4.少年との出会い 新学期が始まって数日の間で、ハリーたちは道行く道で、 「・はどこから来たのかい?」 「彼女は転校生なんだろう?」 と尋ねられる度に「転校生ではない」ときっぱりと答えることにすっかり飽きてしまった。 だからといってがつい先学期まで“ゴーストレディ”と呼ばれるほど存在感が無かったことを伝えるのは躊躇った。 自身がそう呼ばれていたことを知らないかもしれないからだ。 そんな木曜の夜、人気のない談話室では魔法生物飼育学の課題をしていた。 どうもこの科目は不得手らしくいつも後回しにしてしまっていたが、そろそろ済ませておかなければ、と眠た目を擦りながら“ボウトラックルの適切な扱い方”を書くため羊皮紙に向かっていた。 暖炉の燃える音が耳に心地よく、自分の羊皮紙をうとうとする目で見つめて「ボウトラックルって何だっけ」と寝言のように呟いたとき、肖像画が開き誰かが談話室に入ってきた。 「あれ、?まだ起きてたのかい?」 それはロンと、右手を押さえるハリーだった。 「ああ、宿題やってるんだ」 「そうなの。終わらなくて……睡魔も襲ってくるの」 ハリーはの羊皮紙を覗き込んで言った。 ロンは暖炉の前のソファに座り、こちらを振り向くような体制になった。 「珍しいなあ。が勉強に対して弱気になってる」 「あの、うん。私、魔法生物飼育学は苦手で……」 ロンが、飼育学が苦手なやつなんていたのか、というような顔で見た。 「ハリーとロンはどこに行ってたの?」 飼育学から話題を変えるため、が切り出した。 「僕は、ほら。罰則を受けに、ピンクのガマ先生のところへ」 「あ、そっか」 「僕はー……まあ、色々とね」 ロンは口ごもりながらそう言うと、詮索されないようにとに背を向けたのでソファのスプリングが鳴った。 しかしは驚いたような目でハリーの右手を見ていたので、ロンの言葉はまるで耳に入っていなかった。 「ハリー、それは……?」 ぎくり、としたようにハリーは右手をさっと後ろに隠した。 しかしその時すでには羽ペンを置いて椅子から立ち上がり、ハリーに詰め寄っていた。 「ああ、いや、これは別に―――」 「見せて」 強引にハリーの手首を掴んだに、ハリーもロンも驚いた。 いつものはどこに行ったんだ、という風に。 「……“僕は嘘をついてはいけない”」 顔を背けるハリーに構わず、はふつふつと血を流す手の甲に刻まれたその字を読んだ。 はそれ以上何も言わず、黙って杖を構えた。 「?いったい何をするの?」 「治すの」 さらりと言ったに「それはやめて!」とハリーが声をあげて手を振り放した。 「そんなことしたら、アンブリッジがまた罰則期間を延ばすだけなんだ!」 これ以上あのピンクまみれの部屋に閉じ込められて自分の皮膚を刻むなんてことをしたくなかった。 はやくこの罰則を終わらせるためには、アンブリッジの望むように、屈辱的な言葉の残る手の甲でなければならない。 はしばらくじっとハリーの目を見つめていた。 ロンも眉を垂れてその様子をソファから心配そうに見ている。 「……うん。分かったよ」 が言った。 「でも血だけは止めさせて。傷跡は残るようにするから。ハリー、お願い」 ハリーは頷いた。そして右手をに差し出した。 の杖先からぽうっとした光が現れ、傷跡をなぞる。 それにハリーは見惚れていた。の杖の動きがあまりにも滑らかだったからだ。 光が消えたとき、じんじんとする痛みも消え、血が再び出ることは無かった。 しかし、しっかりと残った字はハリーに訴えかける。“僕は嘘をついてはいけない”と。 「ハリーは嘘なんてついてないよ」 傷跡にそっと触れながら、はそう言って微笑んだ。 「ありがとう」とハリーが感謝を込めて返したとき、自分がこの女の子を抱き締めたいと思っていることに気付いた。 はきっと、そう思わせるような不思議な雰囲気を持った子なのだ、とこの時ハリーは悟った。 「、君は癒療魔術に優れてたんだね。知らなかった」 「え?いや、そんなことないよ」 照れたようにしては椅子に戻った。 「ハリー、は癒者になりたいんだって」 ロンはソファから立ち上がり、得意げにそう言うとの正面の椅子に座りなおした。 「そうなの?」 初めて知ったハリーは興味深そうな声でそう言うと、ロンの隣に腰掛けた。 は照れくさそうに頷くと、羽ペンをインクに浸す。 「何でまた癒者になろうと思ったの?」 「え?なんでって……」 思いがけない質問をハリーがしたので、は思わず羽ペンの先をインク壺の底で折ってしまった。 新しい羽ペンを鞄からのろのろと取り出しながら、は小さな声で言った。 「とっても……昔の話なんだけどね」 ハリーもロンもその先を促すようにして頷いた。 「ある男の子を助けた、というか私が助けられたんだけど……うん、助けたことがあって」 羽ペンの羽をいじりながら、は言う。 「とっても酷い傷だった。その時の私は血止めの魔法しか知らなくて……まだ六歳だったから。それしか出来ない自分がもどかしくて、もっと癒療の勉強をしたいと強く思ったし、何より……」 ちらり、とハリーとロンを見た。 二人がじっと自分に目をやっていたので、再び視線を羽ペンに落とした。 「ありがとうって言ってくれたの。嬉しかったの、誰かの役に立てたことが。すごく、嬉しかった」 がそう言い終ると、階段を下りてくる音がして三人はそちらを注目した。 それは七年生の監督生で「まだ起きてたのか。もう寝た方がいい」と注意したので、三人はガタガタと椅子から離れた。 が羊皮紙を包めたり教科書を直したりするのでもたついていると、監督生はそれを手伝った。 どうもありがとうございます、とが頭を下げると監督生が少し照れたような表情をしたのをロンは見逃さなかった。 ハリーとロンと別れると、は女子寮の自分の部屋へと入った。 ルームメイトは皆ぐっすりと眠っている。 不思議なことにルームメイトの子たちは新学期が始まってから、に「初めまして!」と挨拶をしてきた。 が戸惑いながら自分の名前を告げると、首を傾げてまた「初めまして」と彼女たちは言った。 きっと“ゴーストレディ”と言えば理解したのだろうが、は自分がそう呼ばれていたことを知らなかったので、ルームメイトからも覚えられていなかったことに結構なショックを受けた。「無理もない。同じ部屋でありながら今まで一度も話したことが無かったのだから」と自分に言い聞かせた。 倒れこむようにベッドに入ると、ふーっと細い息を吐いた。 暫く何か考えていたが、周りから聞こえてくる心地よい寝息に引き込まれるように、は眠りに落ちた。 そこは深い森の奥。 木々たちは太陽の光を遮って、微かに木の葉の隙間から漏れてくる日差しの元に一人の少女がいた。 はその子を見つめていた。黒く長い髪を白いリボンで二つに結い、淡い水色のワンピースにレースの付いた鞄を手に持っている。 するとそれが六歳の頃の自分であると気が付いた。 それは六歳の夏に、家族でイギリスに住まう親戚を訪ねて行った頃の光景だった。 母方の曾祖母はイギリス人であるから、にも英国の血が流れていた。 ゆったりと流れる川を囲むようにして野芝が緑を輝かせる美しい場所を散策していたのだが、幼いはいつの間にか両親とはぐれてしまい、薄暗い森の中をさまよっていた。 「おかあさん、おとうさん……」 しくしくと涙を流しながら、は小さな足で森の奥へ進んでいく。 暫く歩き回ると、疲れたようにしてその場に座り込む。 そこは太陽を遮る木はなく、ぽっかりと空が見え、暗い森の中でそこだけスポットライトを浴びたような場所だった。 お腹がすいたのか、は鞄の中からサンドイッチを取り出した。 「……おかあさん」 サンドイッチを頬張ると、母が作ってくれたことを思い出してまだ泣き出す。 すると、ガサガサ、という木の葉が擦れ合う音が響いた。 涙に濡れる目でその音がする方向を見たは目を擦って曇る視界をはっきりとさせたが、すぐにそれを後悔した。 「くま、くま……くま」 そこにはよりも遥かに大きな熊が、じっとサンドイッチを見つめて佇んでいた。 ぶるぶると体を震わせながら、は後ずさりをする。 それを追うように熊が少しずつ近寄ってくる。 「あ、あげないよ……おかあさんが私に、つ、つくってくれたんだから……」 サンドイッチを背中に隠すと、熊は低く唸った。 は恐怖に腰を抜かしているようだったが、手元にあった木の枝を熊に向かって投げつけた。 それが熊の目に当たってしまい、静寂の森にけたたましい猛獣の鳴き声が響き、ざわっと木が揺れた。 熊は怒りに吠え、体を立ち上げて今にも小さく体を丸めるを襲おうとしている。 声をも出せぬとてつもない恐怖が今やの体中を走っていた。 ―――私は死んじゃうんだ。 そう思ったとき、はぐいっと引っ張られた。そして熊の声ではない小さな声が耳に聞こえた。 生暖かい液体がの頬に飛んだが、手を引かれながら森をどんどん進んでいくことに気をひかれていた。 熊はしばらく追ってきたが、が手に握っていたサンドイッチを投げると、それをがつがつと食べることで二度と追いかけてくることはなかった。 眩しい光が包み込んだ。ようやく森から抜け出したのだ。 目の前には入道雲が広がる夏の青い空と、緑の野芝が太陽の日差しを浴びて輝いている光景があった。 「大丈夫か?」 息を切らしながらそう聞く男の子が、森の奥で熊に襲われかけたを救い出してくれたのだ。 が顔を確かめようとしても、男の子の顔はぼんやりと霞んでいて見る事ができない。 「あの、ありがとうございます」 そう言って深々と頭を下げた。 しかし再び頭を上げたとき、はその男の子の洋服が左の肩から胸元にかけて赤黒い血で濡れていることに気付いた。 悲鳴をあげて口を覆うに、男の子は短く、力無い笑い声を出した。 「私、私……ごめんなさい」 泣きじゃくりながら言うに、男の子は「いいんだ」と答えたが立っているのも辛いらしく、その場に座り込んだ。 も傍らに座ると、男の子は、 「ここ、ぼくの血がついてる」 と言っての頬を指した。しかしは拭い取らずに、首を横に振っただけだった。 その拍子に涙がぽろぽろと芝に落ちた。日の光をあびてそれはきらりと輝く。 「私、できるの……血はとめられるの」 そう言ったは自信の無さそうな顔をしていたが、男の子は黙って着ていたシャツを脱いだ。 白い肌に血の色がひどく映えた。熊の爪あとから血が湧き出る。酷い傷だ。 はその痛々しい傷に手を触れて、ぎゅっと目を瞑った。 途端にの小さな手の平からぼんやりとした光が現れて、それは傷跡を舐めるように辿った。 するとぱっくり割れる傷口から溢れ出していた血は止まった。 「きみは、魔女なのか?」 男の子は自分の傷を見ながら聞いた。 は暫く間を置いて、男の子がシャツを着るとこくりと頷いた。 返ってくる反応が怖かったが、男の子が「そうか」と言ったので首を傾げた。 「ぼくも魔法使いなんだ」 は今まで同じ年頃の魔法使いや魔女に会ったことがなかった。 男の子がそう言ったとき、なぜだか心がぽうっとした。 しかしは首を振ると、急いで言った。 「はやく、お癒者さまのところへ行って……」 男の子は頷くと、立ち上がる。そして二人は少しの間見つめあった。 小鳥が空を飛んでいる。嘴に歌をたずさえて。 「きみ、目が綺麗なんだね」 そう言われたとき、温かいものが胸に流れ込んだ気がした。何か幸福なものが。 男の子は背を向けて走ったが、ふと立ち止まって再びを見た。 そして自分の肩を軽く指差して、 「これ、ありがとう」 と言うと、空の青と地の緑の境界線へ向かって走っていく。 「まって、名前をおしえて」 の声はもう男の子には届かなかった。 六歳のはその場に立って、ただ小さくなっていく背中を見つめる。 そして十五歳のは走って男の子を追いかけようとしたが、ぐいっと体を内側から引っ張られる感覚が襲い、次に視界は暗くなった。青と緑の世界は消えていく。 「待って……待って!」 ばっと目を開けると、そこはグリフィンドール塔の自分の部屋のベッド上だった。 は虚しく天井に伸ばした手を引っ込めて、目を擦った。 「……夢、か」 日はすっかり昇り、ルームメイトの子たちはすでにベッドを整えて朝食を取りに大広間に行ってしまったようだ。 はのろのろと立ち上がり、着替え始めた。 そこに突然、ハーマイオニーが扉を開けて入ってきた。 「今日は遅いのね、」 の考え込むような顔を見て「あら、どうしたの?」とハーマイオニーは聞いた。 寝巻きを畳み、グリフィンドールの紋章が付いたローブを羽織ると、はハーマイオニーと女子寮の階段を下りながら言った。 「男の子の夢を見たの」 「夢を?まあ、でもそれって珍しいことじゃないんでしょう?」 「うん……でも今日はとてもリアルだったの」 ハーマイオニーは立ち止まって、ふふっと笑った。 「それだけその子を思う気持ちが強くなったんじゃない?」 談話室に入ると、すでに朝食を終えた生徒たちが一限目の授業までの時間を思い思いに過ごしていた。 フレッドとジョージは怪しげな菓子を一年生に配っていたし、女の子たちは集まってぺちゃくちゃ話し込んでいた。 その中で、一人黙々と机に向かう男子生徒がいた。 「おはよう、ネビル」 「あ、おはようハーマイオニー。も」 ネビルは机に向かって必死に変身術のレポートを仕上げているところだった。 はた、と羽ペンを動かす手を止めて、 「ハリーもロンも、まだ大広間にいたよ」 と二人に教えた。「ありがとう」とハーマイオニーが言うと、もお礼を言った。 とハーマイオニーが大広間に着いた頃、ハリーとロンは何か話しこんでいるようだった。 「何の話?」 ハーマイオニーが二人の正面に座ると、すかさず聞いた。 ハリーもロンもびっくりしたように話すのを止めて、ハーマイオニーを凝視した。 「ああ、やあ、おはよ」 「おはようロン。それで?何をひそひそ話してたの?」 ハーマイオニーがに隣に座るように手で勧めながらまた聞く。 「うん、まあね。まだ言えないけど……」 「もういいじゃないか、ロン。今日なんだし」 「でもハリー!僕が落ちたらこいつ、絶対馬鹿にするぜ」 ロンがハーマイオニーを親指で指したが、ハリーは構わず言った。 「ロンは今日、キーパーの試験を受けるんだ」 あーっという顔をしたロンに、ハーマイオニーは「まあ!」と嬉しそうな声をあげた。 「それは、良いことよ!頑張ってロン」 こんなにハーマイオニーが感動するとは思っていなかったが「まだ受かったわけじゃないし……」とロンは照れ隠しに言った。 ロンはちらり、との反応を伺ったが、はどこか一点を見つめていた。 ハーマイオニーが「ねえ」と呼びかけると、はっとした顔をして 「うん。そうだね」 と言った。これには三人とも眉をひそめた。 ハーマイオニーが咳払いをすると、クィディッチのグリフィンドールチームのキーパー試験をロンが受けるのよ、とまるで勉強を教えるかのような口ぶりで言った。 「ほんとう?ロン、頑張ってね」 笑顔でそう言っただったが、その目はすぐにまたある所を見た。 何人もの生徒の頭を越して見つめるの視線の先には、ドラコ・マルフォイがいた。 (2007.8.15) |