「その藤の屋敷は、どこですか」

 気を失ったままのを診察した胡蝶しのぶは、彼女を病室へ移したのち、診察室へと招き入れた実弥にそう尋ねた。
 実弥が仔細を話す間、しのぶは唇をかたく結んでいた。

「わかりました。診察の状況も含めて、お館様には私から報告します」
「藤の家紋は」
「当然、外してもらうことになります。それだけでは済まない。済ませたくないです」

 怒りを滲ませた声でそう言ったしのぶの眉間には、皺が深く刻まれていた。

「……あいつ、まだ目ェ覚ましそうにねぇか」
「今夜はあのまま眠り続けるかと。心身ともに、ひどく疲れきっている様子なので」
「そうかァ」

 実弥は短く返すと、診察室の戸に手を掛ける。

「不死川さん」

 不意にそう呼ばれて振り向くと、椅子に座るしのぶが、実弥をじっと見上げていた。

「ありがとうございます」

 今にも怒り出しそうな、泣き出しそうな、そんな二つの感情を必死に押し込めている。しのぶは、そんな顔をしていた。
 実弥は何も返すことなく、暗い廊下へと一歩踏み出すのだった。



 病室へ入ると、壁に沿って並べられるベッドに目を走らせる。の姿は、部屋の最奥にあった。
 同じ月明かりでも、この病室に差し込む明かりは、蔵でのそれとは比べものにならないほど眩しく思えた。
 実弥はが眠るベッドの脇まで来ると、その顔を覗き込む。顔の傷には、消毒液が塗られていた。
 処置を終えた際、しのぶは多くを語らなかったが、「乱暴されたようです」と奥歯を噛みしめながら言った。

 ――この世には、鬼畜がいる。人間の皮を被っただけの奴らだ。鬼が身体を喰うのならば、奴らは心をじわじわと喰っていく。頸を斬られずにいるのは、人間の皮に護られているからだ。卑劣な、存在。

 実弥は掌を握り、あどけなさを残すの寝顔に呟く。

「間に合わなくて、悪かった」




 翌朝。任務を終えた実弥が蝶屋敷へ立ち寄ると、中は足音や話し声で溢れ返っていた。あいつの容体が急変したのか。そんな思いが頭をよぎり、実弥は早足で病室へと向かう。
 荒々しく戸を開けると、実弥の足下で「ひゃあ」という声が上がった。

「かっ、風柱様! 病室へはお静かにお願いしますぅ……!」
「すまねェ」

 戸を開けようとしていたのだろう。蝶屋敷で働く少女、きよが尻餅をついて実弥を見上げていた。実弥が半ベソを掻くきよに手を差し伸べると、彼女は「へ?」と間の抜けた声を出した。

「あ、お、おは……」

 おずおずと手を取ったきよが立つ様を見ていた実弥は、その声に視線を上げる。
 窓から差し込む陽の光に包まれ、なかなか見えない。しかし目を細めているうちに、その姿は次第に浮き上がってきた。

「おはよう、ございます。し、なずがわ……さん」

 ベッドの上で上体を起こしたが、実弥に微笑みかけていた。

「今朝方お目覚めになったんです。お食事も済んだので、しのぶ様が戻られたら――」

 きよの言葉が終わらぬうちに、実弥はの元へと駆けた。

「平気か」

 眉間に皺を寄せている実弥を見上げ、は首を傾げる。そうして、

「おいし、かったです。ごはん、あたたかくて」

と、また笑んだ。その顔に「お前」と口を開く実弥。

「無理してねェか?」

 の顔は一瞬、固まったように見えた。しかしすぐに目を細め、
 
「してません、よ」

 朗らかにそう言うのだった。
 実弥が病室の出入り口を見やると、そこにきよの姿はもうなかった。妙な気を回さなくとも、と思いつつ、実弥は手近にあった丸椅子を引き寄せ、腰掛ける。

「いい、お天気ですね」
「そうか? あっちィだけだろォ」
「でも、いろんな声も、聞こえてきて……」
「声? あァ、なんか今日は一段と騒がしくてな」

 そう返しながら、実弥は窓の外を見やる。おそらく、任務で多くの怪我人が出たのだろう。どこの地区の、どんな鬼だ。そんなことを考えていると、

「虫の声が」

 実弥がへ顔を戻すと、彼女もまた、窓の外へ目を向けていた。

「たくさん、元気に鳴いてる、ので、今日は……いいお天気、です」
「――そうだなァ」

 実弥がそう言うと、はどこか安堵したような笑みを浮かべて、大きく頷いた。

「あ、の……きよさんから、聞いたのですが」
「なんだァ?」
「不死川さんは、鬼を退治する人、なんですか?」

 その問いに、実弥は目を丸くする。
 知らなかったのか。だがあの蔵に閉じ込められていては、無理もないだろう。そう理解しつつも、実弥は尋ねる。

「あの屋敷にいた俺のこと、何者だと思ってたんだァ?」

 は、ベッドの脇に備え付けられた小机をちらりと見る。そこには、赤い風車が置かれていた。そうして再び実弥へと視線を戻すと、

「やさしい、ひと」

と、声こそ小さいが、はっきりとそう言ったのだった。
 実弥は、まるでその言葉から逃れるように顔を背ける。

「……俺は、ただの鬼狩りだァ」

 そこで、病室の戸が開いた。実弥が振り向く前に、

「わぁ、本当に不死川さんでした」

と、愉快そうな色を滲ませたしのぶの声が背中を突いてくる。

「きよが“風柱様に親切にしてもらった”と言うので、偽物なのではないかと疑いながら来てみたんですけど」

 そう言いながら歩み寄って来たしのぶが、実弥の顔を覗き込んで「本物でした」と笑む。実弥は罰が悪そうに舌打ちをした。

「おはようございます、さん」
「あ、あの……?」
「私は胡蝶しのぶと申します」

 きよからその名前を聞いていたのだろう。は「あっ」と声を上げ、深々と頭を下げた。

「不死川さん。今からさんの診察を行いますので」

 実弥は「あァ」と言いながら立ち上がると、ポケットに手を突っ込み、戸の方へと向かう。

「あ、の……!」

 実弥は立ち止まり、顔だけを向ける。

「ありがとう、ございます」

 が胸元に手を当て、実弥をじっと見据えていた。まっすぐな、目だった。
 実弥はそのまま視線を窓の方へと流す。

「はやく外に出れるようになれェ。いい天気だなんて言ってられねぇほど、暑ィからよ」
「あ、はっ、はい……!」
「不死川さん、圧を掛けないでください。ゆっくりでいいですからね、さん」
「はァ? 別に圧なんざ――」

 しのぶは眉を下げ、困ったような笑みを向けていた。実弥はチッと舌打ちすると、顔を前へ戻して戸を開ける。

「ゆっくり休めェ」

 そうして手をひらりと振り、病室を後にするのだった。



「きよちゃんと、なほちゃん、すみちゃん、アオイちゃん、カナヲちゃん……しのぶさん」

 は目に見えて回復していった。青白かった肌も今では随分と血色が良くなり、つっかえるような話し方も次第に滑らかになっていた。
 面会に訪れる実弥をいつも笑って出迎え、昨日は何をしたか、楽しそうに話す。

「みなさん優しくて。毎日、にぎやかで。ここは、あたたかい場所です」

 穏やかな笑みを浮かべてそう言ったに、ベッド脇の丸椅子に腰掛ける実弥は、

「そりゃ良かったなァ」

と、かすかに口元を緩ませた。
 しのぶいわく、はまだ外には出られていないようだった。暗い蔵の中で長期間過ごしてきたため、もう少し体を慣らしてからでないと、夏の強い日差しの下だとすぐに倒れてしまうだろうと言った。

「不死川さんは、どんな方々と一緒に暮らしてらっしゃるんですか?」

 どこか弾んだ声でそう尋ねたは、少し首を傾げつつ実弥の返事を待つ。

「俺は一人だァ」
「――え?」
「そんな驚くことかよ。鬼殺隊の全員がこの家みてぇに共同で住んでるわけじゃねェ」

 は「そうなんですか……」と視線を下げる。
 しかしすぐに実弥を見上げ、おそるおそる訊くのだった。

「つらくは、ないですか……?」

 そこでふと実弥の耳に蘇ったのは、裏長屋で暮らしていた頃の音。
 井戸を取り囲んで洗濯をする女たち、駆け回って遊ぶ子ども、帰りを出迎える兄弟たちの「兄ちゃん」という――声。

「全然」

 吐き捨てるように言った。そんな実弥の顔を、の両眼が捉え続ける。
 そのとき自分がどんな表情をしていたのかを、実弥は知らなかった。しかしの顔がそれを物語るようにも思えて、実弥は逃れるように視線を外すのだった。






(2021.06.07)


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