朝陽がすっかり昇ったころに帰宅した実弥は、格子戸を開けてすぐ鼻をついてきた焦げ臭さに、顔をしかめた。
台所へ入り、開け放たれた勝手口からそのまま外へ出る。
そこには、七輪の前で右往左往しているの姿があった。その手には空っぽの皿を持ち、実弥の姿に気づくと「あっ」と目を大きくする。
「し、不死川さん……!」
「なんだァ? 丸焦げじゃねェか」
焼網の上では、黒くなったアジの干物が虚しく横たわっている。実弥は七輪に近寄ると、焦げたアジを摘み上げた。
「初めて焼いたもので、その、加減が分からず……焦がしてしまいました」
すみません、と頭を下げる。
実弥は何も言わずに台所へと消えるも、すぐに戻って来た。その手にはザルを持ち、勝手口にあった火鋏と火消し壺を取ると、七輪の前でしゃがむ。
「炭が多すぎんだよ」
炭をいくつか取り出すと、火消し壺へと入れていく。それが終わると、今度はザルに乗せていた干物を焼網の上へ移す。
その手際の良さに感嘆のため息をつきながら、は実弥の隣で膝を折る。
「こ、こつを伝授いただきたいです」
「見て学べェ」
その言葉に自信なさげに頷いただが、やがて食い入るようにアジを見つめ始めた。
皮がめくれてきたころ、その身を裏返す。じんわりとにじみ出た脂が網目から滴り落ちるたびに、炭がぱちぱちと鳴る。
実弥は、が胸に抱き寄せていた皿を指す。
「それ出しとけ」
実弥はアジを返し、その皮面にも脂がにじんでいることを確認すると、の差し出した皿へと載せた。するとは、ゆらゆらと湯気を伸ばすアジに目を輝かせる。
「おいしそうです……!」
「食ってみろォ」
「え、良いのですか?」
実弥がどこからともなく取り出した箸を、は「では」と恐縮しながら受け取る。
箸を割り入れると、身がほっくりと崩れた。ふうっと一つ息を吹きかけ、そのまま口に含む。途端にの目はこぼれ落ちそうなほどに開く。そうしてそのまま実弥へ顔を向け、
「たまりません!」
と、興奮した様子で声を上げるのだった。
は実弥に箸と皿を差し出し、「不死川さんも」と勧める。
「朝食、まだですよね?」
「……それはお前が食えェ」
「私は不死川さんが用意してくださっていたお煮しめで、充分満たされているのです」
「ならなんで朝っぱらからアジ焼いてたんだァ?」
「それは、その……不死川さんの朝食用にと思いまして。失敗、してしまいましたけど」
尻すぼみになっていく。
どうやら、実弥が腹を空かせて帰ってくると思ったらしい。確かに実弥自身も、作り置いていた煮しめだけでは足りないだろうな、とは思っていた。
「あんな黒焦げになったの、久々に見たわ」
「えっ、え、そんな……火加減は難しいので、その……」
「別に責めちゃいねェよ」
「だっ、誰でも、最初はこうなのでは!」
「俺は焦がしたことねぇなァ」
ううっと言葉に詰まるの隣で、実弥は七輪を見つめながら、
「あァ、でもよく玄弥が――」
そこで言葉を切る。一瞬、全ての動きが止まった。呼吸さえも。
そうして実弥は我に返ったようにして、思わずへと視線を走らせる。そこではが、淡く笑んでいた。
「不死川さんは、そうやって笑うんですね」
その言葉に、実弥は目を見開く。しかし、すぐにから顔を背けた。
「玄弥さん、とは?」
「……別に」
「不死川さん、今、とても穏やかな表情をされていました。きっとその方は、不死川さんにとって――」
「うるせェ!」
勢いよく立ち上がった実弥は、そのまま勝手口の方へと早足で向かう。しかし不意に立ち止まると、ゆっくりと振り返った。
は手のひらに皿を乗せたまま、七輪を見つめている。その横顔に表情はなかった。
実弥は唇をぎりっと噛み締める。そうしての元へと戻ると、
「……悪ィ。いきなり怒鳴って」
しかし、は何の反応も見せない。
「おい」
実弥がその肩に触れようと手を伸ばすと、の体はびくりと震えた。その拍子に、皿が地面に落ちてしまう。
「あ、あ……ごめん、なさい」
は皿を拾うでもなく、実弥を見上げるでもなく、ただ膝を胸に抱えて身を小さくしていた。
――きっとこれが、ありのままの姿なのだろう。いつも笑って覆い隠しているが、開いてしまった穴は、簡単に塞がるものではない。負ってしまった傷は、すぐに癒えることはない。
実弥は、微かに震えるの姿に拳を握る。
「お前の部屋、一瞬入るぞ」
絞り出すように言うと、実弥は勝手口へと消えていった。
そうしてすぐに戻って来たその片手には、赤い風車が握られていた。
実弥はの隣にしゃがみ込み、その視界に入るよう、風車を差し出した。風を受けてくるくると回る様子に、の目は次第に光を取り戻していくのだった。
「アジを……」
そっと風車を握ったは、実弥へ顔を向け、
「また駄目にしてしまって、ごめんなさい」
と、眉を下げて詫びた。
「それと、お布団」
「布団?」
唐突に現れたその言葉に、実弥は素っ頓狂な声を上げてしまう。そんな実弥の反応に、はくすりと笑った。
「お天道様のにおいがしました。とてもよく眠れたんです。本当に、ありがとうございます」
微笑むに、実弥は小さく舌を打ち、そっぽを向く。
「それと、まだ言えていませんでした」
「今度はなんだよ」
言葉が返ってこない。不思議に思った実弥が顔を向けると、は俯き加減で、視線をふるふると震わせていた。
「どうしたァ」
「いえ、なにやら、とっても懐かしい気がして」
「……何が」
顔を上げたは、下唇をわずかに噛んだのち、ゆっくりと口を開く。
「おかえりなさい」
その言葉は、そんな表情をして言うものではない。
実弥は頭の片隅で、そう思った。
「――と、言うのが」
遠いあの日、家に帰った自分を出迎えてくれた弟や妹たち、母親の姿が目に浮かぶ。「おかえり」という声が、耳に蘇る――。
しかし実弥は、湧き上がってくるものを押し込めるかのように、拳で頭をごんと打った。
「不思議です。懐かしいなんて。私には、帰って来る人を出迎えた記憶が……ないのに」
妾が産んだ子ども。あの夜、藤の屋敷の長男が口にした言葉が思い返される。生まれた時からずっとあの蔵にいたのか、それとも父親である主人が寝たきりになったことを機に、その妻によって蔵へと追いやられたのか。真実はわからない。
母親はどうしたんだ。実弥にはどうしても、それを訊くことができない。触れられたくない記憶が、ある。自分もそうだからこそ、それ以上何も訊けなかった。
「つくっていきゃァいいだろ。そんなん、これから」
「え?」
立ち上がった実弥を、きょとんとした顔で見上げる。
「俺は帰って来るからよォ」
ポケットに手を突っ込んだ実弥は、勝手口へと消えていく。その後ろ姿に、は唇を噛んだのち、「はい」と声を震わせるのだった。
それからというもの、少しでも役に立とうと思ってか、は家事を申し出るも、炊事も洗濯もうまくできない。そんなをこき下ろすこともなく、実弥は「見てろ」と言いながら手本を示す。それに倣って、はゆっくりとやり方を身につけていく。そんな日々が続いていた。
「おかえりなさい」
実弥が帰宅して草履を脱いでいると、ぱたぱたと走ってきたが微笑む。
「おう」
近ごろはずっとこうだった。実弥が任務から帰ると、は必ずこうして出迎える。ちゃんと寝てんのか、と訊くと、大きく頷き「朝陽が昇るとともに目が覚めてしまうのです」と言うのだった。
自室で着替えを済ませた実弥が茶の間へ入ると、は急須を傾け、湯呑みに茶を注いでいるところだった。
実弥は、座卓を挟んでの向かいに腰を下ろしながら何気なく訊く。
「お前、働き口は見つかりそうなのかァ?」
その言葉に、の手はぴたりと止まる。
「おいおい溢れてんぞ」
「わっ」
慌てて急須を置き、はぺこぺこと頭を下げながら濡れた座卓を拭う。
「いえ、それがその……とんと駄目で」
消え入りそうな声で言いつつ、同じところをずっと拭き続ける。
実弥は頬杖を突き、「へぇ」と短く返す。
「いいじゃねェか、ここで働いてるってことで」
は、えっ、と顔を上げた。全く思いがけない言葉だったのか、目を丸くしている。
「家のことも、近ごろじゃほとんどお前がやってんだ。給金だって俺が出すしよォ」
「だっ、だめです! 何一つ満足にできていないのに、それでお給金なんていただけません! そんなの、罰が当たります」
手拭いを握り締めたまま、両手を突き出してぶんぶんと横に振る。そんなの様子に、実弥は微かに口元を緩めた。
「当たんねえよ。お前に罰なんか」
実弥の言葉は聞こえなかったようで、は手拭いで口元を隠す。
そうして、その目に恥じらいの色をにじませ、囁くように言うのだった。
「外で、働いてみたいのです。誰かの、何かの役に立てればいいなあ、なんて。私なんかにできるか、分かりませんけど……」
そこまで言うと、は誤魔化すように笑いながら、濡れても汚れてもいない座卓の一点をごしごしと拭きはじめる。
実弥は湯呑みを引き寄せながら、「そういや」と切り出した。
「俺がよく――ごく稀に行く菓子屋が、働けるやつ探してるって言ってたな」
は拭くのをやめ、ハッと顔を上げる。
「さ、さっそく今日行ってみます!」
「家出たら最初の角を右。まっすぐ行きゃァ、ときわ屋って看板が出てる」
「はい!」
「……分かるかァ?」
「乾物屋さんのお隣ですよね。分かります」
実弥は「そうかよ」と返すと、茶を一口飲む。
は吸収が早い。実弥の茶の淹れ方を見て学び、すでに自分のものにしていた。この辺りの店も、一度実弥が連れて歩いただけで、どこに何があるのかをすっかり認識している様子だった。
「不死川さん、眠たくはないですか?」
「これ飲んだら休むわァ」
「あ、どうか無理せず。残していただいても良いので」
「いや飲む。うめェから」
案外、しっかり働けるのかもしれないな。実弥は、うれしそうに微笑んでいるをちらりと見やり、そう思った。
(2021.06.20)
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