24.少女との再会 松明の灯りを横顔に受けるを真っ直ぐに見つめるマルフォイは、何度か口を開いて何かを言いかける。だがその度にためらうように視線を下げるので、沈黙は続く。しかしマルフォイが一歩後退してに背を向けようとしたとき、彼女はとっさに動いてマルフォイのローブの袖を掴み、言った。 「――じゃあ、マルフォイ君が……あのときの男の子なの?」 少しかすれた声が教室に響いた。マルフォイは、ローブを握るの手を見下ろす。 「そうだ」 マルフォイが言うと、ローブを握る力が弱くなり、そして離れた。だらりと下がったその手は微かに震えていて、彼女に目をやると、静かに涙を流していた。それを見るとマルフォイは顔を強張らせ、すぐに目をそらした。 「その後、入学前にもう一度会ってる。僕とお前は」 がローブのポケットから、先ほどジニーに借りたハンカチを取り出したとき、マルフォイは言った。歯を食いしばっているのか、どこかくぐもった声だった。はとっさに顔を上げて、首を傾げた。 「入学前。ダイアゴン横丁、フローリシュ・アンド・ブロッツ書店で」 マルフォイは一向にの方を見ない。 ――入学前……。 は入学前、学用品を購入するために確かにダイアゴン横丁を訪れている。どの店の中も外観にそぐわない広さで、空ではフクロウが嘴に小包を咥えて飛び回り、いたるところで色とりどりの火花がにぎやかに散っていた。道行く魔法使いの親子を見ては、これから始まる魔法界での学校生活を思い、不安で仕方なかったことを憶えている。しかし、いくら思い返してみてもマルフォイの記憶はない。 「あの、ごめんなさい。何かの間違いじゃ…ない?私なにも憶えて――」 「憶えていなくて当然だ!」 マルフォイの大声に、は一瞬からだを震わせた。マルフォイは険しい表情で肩で息をしていたが、の怯えた姿を見ると途端に我に返ったようだった。右手で顔を覆うと、今度は力を無くした様子で言う。 「……当然だ。本当ならあの森で会ったときのことだって、憶えていないのが当然なんだ」 呟くような低い声で、まるで自分に言い聞かせているかのようだった。明らかにいつもと様子の違うマルフォイに戸惑い、の視界は再び涙で滲みはじめた。それに気づくと、「泣くな、泣くな」と自分自身に言い聞かせながら拳を強く握った。 マルフォイはイスに座り込んで、頭を抱えている。は立ちすくんだまま、マルフォイの言葉の意味を考えていた。しかし頭の整理がつかず、考えるほどにわからなくなる。憶えていないのが当然だと言った。でも自分は確かに、あの森で少年に助けられた。「ありがとう」と言って空の青と地の緑の境界線に消えていく少年の後姿を、たしかに憶えているのに。ただ、少年の顔は、何度思い出そうとしても霞んでいて、思い出すことが出来ないけれど――。 「あの――マルフォイ君、私わからない。どうして……憶えていないことが、当然なの?」 両手で頭を抱えているせいで、きっちりと整えられていたオールバックの髪が指間に挟まり、乱れてしまっている。それでもそのプラチナ・ブロンドの髪は、この薄闇の中で最も輝いていた。 同じように月明りを浴びても、自分の黒髪と彼の髪とでは輝きが全く異なる。それは陽のひかりでも同じだった、と思った。あの夏の日も、少年の――マルフォイのプラチナ・ブロンドの髪はきらきらと輝いていた。傷口から溢れる血を止めた私に「ありがとう」と言った彼はあのとき、どんな表情をしていたのだろう。笑っていたのだろうか。記憶の中の彼は、プラチナ・ブロンドだけが輝いて、顔が霞んでしまっている。 大きな窓ガラスが連なる教室を照らしていた月が、厚い雲に隠された。今夜の月は綺麗だが、夜空に浮かぶ雲もいつもより多く、厚かった。そこで不意に、ブナの木に背を預けるマルフォイの姿が目に浮かんだ。そこでいつも、人知れず何かと葛藤しているマルフォイの姿。 自然と、の足が動いた。その靴音に、マルフォイは俯いていた顔をわずかに動かして、近づいて来るへ目をやった。そうして、口早に言う。 「きっと、罪の意識から解放されたいだけなんだ。僕はお前に全てを話すことで、楽になりたいだけだ」 言い終えないうちに、がマルフォイの傍らで足を止めた。マルフォイはイスに座ったまま、唇を固く結ぶの顔を見上げた。しかしすぐに視線を逸らし、に背を向けて窓の方へ顔をやった。すると途端に雲が切れて月が現れたので、闇に慣れてしまっていたマルフォイは思わず目を細めた。 「マルフォイ君」 は再びプラチナ・ブロンドの髪が輝くのを見ながら、ほとんど囁くように言った。 「僕は自分さえ良ければそれでいい、そんな勝手なやつなんだ。それはもう知ってるだろう」 「……いつもそうね、マルフォイ君は」 マルフォイは背を向けたまま、こちらへ振り返りそうもない。は続ける。 「そうやって言うときはいつでも、自分自身に言い聞かせてるみたい。そうあるべきなんだって」 いつもなら否定するであろう言葉にも、マルフォイは反応を示さない。後姿でははっきりと分からないが、彼は月を見ているようだった。 「マルフォイ君、話して」 もちろん、知れるものなら知りたい。なぜ記憶の一部が失われ、一部がおぼろげなのか。しかし頭の片隅では、彼が辛いなら話さなくてもいい、と思っていた。だから、懇願するようでもなく、さらりと流れるようにそう言った。マルフォイが聞き流しても仕方がないと思えるように。 沈黙が流れた。はマルフォイの後ろで、大窓の向こうの月を眺めた。こんなに窓の大きい教室なのに、先ほどここへ入ってきたときは廊下より暗く感じた。雲のせいだろうか、とは思った。今夜は月が綺麗だが、雲も多く、厚い。 不意に、何かの軋む音がした。見ると、マルフォイがイスから立ち上がり、窓の方へ歩いていく。この教室の窓は他のどの教室よりも大きく、何枚も連なっている。まるで映画館のスクリーンみたいだと思った。 マルフォイは未だに背を向けたまま、窓枠に手を置き、鼻で笑った。それはどこか自嘲的な笑いだった。 「――お前は僕の父上に、忘却呪文をかけられた」 フローリシュ・アンド・ブロッツ書店の二階奥は、本の重みでギシギシと軋む本棚と塵埃だけの、人気が無い場所だった。ドラコは好奇心に身を任せて店内を見歩く内に、その薄暗く、どこか気味の悪い場所まで来てしまっていた。はぐれてしまった父を探そう、と踵を返したとき、目の前に人が立っていたので、思わず「わっ」と声を上げた。本棚に後ろ手を突き、もう片方の手は驚きで鼓動の速くなった胸に当てて、その人を目を凝らして見る。自分と同じぐらいの年の、少女だった。 「あ、あの!」 黒髪を二つに結い、薄ピンクのワンピースに白のカーディガンを羽織っているその少女は、緊張しているのか、伏し目がちで言った。 「私のこと、憶えてますか……?」 どこかたどたどしい英語に、聞き覚えがあった。どこの家の子女だろうか。だとしてもその中に、こんなにアクセントの怪しい英語を話す子はいただろうか。眉根を寄せ、微かに首を傾げるドラコ。少女は意を決したようにして、俯き気味だったその顔を勢いよく上げた。あっ、とドラコは思った。その黒の瞳は、忘れようもない、あの少女の目だった。 「あのときの……」 五年前、森の中をさまよっていたあの少女だ。あの、瞳の綺麗な。 少女は、「ああ、よかった!」と安堵したように笑んだかと思えば、今度は頭を深く下げた。 「あのときは、本当にありがとうございました」 あの夏の日。ドラコは一人、幼馴染のセオドール・ノットの屋敷へ向かっていた。馬車で行くようにと言う父の言葉を丁寧に断って、いつもは通らないような道の無い道を、心躍らせて歩いていた。こういった時は、父の方が寛大だった。きっと、母が不在でなかったら止められていただろう。それか、馬車で行かないなら自分も付いて行くと言って、きっと今ごろ母に腕を引かれながら、整備されきった退屈な道を歩いていたことだろう。 緑の野芝が、太陽に照らされてきらきらと輝いている。青い空には神々しい入道雲が。その景色に心満たされながら歩き続けていると、左手に広がるうす暗い森の方に目を奪われた。一人の少女が、ふらふらと森の中へ入って行く。本能的に、後を追わなくてはと思った。しかし一瞬、ためらった。あの森へは入ってはいけない、と母からいつもきつく言われていたのだ。だが今はそんなことを言ってられない、と心を奮わせて、ドラコは森へと走った。そうして少女に追いついたとき、彼女は熊に襲われかけていた。地面に小さくうずくまる少女の方へ、全力で走った。無我夢中だった――。 「傷はもう平気ですか?治りましたか?」 「あ……ああ、うん。治ったよ」 少女の問いかけに、ドラコは我に返った。 「傷痕は?残っていませんか?」 「――うん」 「ああ、よかった……」 最後の少女の言葉は、英語ではないどこか他の国のものらしかった。胸を撫で下ろしたように息をふうっと吐いて、涙が滲んだのか目の縁を拭う少女の様子に、何となくその言葉の意味が理解できた。そして同時に、また泣いている、とぼんやり思った。あの日も少女は泣きじゃくっていた。ドラコの傷口から流れる血を止めていたときも、ぎゅっと閉じた目から涙が伝っていた。 「泣き虫」 「え?」 呟いたドラコに、間の抜けた声を上げた少女。聞き取れなかったのか、首を傾げている。それがおかしくてドラコは堪えきれずに笑った。少し戸惑うような素振りを見せたが、少女もドラコに合わせてへらりと笑んだ。 「あの、私は・です。日本から来ました」 、とドラコは口の中で唱えた。あのときは名前も聞かずに別れてしまったから、後で彼女について調べようとしても何の術もなかった。ずっと、名前を知りたかった。、、心の中で何度も繰り返す。 「えっと、私の英語、わかるかな?お母さんから教わってきたんだけど、なぜだか上手にならないの。イギリス人の血も入ってるのに、変なの」 日本人。母から英語を教わる。イギリス人の血。これらの言葉から、ドラコは様々な考えをめぐらせた。 ――日本は東の果ての島国。独特の文化を持つ。優れた魔法使いが多く輩出される。きっと母親がイギリス人で、父親が日本人。 黙り込むドラコに気づき、は「あっ」と自分の口を塞いだ。 「ごめんなさい。ぺちゃくちゃ喋って……英語下手なのに」 ドラコが神妙な顔をして黙りこくっているのは、自分の英語が耳障りだと感じているからなのだ、と勘違いしたのか、の目はまた潤んだ。 「いや、いいよ。それに君の英語、言うほど下手じゃないよ」 そうドラコが言えば、途端に表情を明るくさせた。 「ありがとう。やっぱりあなた、優しいね」 にっこりと微笑んだ。笑んで細くなった瞳は、きらきらと輝いている。吸い込まれそうだな、と思った。 ドラコの手は無意識のうちに、左の肩から胸元にかけて残る傷痕を擦っていた。痕は、まだ残っているのだ。いや、残していたと言った方が正しい――。 「あ、そう!」 は感情によって表情をころころと変える子で、見ていて飽きないと思った。今は目をいっそう輝かせて、生き生きとした顔を見せている。「何?」と訊いたすぐ後で、ドラコは近づいてくる足音と、それに合わせて床を突く音に眉をひそめた。 「ずっと知りたかったの。あなたのお名前は――」 「こんな所に居たのか」 低く、どこか冷たい声。はびくりと肩を上げた。 「すみません、父上」 ドラコは、の向こうに立つ父に申し訳無さそうに言うと、顔を強張らせるに「僕の父さんだよ」と囁いた。それを聞いて安心したのか、は微笑して頷いた。 うす暗いこの場所で、ルシウス・マルフォイのシルバーの長髪はとりわけ目立っている。ドラコは父の方へ歩み寄り、父に気づかれないようにへ向かって小さく手招きした。は小走りでこちらへやって来ると、頭を下げた。 「初めまして。・です」 ルシウスは目を細めてを見下ろす。 「知り合いかね」 「はい、父上。熊に襲われた僕の怪我を治してくれた、あの女の子です」 片手に持つ長杖の頭を撫でながら「なるほど」と言う。その声に冷たさを感じたドラコは、思わず父を見上げた。 怪我をした後、ドラコはそのままノットの屋敷へと走った。服を血まみれにしてやって来たドラコに、ノットの父は慌ててマルフォイ家に遣いのしもべ妖精を走らせた。ノットは、傷口から一滴も血が流れていないことや、大怪我をしているというのに落ち着き払っているドラコの様子に、訝しげに顔をしかめていた。しばらくして、ドラコの名前を泣き呼ぶようにしながら母が屋敷へ飛び込んできた。続いて部屋に入ってきた父は、傷を見て卒倒しかけた母を片腕に抱きとめ、冷静に理由をたずねた。ドラコは全てを話した。森へ入った少女を救おうとして熊に襲われたこと、その傷の血止めをしてくれたその少女も魔女だったこと。それを話し終えた後の父の表情が、今こうしてを見下ろす父の様子から思い返された。 「お嬢さんのお母上の旧姓はダーウェントかな?」 「あ、はい。母をご存知で?」 「魔法界の名家の間では、少し有名な方だからね」 ドラコは、嫌な予感がした。ルシウスの言葉に「そうなんですか?」とはどこか照れたように言う。 「父上……?」 恐る恐るドラコが呼びかけると、ルシウスは息子へ目をやった。の無垢な黒の瞳とは全く別の、冷たく鈍い光が宿っていた。 ルシウスはすぐにへと視線を戻し、うっすらと微笑んで言った。 「そのお母上だが、下の階でお嬢さんをさがしていたよ」 「えっ、あ!」 は声を上げて、目を丸くさせた。ルシウスに「どうもありがとうございます」と頭を下げると、ドラコに向かって口早に言った。 「じゃあ、今度は学校で会おうね」 そうして微笑んだ。ドラコはそれに答えることが出来なかった。慌ててマルフォイ父子の隣を通り過ぎようとしたとき、 「ああ。最後に、お嬢さん」 と、ルシウスがを呼び止めた。父が踵を返し、翻ったマントがドラコの足首を掠めていった。そのすぐ後だった。人気が無く、薄暗いこのフローリシュ・アンド・ブロッツ書店の二階奥に、光線が放たれた。 「ドラコ……僕の名前は、ドラコ・マルフォイ」 ドラコは振り返ることも出来ず、ただ掌を握り締めて、泣いた。 (2009.11.23) |