12.忘れられない男の子 ・はスキップをしながら六階の廊下を進んでいた。 その顔は、先ほどまでベッドの中で猫のように丸くなっていたのが嘘であるかのように生き生きとしていた。 手袋の左右を間違えて着けているボケのボリスの像の近くまで来ると、足を止めて辺りを見回した。 「監督生のお風呂場、使ってもいいわよ。ただし、誰にも見つからないようにね」 ハーマイオニーの言葉を思い出すと、嬉しさと興奮で体がブルっと震えた。 ホグワーツの学生寮にはシャワールームしかない。 たっぷりと湯が溜まったバスタブに浸かって疲れを癒すのが日本で生まれ育ったの習慣だったので、この学校に来て以来、シャワーを浴びるたびに日本の風呂を恋しく思っていた。 そこでハーマイオニーはに応援の意味も込めて、監督生専用の浴室の場所と合言葉を教えたのだった。 ボケのボリス像の左側の四つ目にあるドアの前で深く息を吐くと、 「パイン・フレッシュ」 と合言葉を唱え、反応を待った。 するとドアはギシギシと音を立てながら開いた。 は高鳴る胸を押さえながら中に入ると、後ろ手で静かにドアを閉めた。 途端には手のひらで目を覆った。 きっと立派であろうこの風呂場を今見たら心臓が止まってしまうかもしれない、と思ったからだ。 ―――まずはハーマイオニーに教えてもらった脱衣所に行こう。 そう思い、目を覆ったまま蟹歩きで右に十歩ほど進んだ。 ハーマイオニーの話によれば、そこにはきっと脱衣所のドアがあるはず。 ―――……あった。 片方の後ろ手で壁を探ると、ひんやりとしたドアノブが触れた。 それを捻って脱衣所に滑り込んだ。 「こんばんは、お嬢さん」 女子用脱衣所に掲げられた一枚の大きな肖像画の中でブロンドの巻髪を整える魔女が、陽気な声でそう言った。 は挨拶を返すと、少し戸惑ったように、あの、と魔女に言う。 「ちょっとだけ、目を瞑っててもらえませんか?」 魔女は、あら、と言うとすぐにニッコリと笑って、 「そうでしょうね。まだまだ人に見られちゃ恥ずかしいお年頃だものね」 と言って意味ありげにウインクすると、額縁の端に消えていった。 申し訳ないことをしてしまっただろうか、と考えながらはローブを脱いだ。 ベスト、シャツまで脱ぐと部屋の隅に高く積まれたふんわりとしたバスタオルを一枚取った。 下着を外すと急いでバスタオルを体に巻きつけた。 そして肖像画に向かって、 「もう終わりました。ご協力ありがとうございました」 と声を掛けると、魔女はすぐに絵の中に戻ってきた。 そしてを見ると、 「まあ、綺麗なお肌。私の若い頃を思い出すわ」 と言って思い出に浸るかのようにため息をついた。 はしっかりとタオルを体に巻いたまま、魔女に頭を下げてから脱衣所のドアをそろっと開けた。 「……うわあ」 小さく声が漏れた。 浴場に足を一歩踏み出すと、高い天井からは蝋燭が灯った大きなシャンデリアが飾られている。 白い大理石で造られる浴室に、同じく大理石のプールのように広い浴槽。 そこにはお湯の上にふわふわと白い泡が浮いていて、は今すぐにでもあの中に身を任せたいという思いに駆られた。 一歩一歩と浴槽に近づいていくうちに、その泡の中に白とは別に色が混じっていることに気付いた。 まさか、と思って目を擦ってみる。 何度も何度も擦ってみたが、それは間違いなくあの色だ。 それは、プラチナ・ブロンドの――― 「マ……マルフォイ君?」 シャンデリアの灯りに照らされたプラチナ・ブロンドの後ろ頭がすぐに動いた。 「おまえは……?」 信じられない、という風に目を見開いて二人は固まった。 壁に掛けられた金の額縁の中の人魚のクスクスという笑い声だけが浴室に響く。 はハッと我に返って俯くと、バスタオルをきつく握って滑り落ちないようにした。 マルフォイは泡を自分の元へ集める。 そんな二人の様子がますます面白くて、人魚はさらに笑った。 「黙れ!」とマルフォイが言うと、人魚は気を悪くしたようにツンっとそっぽを向いた。 「おまえ、ドアに使用中のプレートが掛かっていたのを見なかったのか?」 マルフォイはさも落ち着き払っているかのようにそう言ったが、自分の周りに群がる泡粒の個数確認をするように目を忙しく動かしていた。 「あ、わ、私……」 「それにここは、監督生のための浴場だぞ」 はハーマイオニーが咎められたらどうしよう、と考えながら 「でもマルフォイ君―――」 と、言い訳をしようとマルフォイに目をやったときだった。 泡の中から見えるマルフォイの左肩に、傷痕があった。 よく見てみると、それは左肩から胸元にかけてすっと伸びている。 まるで鋭いひづめに引っかかれたような傷痕が……。 「それは―――?」 はやっとのことで声を絞り出した。 心臓の鳴る音が耳に聞こえる。 マルフォイはさっと傷痕を隠した。 「もしかして……マルフォイ君が―――」 「知らない!」 マルフォイの声が響いた。 人魚が興味深そうにこちらを向いた。 「僕は、何も覚えてない」 一言一言を噛み締めるかのようにマルフォイが言った。 はゆっくりと後退りして脱衣所のドアを開いた。 浴槽の中のマルフォイの姿がドアの隙間に消えていく。 「あら?もうバス・タイムは終わりなの?」 魔女は自分の後ろにある古時計を振り返ると、 「まだ十分も経っていないわ」 と不思議そうに言った。 そしてまた「私が若い頃は、そうね、体がフヤフヤにふやけてしまうまで入っていたものだわ」と喋り出した。 は呆然としたように畳まれた制服の前まで来ると、バスタオルを取ろうとした。 「あらあら、急かさないでちょうだい」 魔女は陽気に言うと、再び額縁の外へと消えていった。 しんと静まり返った脱衣所には、の肌に滑るシャツの音が小さく響く。 遠くの方で、ギシギシとドアが開く音がした。 マルフォイが浴室を出て行ったようだ。 「……マルフォイ君だった……」 ぽつり、とローズが言う。 「“忘れられない男の子”は、マルフォイ君―――」 様々な感情がの胸の中で激しく綯い交ぜられる。 ただ一つだけはっきりとするのは、“何も覚えていない”と言われたときの、どうしようもないぐらいの悲しさだけ。 (2007.9.16) |