「……あ、もうだめ」

 開封したダンボールに顔を突っ込むかたちで、そのまま事切れてしまった。中に詰められていた文庫本たちの匂いに実家を思い出し、さっそく恋しさが募りそうになる。生まれ育った家を出たのは、たった今朝のことなのに。
 ぐうう、と恨めしそうな音を鳴らすお腹を押さえながら、

「杏寿郎さーん……」

 そう呼べば、彼は洗面所から顔を出し、愉快そうに言った。

「どうした! 顔がダンボールに埋まっているぞ」
「私もう、お腹が空いて力が出ません」
「なるほど! ガス欠か!」

 今は手持ちがこれしかないが、と、どこからともなく取り出た魚肉ソーセージを私の口元に近づける。なんでこんなの持ってるんですか、と訊けば、作業しながら摘むのにちょうどいいと思ってな、と笑った。
 嘘だ。こんなちまっとした食べ物が、大食漢の彼の胃袋を鎮められるはずがない。彼には前々から、私を餌付けするのを好む節があった。小腹が空きやすい成長期まっただ中の私に、ポケットや懐から何かしらを取り出して与えてくれる。きっとこの魚肉ソーセージも、いつものそれ。ありがたいことではある。けれどなんだか、犬か子どもになったような気持ちになるのだ。現に、食べ物を差し出すときの彼は、少し面白がっているようにも見えた。
 ソーセージを見つめたまま、食べるか否か決めかねていると、彼は朗らかに言った。

「もうひと踏ん張りだ。洗濯機を取り付けて、その本を棚に入れたら食事に行こう」
「……今からじゃだめですか?」
「やれることは今やっておきたい!」

 スパルタ、とうめくように言うと、彼は私の耳元に顔を近づけて、

「今夜ゆっくりするためにな」

 と、いたずらに笑った。私は言葉を継げず、取り繕うようにして、目の前に差し出されたソーセージをぱくりと食むのだった。


 高校二年生に上がる前から、杏寿郎さんといわゆる結婚を前提にした交際を始めて、もう二年が経つ。卒業式が終わり、クラスメイトたちに別れを告げて学校を出たあの日が、もうはるか昔のことのように感じられる。
 ここへ越して来たのは、今朝のこと。見送りに来てくれた両親と新幹線のホームで「またね、またね」と何度も手を振り合うなかで、人目も憚らずに泣いてしまった。なにも外国に行くわけじゃないんだし、と笑いながらも涙を浮かべる母と名残惜しく別れたあと、一人乗り込んだ車内で、窓の外を流れていく景色に鼻を啜った。
 学びたいことがあった。けれど、そのためには県外にある大学へ行く必要があった。そうしたら杏寿郎さんと離れ離れになってしまう。だからこの思いは誰にも言わず胸に仕舞って、県内の大学へ進学しようと思っていた。
 それなのに、杏寿郎さんは見抜いた。諦めるべきではないと諭してくるから、そんなに私と離れたいんですか、と悲劇めいたことを言って泣きじゃくった。自分のやりたいことを押し殺してまで傍にいてほしいとは思わない。離れるからどうなるという不安もない。俺は君を信じているから。そうきっぱりと言われたとき、この関係を侮っていた自分を恥じた。
 進路の話をしてから、杏寿郎さんは、高校を卒業したら結婚しようとは言わなくなった。君がいいと思うタイミングで、と私の判断に委ねた。そんなタイミングわからない。進学で離れ離れになって、私がもしその土地で就職したら、結婚のタイミングはどんどん後ろ倒しになっていく気がする。それでもいいんだろうか。そもそも結婚って、なんだ。
 受験勉強でナーバスになるなか、婚姻制度を疑ってみたり、考えすぎて結婚という言葉にゲシュタルト崩壊を起こしてしまったり。そんな、側から見ても荒みきっていた私だったけれど、濁流の中でなんとか掴み取った合格の二文字には泣き崩れた。喜び、安堵、期待、そして不安。その夜の電話で合格したことを告げると、杏寿郎さんはひとしきり祝ってくれたあと、「じゃあ春からは一緒に暮らそう」と言った。俺も君と同じ街にある学校へ転職する、と。離れるからどうなるという不安はないし、君を信じていることに変わりはないが、ただ俺が君といたいから。君はどうだ、と。
 ――そんなの、ずるい。私はそう言いながら、わあっと声を上げて泣いた。ずいぶんと泣き虫になったものだと思う。それでも嬉しくて、そんな幸せがあっていいのかと怖くて、いろんな感情がない混ぜになって。
 泣き止まない私を案じて、杏寿郎さんは車を走らせて家の前まで来てくれた。付き合うことになってから、二人で出掛けるときに学校関係者から見られてはいけないからと、杏寿郎さんは運転免許を取った。この家までの一方通行ばかりで難儀な道のりも、すっかり覚えてしまったようだった。しゃくり上げる私を車内に誘って、遅くなるとご両親が心配するからと、近くのコンビニへ車を停めると、これからのことについて話し始めた。転職先の候補はすでにあって、前に話を貰っていた学校だから問題はないと思う。一番大事なのがご両親への挨拶で、新居探しはその後だ、と。夢のような話すぎて、そんなにうまく行きますかねと怖がっていると、杏寿郎さんは私の頭に手を置いて、ふっと顔を綻ばせた。


 そんな夢のような話は、ついに現実となった。
 車は業者に任せず自分で運ぶと言って、杏寿郎さんは一足先に新天地へと向かっていた。その後を追うようにして新幹線ホームへ降り立った私を、大きく手を振る杏寿郎さんが出迎えた。駆け寄ると、力いっぱいに抱きしめてくれた。もう人目を気にしなくていいな、と笑う顔に、めまいがしそうになった。はじまるんだ、今日から、ふたりの暮らしが。もう一生分の幸せを味わった気がして、体も心も満たされていた。――つもりだった。

「あ、もう……ほんとにだめ……」

 やっぱりこのお腹だけは満たされることを知らず、胃はついに最終形態を遂げようとしていた。体を内側から絞られるような感覚に襲われる。

「杏寿郎さーん……」

 ひねり出した細い声は、インターホンの音にかき消された。洗面所から出てきた杏寿郎さんは、そのまま玄関のドアを開けて飛び出して行く。
 はあ、とため息をついて本棚の前に横たわる。杏寿郎さんは「夜ゆっくり」と言っていた。これまで、キス以上のことに進んではいない。もちろん、外で一晩過ごしたことも。初めてだ、今夜が。途端に胸がばくばくと鳴りはじめ、先ほどまで騒がしかった胃は鳴りを潜めた。地震かと思うほどに、心臓の鼓動で体が揺れる。

「ひと休みするか」

 そんな声に体を起こすと、杏寿郎さんが片手に紙袋を提げて笑んでいた。

「引越しそばでもと思ったが、今の君にはこれがいいだろうと考え直してな!」
「この匂いは……よ、よもや」
「そのよもやだ!」

 バーンと効果音が付きそうな勢いで出てきたのは、実家の近くに本店がある、あのハンバーガー屋の包み紙。前に杏寿郎さんとも一緒に食べたことのある、私の愛してやまないハンバーガーだった。

「この街にもお店があったんですね! しかも、えっ、デリバリー圏内? どうしよう、どうしよう杏寿郎さん、私――」

 なんでだろう。思い出が染みついた本や家具を持って来ても、杏寿郎さんといても、やっぱりまだまだ生まれ育った街が恋しくて。このハンバーガーが、まるであの街から付いて来てくれたように思えて、涙腺がゆるんでしまった。今が幸せなはずなのに。恥ずかしいほどに、貪欲な私。

「ゆっくり慣れていこう。一緒に」

 心を見透かされているのかもしれない。杏寿郎さんは床に座る私と目線を合わせるようにしてしゃがみ、頭を撫でてくれた。
 はい、と涙声で頷き、ハンバーガーを手に取る。テーブルはまた今度一緒に買いに行こうと話していたので、手近にあったダンボールを引き寄せると、「そこで食べるのか?」と杏寿郎さんは目を丸くした。他にどこかありますか、と問い返せば、確かにないなと口角を上げた。せめてこれをと、床に座る私へクッションを差し出す。体が冷えるから、と。杏寿郎さんも隣に腰を下ろすと、ハンバーガーを頬張る私の顔を覗き込んだ。

「これを食べたら風呂に入るか」
「……もう片付けはいいんですか?」
「残りはまた明日にしよう。初日から無理をさせてすまなかった」

 申し訳なさそうに眉を下げた杏寿郎さんに、私は頭を横に振る。そうして、ふと思い出したように言う。

「お風呂に入るって……あの、一緒に?」

 杏寿郎さんが面喰らったように目を開いたので、「なんでもないです」と言葉を回収しようとした。けれど彼の口元がゆるんだので、ああもう遅かった、と視線を泳がせる。

「俺は構わないが」
「だ、だめです!」
「だめなのか? でも昔、刀鍛冶の里で――」

 刀鍛冶の「か」が聞こえたのと同時に、体をぶつけるようにして杏寿郎さんの口を押さえる。しかし勢い余ったのか、そのまま彼を押し倒してしまった。私の力が強すぎたわけじゃない。剣道一筋二十数年の杏寿郎さんが、こんなことで倒れるはずがない。これは――。

「……わざと倒れましたね」
「どうだろうな」

 片方の口角だけを引き上げた杏寿郎さんは、私の手にかろうじて握られていたハンバーガーをそっと外すと、すぐそばにあったダンボール箱の上へと載せた。そうして両腕を回し、ぎゅっと抱き寄せてくる。すると心地よい体温にほぐされたのか、今日の緊張や疲れがどっとあふれ出してくる。空腹の次は眠気が襲ってくるなんて、とことん貪欲に生きるこの体。
 瞼が重くなりはじめたとき、ハッと我に返り、体をもぞもぞと動かす。

「あの、もういいですよ。重たいですよね?」
「重さは全く感じないが、気になるならこうしよう」

 視界がぐるりと反転して、ああっと情けない声を漏らしてしまう。顔をくすぐる赤い毛先。見上げれば、焔色の瞳がすぐそこにあった。頭の下には杏寿郎さんの左手が添えられ、もう片方の手は、頬へと当てられる。漂う空気が湿り気を帯びはじめたのを、肌で感じる。
 ゆっくりと重なる唇。その柔らかさに、体がぴくりと反応する。わずかに空いた隙間から、舌がするりと入ってくる。このキスにはまだ慣れていなかった。少し引いた私の頭を、杏寿郎さんは離さないとばかりに押し戻す。

「先生」

 唇が離れた隙を狙ってそう呼べば、杏寿郎さんは眉根を寄せて、

「それはずるいぞ」

 と、少し恨めしそうに言った。その一線を強引に越えようとしたことはないけれど、踏みそうになったことなら何度かある。そんなときに「先生」と呼べば、彼の中で急ブレーキが掛かるのだということを私は知っていた。

「三月末までは一応、高校生みたいなので。ご存じだとは思いますが」

 む、と唸るように喉を鳴らすと、杏寿郎さんは私の隣にごろりと横たわった。そうして、何かを数えるように指を折る。しかし途中で諦めたように息を吐くと、こちらへ顔を向けて、

「焦ることもないな。先は長い」

 どこか眩しそうに目を細めると、再び私の頬へと指を滑らせる。

「これからは毎日一緒だ」

 一緒。毎日、一緒。そんなことを言う彼がとてもとても愛らしく見えて、私は寝返りを打つように横を向くと、彼の体へと腕を回し、ありったけの力を込めて抱きしめた。
 結局新居での初めての夜は、そのまま床の上で身を寄せ合って眠ってしまうことになるのだが、体が凝るとか冷えるとかそんな先のあれこれなんて考えられないほどに、ここにある確かな幸せを噛みしめるだけで今はもう、手一杯だった。



- 完 -



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