄を逆さにして、そこに中身をぶちまけた。出てきたのは羊皮紙が二巻きと、折れた羽ペン、インク壺、使い古された魔法薬学の教科書、基本呪文集、そしてあの童話の本。そこでようやく、変身術の教科書を談話室の机に置いてきてしまったことに気づき、セブルスは舌打ちをしながら部屋を出た。 誰も居ないだろうと思っていたが、談話室に繋がる扉に近づくほどに喋り声がはっきりと聞こえてきた。誰だと思い、男子寮の扉を少しだけ開くと、談話室の明かりがこの暗い階段に零れ、思わず目を細める。 そこには、いつも・を取り巻いて彼女の機嫌を取っている女子生徒たちが、ゆったりとソファに座って何か話し込んでいる。セブルスはいったん扉を閉め、「連中め、はやく寝ろ」と胸の中で悪態をついた。しかし扉の向こうから「」という言葉がはっきりと聞こえたので、思わず好奇心がくすぐられ、再び扉を少しだけ開けた。 「、どこに行ったのかしら?」 「夕食のときも姿が見えなかったわ」 「トイレに閉じこもって泣いてるんじゃない?」 「まさか。あのが泣くなんて、ありえないわよ」 最後にそう言ったのは、・に「自分より先を歩いた」として責められていたあの女子生徒だった。 「プライドを傷つけられたことが悔しくて、今頃ブラックにどう復讐しようか計画を立ててるのよ、きっと」 意地悪く微笑んでそう言えば、周りの子達も頷きながら笑った。その時、談話室の扉が重々しく開き、笑い声がぴたりと止まった。当然、セブルスがいる場所からは誰が入ってきたのか確認することが出来ないが、ソファに座る女子生徒たちの反応からうかがい知ることが出来た。 「みんな、まだ起きてたの」 違和感を覚えたのは、セブルスだけではないだろう。それは確かに・の声だったが、掠れている。しばらく沈黙が流れたが、女子生徒らは互いに確認をとるように頷いた後で、その中の一人が口を開いた。 「シリウス・ブラックと別れたって、本当?」 そこで、だんだんと近づいてきていた靴音が止み、・の短い笑い声が聞こえたかと思えば、再び靴音が響き始めた。 「私が捨ててやったの」 ・が空いたソファに座ったことで、ようやくセブルスの視界に彼女が映った。 「あの男といると、退屈だったから」 そう言って彼女が少し視線を下げた隙に、他の女子は互いに目を合わせてうっすらと笑みを浮かべたと思えば、全員が一斉に立ち上がった。・は驚いたようにして彼女たちを見上げた。 「私たち、もう寝るわ」 「じゃあね、」 ぞろぞろと女子寮へ向かっていく彼女たちに、・はソファから立ち、 「また明日ね」 と言ったが、誰一人振り返る者はいなかった。それはまるで、縋るような声だった。彼女は今まで一度だってこんな言葉を掛けなかっただろう。しかし彼女に返ってきたのは、扉の閉まる虚しい音だけだった。 彼女は再びソファに座り、クッションを顔に押し当てた。こんな・の姿を見るのは初めてだ。 ――泣いているのか? もっとよく見ようと、セブルスは思わず身を乗り出してしまった。 「誰?」 扉の軋む音が聴こえたのか、・は肩をびくりとさせ、鋭い声を上げた。咄嗟に扉の影に隠れたセブルスだったが、こちらへ近づいてくる靴音を耳にしながら、まるで金縛りにあったかのようにその場に佇んでいた。すぐに背後で扉が開かれ、漏れ出でた明かりが暗闇のセブルスの姿を浮き出させた。 「あんた、スネイプ?」 今度はあの屈辱的な名で呼ばなかった。セブルスは振り返って、・と目を合わせた。充血していて、どこか腫れぼったい。よく見れば、鼻の頭も赤らんでいる。 「何してるのよ」 「教科書を取りに来た」 短く答え、彼女の脇を通って机の上に置き去りにされていた変身術の教科書を取った。 「こんな時間まで勉強してないで、はやく寝たら?」 面倒くさそうにそう言いながらソファに座った・の後姿は、まるで別人のもののようだった。まったく華がない。 セブルスは男子寮の扉の取っ手を握ると、独り言のように言った。 「こんな時間まで泣いていないで、はやく寝たらどうだ」 一瞬の間を置いて、・は叫んだ。 「泣いてない!」 「どうだろうな」 セブルスは振り返って口元にうっすらと笑みを浮かべた。しかしそのとき、セブルスの顔にクッションが投げつけられた。 「馬鹿にしないでよ」 ・は女子寮の扉を開けて階段を駆け下りていった。その靴音が消え、セブルスは思った。彼女の投げたこのクッションは確かに僕に向けられたが、果たしてあの言葉は、僕だけに向けられたものだろうか。 そして"ホグワーツのマドンナ"は、この日を境に転落してゆく。 (2009.4.20) |