28.霞みは消えて


 ドラコ・マルフォイはスリザリンテーブルに座って、他の一年生が組み分けをされる様子を何気なく眺めていた。帽子が「グリフィンドール」と叫ぶたびに周囲のスリザリン生が嘲笑うので、真似してほくそ笑んでいた。幼馴染のセオドール・ノットがスリザリンに決まると、思わず手を叩いた。彼には優れた知性があるから、ひょっとするとレイブンクローになるかもしれないと思っていたからだ。テーブルに着いたノットにそのことを話すと、親が死喰い人なんだから当然スリザリンに決まってるだろう、とさらりと言った。
 組み分け儀式の見物にも飽き、ノットや他の生徒たちと談笑していたが、ある名前が呼ばれたとき、動作も思考もすべてが停止した。



 名を呼ばれて組み分け帽子の下に滑り込んだ少女は、大広間中の視線を浴びることに緊張しているのか俯いたままだ。マクゴナガルによって帽子を被せられれば、さらに委縮したように見えた。

「グリフィンドール!」

 帽子が高らかに叫んだ。少女は椅子から下りると、顔を伏せたままグリフィンドールテーブルの方へ駆けて行った。
 くるしい。
 ドラコは自分の呼吸が荒くなってゆくことに気付いた。テーブルに腕を突き、肩で息をする。その背にすっと手を伸ばして擦りながら、ノットが訊いた。

「あの子なんだな?」

 こくこくと頷いた。ノットはそれ以上何も言わずにドラコの背を撫ぜ続けた。
 ドラコは次第に呼吸が整ってくると、もう一度グリフィンドールテーブルへ視線をやった。そうして傷跡の残る左肩に手を当てる。

 ――……。


 何も出来なくてごめん。きっと、これからももう、何もない。








 目が覚めてすぐ、額に汗が滲んでいることに気付いた。身体が重く、起き上がることさえままならない。首だけ動かして辺りを見ると、無機質なベッドがいくつも並べられていて、そこでようやく自分は医務室に居るのだと認識した。
 向こうの方で扉の開く音がしたのでそちらに視線をやると、マダム・ポンフリーがこちらへ向かって来るところだった。

「気が付きましたね」

 マダム・ポンフリーはマルフォイのベッド脇で足を止め、枕元の小テーブルに置かれていたビンを手に持った。

「ミスター・マルフォイ、体調が優れないのにこんな吹雪の中外に出るなんて、自殺行為もいいところですよ」

 ため息を吐きながら、マダムは言った。

「幸いミス・たちが意識が朦朧とするあなたを見つけたから助かったものの、もしあのまま誰にも気付かれずにいたら……」
?」

 マダムがビンを傾け、スプーンに透明の液体を注ぐのをただ見上げていたマルフォイは、思わず訊き返した。

「ええ。彼女だけじゃありませんよ。ミスター・ポッター、ウィーズリー、ミス・グレンジャーにも感謝しなさい。あの四人があなたをここまで連れて来たのですから。身体は起こせますか?」

 何も返事をしないマルフォイに、マダムは余程身体が辛いのだと思ったのか「ではそのままで良いです」と言って、マルフォイの口にスプーンをねじ込んだ。突然のことにマルフォイは目を見開き、激しくむせる。喉を滑っていった液体はひどく苦かった。「薬です。水とでも?」と言うマダムは、さすがに慣れているのだろう。マルフォイがむせ返るのを気にも留めず話を続ける。

「あなたには栄養と睡眠が恐ろしく不足しています。全く、一体どんな生活をしてたんです。今日は一晩ここに泊まること。良いですね?」

 そこまで口早に言うと、スプーンをテーブルに置いた。そうして「あなたの食事を用意してもらって来ます」と踵を返す。トイレ以外はベッドから離れないようにと釘を刺し、マダム・ポンフリーは医務室から出て行った。せかせかとした靴音が小さくなっていくと、自分以外に患者の居ない医務室は途端に静かになった。
 薬が胃の中で燃えているかのようだった。マルフォイは水を飲もうと身体を起こしたが、枕元のテーブルには薬ビンとスプーンだけで、水差しは置かれていない。周囲を見渡すと、向かいのベッド脇に水差しはあった。杖、と腰に手を伸ばすと、ローブを羽織っていないことに気付く。マダムが脱がせてどこかに掛けているのだろう。水差しと杖ぐらいは枕元に置いてくれよと心の中で舌打ちをしながら、それでも重い身体を起こしてベッドを降りようとした。その時、医務室の扉がゆっくりと開いた。マルフォイはぴたりと動作を止めた。

「マルフォイ君」

 扉の間から顔を覗かせたのはマダム・ポンフリーではなく、だった。安堵したようにマルフォイの名を呟いただったが、彼がベッドから出ようとしていたことが分かると、「だめだよ」と厳しく言う。そうして部屋の中へ入り、マルフォイのベッドまで小走りで駆けた。

「どうしたの?トイレ?何か欲しいものがあるの?」

 ベッドの縁に腰かけたままのマルフォイは何も言わずに、水差しを指した。するとは「お水!」と納得したように言い、水差しを取るため、また駆けた。戻って来るとガラスコップに水を注ぎ、マルフォイに渡す。受け取ったマルフォイはそれを一気に飲み干した。

「具合、どう?」

 今度はがコップを受け取り、水を注いで、また渡す。マルフォイはそれを、今度はゆっくりと飲む。
 は小テーブルに水差しを置くと、部屋の隅に重ねて置いてあった椅子を一脚持ち出し、マルフォイのベッド脇まで運ぶ。戻って来た頃には、マルフォイはベッドの中に戻っていて、きちんと横になっていた。が椅子を置き、そこへ腰掛けると、マルフォイは寝返りを打って背を向けた。

「マルフォイ君……栄養も睡眠も足りなくなるぐらい、自分を追い込んでたんだね」

 マルフォイは何も返さない。

「マダム・ポンフリーは?」

 は、向こうのマダム・ポンフリーの部屋を見返りながら尋ねた。少しの間を置いた後に、マルフォイは答えた。

「食事を取りに行った……」
「マルフォイ君のための?」

 マルフォイの頭が微かに縦に動いたのを見ると、は微笑んだ。

「そう。じゃあ、病人食か」
「……」
「大丈夫、絶対おいしいよ。ハウスエルフたちが作る食事はいつも絶品でしょう?きっと今ごろ、消化に良くて栄養のあるものを作ってくれてる」

 は、マダム・ポンフリーの注文を受け、せっせと料理に勤しむハウスエフルたちを思い浮かべた。厨房を訪れるといつでも歓迎してくれる彼らのことを思うと、自然と笑みが零れる。
 
「ポッター達なんだってな」
「え?」

 不意にマルフォイから声を掛けられたので、はとっさに訊き返す。

「……僕をここに運んで来たのは、ポッター達なんだろう」
「ああ、うん。そうだよ」

 ハーマイオニーを先頭に医務室へやって来たのは、もう九時間も前のことだった。マダム・ポンフリーは、ロンとハリーに両脇を抱えられるマルフォイを見て目を丸くしていた。マルフォイの体調の様子ではなく、その異様な組み合わせを見ての驚きだったのだろう。がマルフォイの発熱のことや呼吸の乱れを訴えると、マダムはすっかり校医の顔に戻り、ベッドへ誘導してからはてきぱきと処置を始めた。取り外された耳当てとマフラーはが、ローブはロンがそれぞれ受け取った。マルフォイの容体を診ながら、マダムは「栄養失調と睡眠不足」と言った。その後は「早く授業に戻りなさい」と医務室を追い出され、はハーマイオニーに急かされながら薬草学の授業に向かった。
 が回想を終えて視線を戻してみると、マルフォイは上半身を起こし、ベッドに背をもたれ掛けていた。そうして、宙を見ながら言った。

「お前たちは、お人好しすぎるんじゃないのか?……何で、こんな奴を助けるんだ。僕はポッター達にさんざん卑怯なことをしてきた。お前には、あんな酷い仕打ちを――。だからそんな奴なんて……見捨てれば良かったのに」

 マルフォイの言葉が終わるのと同時に、医務室内の松明に火が灯りはじめた。部屋の端から順に、ひとりでに炎を上げてゆく松明。
 
「またそんなこと言ってる」

 薄暗かった医務室が次第に明るくなってゆく中で、は表情を曇らせることなく言う。

「確かに私たちはお人好しすぎるのかも。でも、マルフォイ君は色んな物事に対して“こうでなくちゃいけない”って、決めつけすぎるよね。そこがマルフォイ君の個性なんだろうけど」

 「でも」と言うと、は少しだけ身を前に乗り出した。

「……苦しそうだから。そういうことを言うときのマルフォイ君って、すごく苦しそう」

 マルフォイは松明からに視線を移す。炎の残像で、の顔はゆらゆら揺れて見えていた。

「お前のそういうところが……全部見透かして、解ってるようなことを言うところが……なんでだよ――なんでそんなに、強いんだよ」

 何かを抑えるような、絞り出すような声だった。マルフォイはしばらく唇を噛みしめたまま、布団の上で握る拳を頭を垂らして見つめていた。
 
「……お前は強い。なんでだ。前はあんなに、泣き虫だったくせに。――なのに僕は……なんて情けないんだ」

 最後の言葉はかすれてしまっていた。しかし、の耳にはしっかりと届いた。
 はそっと目を閉じた。深呼吸を一度すると、再びマルフォイを見据えた。

「背負ってる物の大きさが違うんだよ。私と、ハリー達やマルフォイ君は。私の背負ってるものなんて全然大したことない。もしかすると、何も無いのかもしれない。なのにマルフォイ君は」

 ふっと手が伸び、マルフォイの拳は包まれた。

「よく耐えてきたね」

 あたたかく、やわらかな手のひらだった。
 はさらに力を込めて握った。

「でも、あんまり自分を追い詰めすぎないで。体に毒だよ。自分のこと、もっと大切にしてあげて」

 言い聞かせるように話した後、手に込められる力は少し緩んだ。「それに」とは続ける。

「――私、強くなんてないからね。今でも、しょっちゅう泣いてるよ。……でも昔よりはたしかに、少しは強くなったかな。それって、なんでだか分かる?」

 体を低くし、マルフォイの顔を覗き込んだ。そうして囁くように声を潜めて言った。

「マルフォイ君が居るからだよ」

 その言葉に嘘はひとつもなかった。
 すべてがそうだ。がマルフォイに掛ける一言一言には、いつだって、嘘がひとつもなかった。
 人が良すぎると、また誰かに言われてしまうのだろうか。そんなことを思い、は微笑した。それでも良い。

「はやく元気になってね」

 明るい声色でそう言うと、手を離した。「じゃあ」と言って椅子から立ち上がり、マルフォイに背を向けた。
 そうして一歩を踏み出そうとしたとき、不意に、右腕を掴まれた。

「そのまま、あっちを向いたままで居てくれ」

 振り返ろうとしたに、マルフォイが言った。手首をぐるりと一周して握ってしまうその手を見下ろしながら、の胸は高鳴っていた。
 あたたかく、骨ばった手だ――。

「もう、何も無いと思ってた。お前に本当のことを言うことも、こうやって言葉を交わすことも、目が合うことすら無いと思ってたんだ。だから……感謝してる。忘れないでくれていたことに。……ありがとう」

 思わず振り返りそうになった。しかしはそれを必死に堪えた。
 マルフォイは、いつかのノットの言葉を思い返していた。「お前は難しく考えすぎだ。俺たちはまだ十五のガキなんだぞ。自分に素直であることが許されるし、そうあるべきだと思う」。

「――難しく考えるな、自分に素直になれと言われたら、僕は……」

 マルフォイが今どんな表情をしているのか、右腕を掴む手を見下ろして想像しようとしても、出来なかった。の頭の中に思い浮かぶマルフォイの顔は、次第におぼろげになってゆく。プラチナブロンドが滲んでゆく。

「――僕は」

 それは遠い記憶の中。空は目が冴えるほどに青く、緑の芝生は太陽に輝いていた。その情景の中でおぼろげに映る少年の姿に目を細めた。



「お前が好きなんだと思う」



 霞みは消えた。

 は振り返った。目の前のマルフォイの顔が、記憶の中の少年の顔が、はっきりと見えた。
 今ようやく、霞みは消えたのだ。

「……好きだ」

 腕を引かれるのと、がマルフォイに抱きつくのは、ほぼ同時だった。

「わた、し…私も……私も、大好き」


 私は九年前と変わらず、泣いていた。マルフォイ君は、あの時と変わらず笑っていた。








(2011.1.29)