31.バレンタイン前夜 「くしゅんっ!」 「ちょっと、大丈夫?」 二月十三日の朝。大広間では、とジニー、ロンの三人が朝食をとっていた。 心配するジニーに、盛大なくしゃみをしたは、照れくさそうに頷く。 「風邪?」 「うーん」 「きっとそうだよ。だって、ものすごい鼻声」 は、ジニーの言葉に唸るばかり。 そんな様子を見ていたロンが、スクランブルエッグを大皿からひとすくい取りながら言う。 「昨日の夜、談話室でずっと勉強してたよな。暖炉消えてることも気付かないぐらいに、根を詰めてさ」 「ロンに見られてたなんて、全然気付かなかったなあ」 「あれって何の勉強?今日提出の課題って、変身術以外にあったっけ?」 「ううん。昨日は、O.W.L試験の勉強を……」 ロンはぎょっとしたような表情で、 「まだ試験まで時間はあるんだから無茶するなよ」 と口早に言うと、スクランブルエッグをさらに取り、口に押し込める。 そんなロンの様子を見ていたジニーは、「焦ってる」と、愉快そうに言う。 「暢気に構えてたら、あっという間に試験が来ちゃうわよ」 「ジニー!うるさいぞ」 「かわいそうね、五年生は大変そうで」 「いいよなあ、ジニーは。試験もなくって、気楽でさ」 ロンの言葉にムッとするジニー。 「気楽じゃないわよ。私にだって悩みぐらい――」 「ジニー」 ジニーは声の主を見ると、ハッとしたような表情で立ち上がった。 もジニーの視線の先を辿る。するとそこには、クィディッチのキャプテン、アンジェリーナが険しい表情で立っていた。 「おはよう、」 「アンジェリーナさん、おはようございます」 アンジェリーナは、へにこりと口角を緩ませたかと思えば、すぐに元の表情に戻る。 「ロンも、ちょっと良い?ごめんなさいね。少しだけ、この二人借りるわね」 は、ジニーとロンがアンジェリーナに従えられていくのを見送った後、スリザリンのテーブルに目をやった。 しばらく視線を右へ左へ流した後、クロワッサンを一つ取り、細い息を吐く。 「」 不意に肩を叩かれ、飛び上がる。 「ハーマイオニー!」 「どうしたのよ、そんなに驚いて。クロワッサン落ちたわよ」 「あ、ごめんなさい」 「あなた、ものすごい鼻声ね。風邪?大丈夫なの?」 「うーん」 ハーマイオニーはの隣に座ると、カップに紅茶を注ぐ。 はクロワッサンをちぎりながら、また出そうになったくしゃみを押し殺した。すると、行き場をなくしたくしゃみが、代わりに涙をじわりと滲み出させる。 「あなたの魔法でちゃちゃっと治したら良いじゃない?」 「大したことじゃないよ。大丈夫」 「自分のこととなると強がるんだから。無理しないようにね」 頷くに、ハーマイオニーはふっと笑った。 そこへ、肩を怒らせたジニーが戻ってくる。 「さいっあく!」 「……どうしたの?」 「アンジェリーナが、明日クィディッチの練習をするって言うの!」 とハーマイオニーの前に座ると、ジニーはの持っていたクロワッサンを奪い、口に押し込めた。 「明日はバレンタインデーよ?それに、ホグズミードに行ける日なのに……」 目の前の大皿に盛られる料理を手当たり次第に皿に取ると、それを思いっきり頬張り始めたジニー。 「ひどいわよ、アンジェリーナったら。自分はバレンタインを過ごす相手がいないからって」 「あなたはいるの?ジニー」 「私は!」 そこで、女子生徒の笑い声が大広間に響き、思わず三人は会話を止め、声の方へ顔を向ける。 そこには、チョウ・チャンとその友人たちが楽しそうに談笑している姿があった。 「……私もいないから、別に良いんだけど」 視線を戻し、ジニーは俯く。 「いいなあ、チョウは」 そう呟いたジニー。それは、心の奥底にある想いが無意識に出てしまったような口ぶりだった。 ハーマイオニーが「ジニー」と哀れむような表情をしたので、は首を傾げる。 「どうかしたの?」 「チョウは明日、ハリーとホグズミードに行くのよ」 「あっ、そうだったよね。ハリーが楽しみに――」 ハーマイオニーは、の口を手で塞ぐ。目をぱちくりとさせる。 ジニーの耳には、そんな二人のやり取りが入っていないようで、ため息をつきながらマッシュルームソテーを突いている。 そこへ、ふくろうが一羽、また一羽と舞い込んでくる。途端に大広間に広がる、ふくろうたちの羽音や、小包や手紙が生徒たちの手元に落とされる音。 ハーマイオニーは、ふくろうを見上げて、どこか落ち着かない様子だった。「何か待ってるの?」とが訊けば、曖昧な返事をするだけだった。 そこでも、ハーマイオニーにつられて天井を見上げる。 大広間の天井は、外の天気を反映している。曇り空に雪が散らついている様子を、じっと見つめる。 「明日十一時にホグズミード郵便局の前で」 「えっ」 不意にそんな言葉が耳元を通り過ぎ、は振り向いた。 歩き去っていく、シルバーブロンドの髪――。 ドラコ・マルフォイは、ふとの方を振り返り、 「わかったな」 と言うと、そのまま大広間から出て行った。 「、どうしたの?」 呆然とした様子で通路の向こうを見ているに、ハーマイオニーは声を掛ける。 「私、熱があるのかも……」 「熱?……熱はないみたいだけど」 「ハーマイオニー、私を叩いてみて」 の額に手を当てたままのハーマイオニーは、戸惑った様子で聞き返す。 「えっ、なに、叩くの?」 「うん。これは夢かもしれないから」 「、夢じゃないよ」 真剣なに対して、ジニーが冷静に言う。 「私、見てたから。通り過ぎるときに、あなたに何か耳打ちして行ったマルフォイを」 ぽかんと口を開ける。「マルフォイが?」と辺りを見渡すハーマイオニー。 ジニーはずいっと前に身を乗り出し、好奇心に溢れた目で訊く。 「で、何を言われたの?」 は、しばし黙り込んだ。 そして、ハーマイオニーの表情を伺いながら、おそるおそる口を開く。 「明日、十一時に……」 「うん」 「ホグズミード郵便局の前で、って」 「――それって……」 ジニーはそこで言葉を切り、ハーマイオニーの顔を見る。 ハーマイオニーは特に驚くわけでもなく、ふうん、という様子で一、二度頷いた。 ジニーは再びを向き直り、 「それ、デートの誘いじゃない?」 「デ、デートだなんて!私たちはそんなんじゃ……」 は手で顔を覆う。 「、どうしたの」 ハーマイオニーは穏やかな口調で訊く。 は顔を隠したまま、 「正直、ちょっと混乱してる」 と、くぐもった声で答えた。 「嬉しいけど……でも、私とマルフォイくんが一緒にホグズミードだなんて、誰に何て言われるか……」 「いいのよ、」 ハーマイオニーは、の腕に手を触れる。 「何も気にせず、考え込まず。自分の思う通りに進んだら良いの」 「……私の思う通りに?」 「そう、それで良いの。私、あなたのことを信じてるから」 は手を下げ、ようやく顔を見せた。 「ハーマイオニー……」 「大丈夫よ。だって私、マルフォイの口からもちゃんと――」 「え?」 ハーマイオニーは、の目を真っすぐに見る。 「私、マルフォイの気持ちも信じることにしたから。ただし、あなたへの想いに限ってだけどね」 は目をぎゅっと閉じ、絞り出すような声で「ありがとう」と言った。 「とにかくさ、明日は楽しんでおいでよ」 ジニーは再び身を乗り出し、「明日は私が髪を可愛くしてあげるから」と笑った。 「素敵なバレンタインデーを」 ハーマイオニーはそう言ってほほ笑むと、紅茶をひとくち啜るのだった。 その日の夜。の姿は、厨房にあった。 ぎこちない手つきでボウルをかき混ぜるを、ハウスエルフたちは落ち着かない様子で見守っている。 「さまはとても頑張っていらっしゃいます」 「そうです、頑張っていらっしゃいます」 「ですから、私たちは手出しをしてはいけないのです」 手を揉みながら、そう自分に言い聞かせるハウスエルフたち。 「みんな、夜遅いのにごめんね。ちゃんと後片付けはしておくから、寝てて良いんだよ」 は、チョコレートのついた顔で、ハウスエルフたちに申し訳なさそうに笑ってみせる。 「さまのお菓子が立派に出来上がるまで見届けたいのです」 「そうです、見届けたいのです」 「ですから、私たちはまだ寝なくて大丈夫なのです」 ごめんね、と謝るに恐縮するハウスエルフたち。 「私、魔法にも、みんなにも頼らないって決めてたけど……」 「はい、なんでしょう?」 「なんでしょう?」 はボウルを置き、ハウスエルフたちに向き直った。 しかし、「あのね」と切り出したかと思えばすぐに口をつぐみ、目を閉じたに、ハウスエルフたちは訝しげに首を傾げる。 「っくしゅん!」 「ああさま!」 「お風邪を!」 「大変です!」 くしゃみ一つでハウスエルフたちが騒ぎはじめてしまい、の声は彼らに届かなくなってしまった。 大量の毛布を持ってくる者、大きな薪を暖炉に投げ込む者、風邪薬を煎じはじめる者などで、厨房は慌ただしくなった。 「ちょっと!大丈夫だから!」 声を張り、手を叩くと、ようやくハウスエルフたちは静かになった。 暖炉の火が、先ほどとは段違いに勢い良く燃え上がっている。 「あのね。おいしいお菓子にしたいから、みんなの知恵を貸してほしいな」 すると、ハウスエルフたちは途端に目を輝かせた。 「もちろんです!お菓子づくりについてはお任せください!」 「豊かな味わいにさせるためのお知恵は私めが!」 「外はさっくり、中はしっとりさせるための焼き加減は、私めの知恵を!」 「ありがとう。でもね」 ボウルを再びかき混ぜはじめる。 「作業は私がやるから、知恵だけ、ね。わがまま言ってごめんね」 「もちろんです!」 「さまの“手作り”を大事にいたします!」 「生クリームをあともう少し加えると良いです!」 夜中の厨房に甘い香りが漂い、には遠い昔の記憶が蘇った。 母に教わりながら、父へのバレンタインのお菓子を作ったこと。何度も失敗する自分を、母は決して叱ることはなかった。形がいびつでも、父は毎年喜んで、美味しいと食べてくれた。 はあの頃と今の自分の手つきが全く変わらないことに恥じながらも、懸命にアドバイスをくれるハウスエルフたちや、明日のマルフォイとの時間を思うと、自然と笑みがこぼれるのだった。 (2015.10.18) |