25.憶えてる 月が雲に隠れ、マルフォイの追憶も途切れた。 窓枠に手を置いたまま振り返れば、たった今四年前の真実を聞いたがその場に立ち尽くしている。その様子を見据えながら「お前は」とマルフォイが口を開けば、は視線を返した。 「確かに、あの歴史に名高い魔女を輩出したダーウェント家の血を引いているが、マグルの混血だ。由緒正しき血筋が途切れたとき、純血を重んじる者たちからの偏見は想像以上に酷い。……現にお前の母親は、魔法界の名家の間では裏切り者だと言われている」 は声を漏らすと、口元を手で覆った。マルフォイは唇を噛みしめた。 クリスマス休暇の前に、女子トイレで起きたことが思い出される。パーキンソンはの母を「血を裏切る者」、そして父を「血を穢した者」と嘲った。そのとき知ったのだ。自分のことよりも、家族のことを悪く言われるのは、身を切るように痛く、悲しい。 口を覆ったまま目に涙を溜めはじめたから目をそらし、マルフォイは続ける。 「血を裏切る者とマグルの間に生まれたお前と親しげにしているところを見られたなら、僕までもが非難を浴びる。マルフォイ家と親交のある家は大抵が、過激なほどの純血主義だからだ。だからあのとき、父上は僕のためだと言って――」 あの日、の頭から息子との記憶を消し去った後、父ルシウスはただ一言「お前の今後のためだ」と言った。マルフォイ自身がの母親やダーウェント家のことを知ったのは後のことで、そのときは訳も分からず頷いただけだった。何事もなかったかのように杖を仕舞う父が恐ろしかったからだ。 「僕のためだと言っても、結局父上は、今後混血のお前と関わることでマルフォイ家の名が汚されることをおそれたんだ。家名のためなら他人を顧みらずに何だってする。ひどい話だろう」 マルフォイは鼻で笑った。しかし、すぐに表情が翳る。 「それでも、父上のしたことを否定したくはない。だから、何も言わずに父上の望む通りにしようと思った。でも――出来なかった」 は口に手を置いたままだったが、涙はこぼしていなかった。窓枠に背を預けて俯くマルフォイを見据えている。 「書店で再会したとき、お前はまず傷のことを訊いた。ちゃんと治ったか、そして、跡は残っていないか。僕は、残っていないと答えた。それを聞いたお前は安心していた。でも……」 左肩に手を当て、続ける。 「本当はあのときも、傷跡はここにあったんだ。残っていた。いや、残していた。……初めてお前と会ったとき、僕は名乗るのを忘れていたし、お前の名も聞かなかった」 そこで少しの間が空いた。 ふたたび雲間から顔を出した月が、には二つに重なって見えた。うっすらと目まいを感じ、が椅子に座りこむと、「また」とマルフォイの擦れた声が響く。 「……また、会いたかったんだ」 そう言って、左肩に置いたままだった手が服を握りしめた。マルフォイのローブに皺が寄る。 「だからあのとき、傷跡を消さずに胸に残していれば、きっとまたあの少女に会えると信じたんだ。何しろ、まだ六つだったから」 セオドール・ノットの屋敷の暖炉から聖マンゴへ送られた当時のマルフォイは、泣きじゃくる母親の目を盗み、癒者に傷跡は消さないでくれと頼んだのだ。運が良いことに気のいい癒者だったので、とくに理由も聞かず六歳の少年の言う通り跡は残して治療してくれたし、このことは両親に知られたくないと言えば、「傷跡は当分残るかもしれない」と、もっともらしい説明を色々と並べて両親を納得させてくれた。 それでも、息子の体に生々しい傷跡が残ることを嫌う母が、いつまた聖マンゴへ連れ出そうとするか分からなかったので、ノットに手を貸してもらって母の目を誤魔化せるような呪文を探し、そして習得した。「傷跡はもうきれいさっぱり消えた」と言って体を見せれば、母ナルシッサはとても満足していた。部屋に戻って呪文を解けば、左肩から胸元にかけて熊の爪痕がはっきりと現われる。何も疑わずに信じた母を思い出すと達成感を感じたが、同時に、だましてしまったという罪悪感もうっすらと胸に浮かんだ。 マルフォイは息をはき、握りしめたローブを離した。そうして、続ける。 「でも、再会を果たしてすぐに、お前は僕との記憶をなくした。だから今度はこの傷跡を、願懸けのためじゃなくて、手掛かりとして残そうと思った。忘却呪文で消された僕との記憶を、もしかしたらお前によみがえらせてくれるかもしれないこの傷跡を、これからも胸に刻み続けようと思った」 俯き加減だったマルフォイは、に視線をやった。彼女もじっとマルフォイの目を見ていた。背筋をしゃんと伸ばして椅子に座り、真っ直ぐに見つめ返してくるが、まるですべてを超越しているかのように思え、マルフォイはとっさに息をもらした。には笑い声のように聞こえたが、それはすぐに止んだ。 「だからあのとき、監督生の浴場でお前がこの傷痕を見て顔色を変えたとき、奇跡だと思った」 さっきのは笑い声で間違いなかったのだと、は思った。そう言ったときのマルフォイの表情が、おだやかだったからだ。しかしすぐにまた、先ほどまでの強張った、暗い顔に戻る。 「でもすぐに父上のことを思い出して、お前を否定した。あれほど、お前の記憶が魔法を挫くよう願ってきたのに」 そこでマルフォイは唇を噛み、黙り込んだ。 十五年も共に暮らしてきたのだから、父の冷酷さは十分に心得ている。十一歳の少女にでさえも手加減はしないはずだ。忘却呪文に手を抜いたとはとても思えなかった。それでも自分のことをおぼろげながらも憶えていたということは、間違いなく、彼女の記憶が父の魔法を挫いたのだ。 しかし、奇跡に酔いしれるわけにはいかなかった。父の影が、あまりにも大きすぎたのだ。 不意にガタンと音がし、マルフォイは顔を上げた。見ると、がこちらへ歩み寄って来る。その様子を目にし、マルフォイは堰を切るように言った。 「忘れられるのはつらかった。だって僕は憶えているのに、お前は知らないなんて、そんなのあんまりだろう。お前は……何様のつもりだよ」 最後は力なく、呟くようだった。 自分から伸びた影にの影が重なるのを目にしながら、マルフォイは抑えるように言った。 「――僕を、忘れないでほしかった」 靴音が止んだ。マルフォイは目をつむった。 そうして再び瞼を持ち上げると、鼻で笑った。あの自嘲的な笑いだ。 「お前の気持ちなんてまるで無視して、本当に自分のことばかりだ。僕は狂ってる。今話したことは全部忘れろ」 「忘れない」 ははっきりと言った。マルフォイはちらとだけ視線をやったが、すぐに俯いた。 「自分は話すだけ話して、忘れてほしくないって言ったそばから忘れろだなんて。そんなの本当に自分勝手よ」 再び靴音が響く。一歩一歩マルフォイに近づくごとに、月明かりがいっそう眩しく感じる。 「自分の記憶の一部を消されたのは、もちろん快いことではないけど、でも、憎いなんて思わない。だって私、マルフォイ君のこと憶えてるよ。確かにフローリシュ・アンド・ブロッツでのことは憶えてないし、顔だって鮮明に憶えてたわけじゃない。でも、あの森で熊に襲われそうだった私を救ってくれたこと、ありがとうって言ってくれたことは……ちゃんと憶えてるんだよ」 まるでスクリーンのような大窓から見えるのは月、それだけ。もうひとひらの夜雲も浮かんではいなかった。 「マルフォイ君」 そう声を掛けると、はマルフォイまでの残りわずかな距離を駆けだした。 そうしてマルフォイの目の前で立ち止まると、腕組みしていた彼の手を取る。 「傷跡を残しておいてくれて、ありがとう」 マルフォイの手を握りしめ、笑顔でそう言った。 「なんで……礼なんて……」 マルフォイは朗らかに笑うに目を丸くして言うが、は首を振る。 「記憶がおぼろげだった私にとってはその傷跡が、忘れられない男の子はマルフォイ君だっていう、何よりの証だから」 「お前は!僕を殴ったっていい、その権利があるんだ。僕や父を恨んだっていいんだ。僕だってその覚悟を決めて来たのに――なのに、礼なんて……拍子抜けもいいところだ」 はただ手をかたく握って、笑って首を振るだけだった。 「なんて女だ」 マルフォイは呟くように言った。 はいっそう強くマルフォイの手を握る。冷えきった指先が、の温かな手に解かれていくようだった。 「私、やっと分かってきたことがあるの。本当は一番にマルフォイ君に伝えた方が良いんだろうけど、でも私、真っ先に話したい人がいるの」 「……ああ、じゃあ行けよ」 真っ直ぐに見上げるから逃げるように視線をそらすマルフォイに、は笑う。 「いいの?私が先に行っても。いつもマルフォイ君は先に行くじゃない、私をブナの木の下に置いて」 「今日はお前が僕を置いていけばいい。ここは木の下じゃないけどな。……はやく行け」 「分かった」 そう言うと、はマルフォイの右の手をほどき、背を向けた。 「手を離せよ」 いまだに握られたままの左手を見下ろし、マルフォイが眉をひそめて言ったが、は構わずにそのまま歩きだした。 「おい!」 ぐいぐいとドアまで手を引かれて行くのでマルフォイはたまらず声を荒げたが、は止まらない。手をほどこうとしても、彼女のどこにそんな力があるのか、離すことが出来ない。 は振り返ると、マルフォイの焦る様子を見て、愉快そうに笑った。 「マルフォイ君をひとり残して行くわけないじゃない。そんなことしたら、今のマルフォイ君は誰かに連れさらわれそう」 「……」 その言葉に唇を震わせたマルフォイだったが、がドアの外へ誘うと、唇を強く噛んで誤魔化した。廊下へ出ても、は手を離さなかった。 スリザリンの地下牢への階段とグリフィンドール寮への分かれ道にたどり着くと、はゆっくりと手をほどいた。とたんにマルフォイの手はだらりと下がる。がその顔を覗き込むと、唇をかたく結んで瞬きひとつしていなかった。 「じゃあ、また明日ね。今日はありがとう」 マルフォイは何も反応を返さず、背を向けて階下へと消えていった。 階段の動く音と額縁の中の住人たちの寝息の中からドラコ・マルフォイの靴音が完全に聞こえなくなったとき、はその場にうずくまり、ずっとこらえていた涙をこぼした。 ひとつ、はっきりと分かったことがあるのだ。ようやく見つけた。そうしたとき、これまでのことが思い返され、さまざまな感情が綯い交ぜになった。次から次に涙が溢れだして止まらなかった。 「お嬢さん、涙を拭きなさい」 その声に顔をあげると、目の前の額縁の中で、髭をたっぷりとたくわえた紳士がハンカチを差し出していた。瞬きは重く、眠気を必死にこらえているようだった。 「ありがとうございます」 は頭を下げると、ローブのポケットからジニーのハンカチを取り出し、濡れた目に押し当てた。涙はまだ止まることを知らなかったが、は立ち上がり、そうして駆けだした。 泣いてばかりではいられない。真っ先にこのことを伝えなければいけない人がいる。やっと、分かったのだ。 ハーマイオニー。私は、マルフォイ君に恋をしてる。 (2010.2.21) |