――鬼になった母を手にかけた。確かにそう言っていた。
乾物屋での仕事を終えたは、夕焼け空のもと、うつむき加減でゆっくりと歩いていた。
実弥はあの後、高熱を出した。しかし半日体を休めた程度で、日が暮れるとまたすぐに刀を持ち、出掛けてしまった。そしてその夜から今日まで、まだ一度も帰って来ていないのだった。
――不死川さんのせいじゃない。そう言えばよかった。
声が出なかったのだ。鬼になってしまった母親を自らの手で殺め、行くあてもなく鬼狩りを続けながらさまよった挙句、あの雨の夜を迎えた。
――何ひとつ悪くない。不死川さんに、罪はないのに。
それでも声が出なかったのは、在ったかもしれない日々を思ってしまったから。
もしもあの時、鬼が目の前に現れなかったら。あの屋敷で暮らすことも、蔵の中に閉じ込められて慰み者にされることもなく、母と生きていられた。不死川さんと、また会うこともなかった――。
「……不死川さん」
はその場にうずくまった。地面には蝉が仰向けに転がり、じじじ、と弱々しく羽を鳴らしている。
頭が痛む。まるで頭蓋の内で虫が蠢いているかのように、じくじくと不快な痛みが襲ってくる。
――不死川さんは、どれほどの苦しみを一人抱えて生きてきたのだろう。もしも、あの時。何度そう思っては、自分を責めてきただろう。
もう背負わなくていい。そう伝えたい、はやく。はやく――
「……会いたい」
自らの口からこぼれ落ちた言葉に、は目を見開く。
しかしすぐに立ち上がると、今の言葉を確かめるように、もう一度、
「会いたい」
そうはっきりと声に出し、前を向いた。そうして再び歩きはじめようと一歩踏み出した、その時だった。
「誰に?」
ぞわり、と肌が粟立つ。
振り返るとそこには、あの屋敷の長男が薄気味の悪い笑みを浮かべて立っていた。
「――あ、あ……」
狼狽するは、手にしていた風呂敷を落としそうになる。すると男が近寄り、落ちそうになった風呂敷を下から支え、の手に触れた。
「だめじゃないか。ちゃんと持ってないと」
肉厚なその手にあの頃の記憶がまざまざと蘇り、の体は小刻みに震えはじめた。
男はその様子を見て、薄い唇を歪ませるようにして笑む。
「親父が死にそうなんだ。君に一目会いたいと言っていてね。うちに来てくれないか?」
視線を下げ、ただ震えているに男は続ける。
「親父から受けた恩を、忘れたのかい?」
――いつからか会わせてもらえなくなった、実の父。
屋敷に来た当初は、よくかわいがってくれた。憎しみの籠った視線を向けてくる夫人、好奇の目でじとりと見つめてくる長男、愛人の子だからとあらぬ噂を立てる女中たち。そんな中で唯一、あの父の目だけは、あたたかかった。
「聞き入れてくれるよな」
はか細い声で、
「……はい」
そう答えるしかなかった。
地面に転がってもなお鳴き続けた蝉は、ついに事切れてしまったようだ。の腕を取った男は、足元の蝉に気がつくと、邪魔くさそうに蹴飛ばした。
ああ、踏み潰されないだけまだ良かった。そんなことを思いながら、は腕を引かれるままに歩きはじめるのだった。
もう二度と来ることはないと思っていた屋敷の門前に立ち、はあの日の記憶をたぐり寄せていた。
――ここから連れ出してくれたのは、大きくて、あたたかな背中だった。
そこでふと視線を下げ、地面を見つめる。
――ここへ連れて来たのは、母だ。
あの雨の夜、この場所で息絶えた。夫人に見捨てられた。まるで虫けらでも見るようなあの蔑んだ目は、忘れられない。
「さあ、入って。君の家だよ」
虫の亡骸を蹴飛ばすこの男は、確かにあの夫人の血を濃く継いでいる。そう心の中で侮蔑しながら、は門の隙間から中へと入る。
そうしながら、不意に思った。母の亡骸は、一体どこへ行ってしまったのだろう、と。
は男の後ろを歩きながら、唇を噛む。
――きちんと弔うことが、できなかった。
今さら悔やんでも遅すぎる。それは分かっている。心のどこかで、母の死を受け入れきれずにいた。だからこれまで、亡骸や弔いのことなど考えてこなかった。そんな自分が、弱くて、憎い。
奥座敷に近づくにつれて、鼻をつく臭いが漂ってくる。思わず眉根を寄せていると、男は「ここから先は君一人で行け」と言った。
「だって臭いだろ。だから看護役の女中以外、誰も近寄らないんだ。哀れな親父。病が手に負えなくなると、母にも店の連中にもあっさり見放されて。これが、色恋にうつつを抜かして好き勝手生きたやつの死に方だ。自業自得ってやつだよ」
が俯いたまま脇を通ろうとすると、
「ああ。君も、親父が好き勝手やった結果、だったね」
そう言って、男は笑った。
は立ち止まることなく廊下を進み、突き当たりにある座敷の前で大きく息を吐いた。
先ほどの男の笑い声で思い出したことがある。会わせてもらえなくなったのが、なぜだったか。「耳の形がそっくりだ」と、父がそう言って触れたから――。
は唇を噛み、覚悟を決めたように襖へ手を掛けた。
薄暗い座敷の中央に敷かれた布団で、父は横になっていた。
はゆっくりと近寄ると、音もなくその枕元に座る。父の髪はところどころ抜け落ち、皮膚にはコブのような腫瘍ができていた。
「……?」
浅い呼吸を繰り返しながら、絞り出された言葉。嗄れたその声に、
「はい」
そう頷くと、父は腕を宙に伸ばした。
はためらいつつもその手を掴む。すると父は力なく笑い、そうしてゆっくりとの耳に触れた。
――お前はあいつに似て別嬪になるだろうな。俺に似なくてよかったよ。けど、耳の形だけは似てるかもなあ。
そう言って快活に笑ったのを、憶えてる。
その様子を見た夫人が嫉妬に狂ったのだ。そして長男は言った。
――親父は病に罹ってから気が触れたようでね。君の母親と君の姿を重ねているようだ。今回は耳に触れられただけで済んだかもしれないが、いつ手を出されてもおかしくないよ。そうなれば母の虐めも一層ひどくなる。でももう大丈夫。兄さんが守ってあげる。僕の言う通りにしていたら、君はこの家で幸せに暮らせるからね。
「あいつの、忘れ形見だからと……大切に育てると決めていたのに、俺が不甲斐ないばかりに……」
は耳に触れる父の手を、両の手のひらで包む。
どうしてこのぬくもりを、信じられなかったのだろう。あの男の言葉を鵜呑みにしてしまったんだろう。あんなに大きく頼もしかった手が、こんなにも痩せ細ってしまう前に、気づけていれば。
「この家を、出ろ……そうして、いい男を見つけて、きっと幸せに……」
その時、襖が開き、女中が入ってきた。その後ろには、鼻を摘み、こちらを睨むようにして見る長男が立っている。
「まだ小さかったお前には、酷かと、思って……ずっと、言えずにいたが……」
父は息を上げながら、の耳元で囁くように言った。
「蔵の、裏に……」
しかし、言葉はそれ以上続かなかった。
女中の早く出て行ってくれと言わんばかりの形相に、は父の手をそっと離し、その場を立つ。
「――おとう、さん」
きっと、これが最期。
父は眉を下げ、眩しいものを見るかのように目を細めて、そうして穏やかに笑むのだった。
――蔵の裏には、何があるんだろう。
屋敷を出て一人門へと向かう途中、ふと足を止め、林の方を見やった。あの先に蔵がある。陽はすでに落ち、鬱蒼と生い茂る木々の向こうからは闇が流れ込んできている。
行くべきか、行かざるべきか。前にも後ろにも進めず立ち尽くしていると、カラスの鳴き声が響き、咄嗟に空を見上げた。
「……そんなわけ、ないか」
実弥の鎹鴉が声を上げながら屋敷へ出入りする様子を思い返す。は俯き、唇を結んだ。
――不死川さん、明日の朝は、帰ってくるのかな。
もう一度、カラスが鳴く。それと同時に、鈍い音が響いた。後頭部に走った衝撃。は暗転していく視界の中で、彼の名を呼ぶのだった。
「しな、ず、がわ、さん……」
瞼を押し上げると、目の前にある景色に、は言葉を失う。蜘蛛の巣や埃が巣食らう梁の天井。上体を起こし、あたりを見渡す。
「不死川? 誰だいそれは」
蝋燭さえない蔵の中では、月明かりだけが頼りだ。そう言いながら姿を見せた男に、は痛む頭を抱えながら後退りする。
「長い夢を見ていたんだね。かわいそうに。君はずっとこの蔵の中にいたんだよ。不死川って誰なんだい? 全部全部、君の見た幻だよ。頭のおかしな女だね、本当に」
確かに、夢のような日々だった。
つむじから突き抜けてくる陽射し、歩くごとに足の下で鳴る小石、頬をくすぐるあたたかい風、蝉や夏の虫の鳴き声。おかえりなさいと言える人、帰りを出迎えてくれる人、無骨に励ましてくれる人、淡くやさしく笑んでくれる、ひと。
――夢なんかじゃない。確かに在った、日々だ。
「……やめて……!」
足に触れてきた手を払いのける。すると男は顔を歪めて、の胸ぐらを掴むと強引に顔を寄せた。はその頬に爪を立て、力任せに引っ掻く。そうして怯んだ男の胸板を押しのけ、戸口へと走った。
しかしすぐに髪を掴まれ、その場に引き倒される。ぐっ、と苦しげな声を漏らすに跨り、男は頬から滴る血を舐めながら笑うのだった。
体を麻縄で縛り上げられる間、は格子窓の向こうに浮かぶ月を眺めながら、母を思った。
――どうしてこんな家に私を託したの。愛人の娘。恨まれることなんてわかってたんじゃないの。なのにどうして? 本当に私を愛してたの? 愛された記憶がない。最期の瞬間しか、憶えてない。お母さんは、全部を投げ出して自由になりたかったんじゃないの? なぜ死んだの。なんで、ひとりにしたの。
「……おかあ、さん……」
ひとりになるなんて、思ってなかった。
ひとりになんて、なりたくなかった。
「もう黙れよ」
手拭いを口に詰められると、は力なく首を前へと下げた。
「君はここにいることが正しいんだ。だって母親がそう頼んだんだろう? この家で君が大切に育てられることを望んで、死んでいったんだろう? 君が外で妙な男と暮らしてるなんて知ったら、あの世で母親が悲しむんじゃないか?」
男の言葉に、胸の内側がずぶすぶと呑み込まれていく。
そうだ。あれは、束の間の自由だった。確かに在った日々だけれど、私なんかがいるべき場所では、なかった。
「忌まわしい人間はそれらしく生きてればいい。希望なんて持たなければ、絶望することもないのに。愚かだね。けど僕はそんな愚かな君の過ちを許してあげるよ。異母とはいえ同じ血を分けた、唯一無二の兄妹だからね」
太陽のもとで、誰かと共に暮らす喜びを知った。
知ってしまったからこそ、本来あるべきこの現実が、こんなにも、つらいだなんて。
「……なんの音だ?」
男は立ち上がり、格子窓の外を見た。
ずるずると何かが地面を擦る音。それが次第に近づいてくる。
何も見えんと呟いた男は、窓から離れ、戸口へと走る。そうして扉を開け、外へと半身を出す。途端に、その顔から色が消えた。
「ブッ殺されてェようだなァ、テメェは」
その声に、は眉根を震わせる。
男は慌てて扉を閉め、
「あいつだ! あいつが来た! 渡さない、絶対に渡さない……」
そう繰り返しながら、を掻き抱く。
首を振り、男の腕から逃れようとする。その頬を掴み、無理やり目線を合わせた男は、懇願するように言った。
「だって約束したじゃないか。お兄ちゃんとずっと一緒にいるって……昔、そう言ってくれただろう?」
――そんなの、本心なわけがない。
どんなに裕福でも、周りにたくさんの人がいても、この人はいつも一人だったから。私だけがそばに居てくれる存在なんだと言って、泣いていたから。それがいつから、こんなにも歪んでしまったんだろう。
その時だった。まるで遠い日の記憶を蹴散らすかのように、バキバキという音とともに、格子窓が外から叩き壊された。
「テメェは人攫いの罪状でお縄になるからなァ。もうすぐそこまで警官が来てる。逃げられねェぞ」
窓があった場所には、ぽっかりと大きな穴が開く。そしてその向こうには、大型の掛矢を手にした実弥が、目を血走らせて立っていた。
不死川さん、と声を出そうにも、口の中に詰まった手拭いが邪魔をして舌が動かない。
「、こっちに来い」
実弥はに向けて、唸るように言った。
途端には体を捩り、男の腕の中から抜け出す。縄で後ろ手を縛られているせいで立ち上がれない。それでも身を転がしながら、実弥の方へと懸命に向かう。
実弥は近くまで来たを抱え上げると、まず手拭いを吐き出させ、蔵の外へと連れ出した。
そこまで来ては気づいた。耳を垂らし、不安げに鼻を鳴らす白い犬の存在に。
「しろみ……」
犬はの顔を舐め、体に巻きつく縄を噛む。
匂いをたどって、不死川さんを連れて来てくれたのかもしれない。そう思うと気持ちが込み上げ、視界が滲む。しろみは、そんなの目尻から流れ落ちた一粒の涙を、ぺろりと舐めた。
「今ここで死ぬか牢屋にぶち込まれるか、どっちか選べェ」
蔵の中で震え上がる男。その返答も待たず、実弥は再び掛矢を振り上げた。
「ま、待て! 出る、出るから――」
「待たねェ」
実弥が壁に掛矢を打ちつけると、蔵がぎしぎしと軋んだ。男は悲鳴を上げ、腰を抜かしたように蔵から這い出てくる。
実弥は容赦なく掛矢を振り続け、そのうちに蔵は、煙と轟音を上げながら崩壊するのだった。
(2021.09.08)
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