Ending.初恋



 大きく息を吸い、つま先立ちで小窓を覗く。夕焼け色に染まる社会科準備室の隅には、机に向かう背中が見えた。

「……失礼します」

 こちらへ振り返った煉獄先生は、まるで信じられないものを見るかのように、目を大きく開いていた。

「先生に、お伝えしたいことがあって」

 遠慮がちに言えば、煉獄先生は眉間をかすかに寄せる。

「飴のことか? それなら気にしなくていい。あれは千寿郎に貰ったもので、喉が痛むからポケットへ忍ばせていたというわけでは――」

 私が首を横に振ると、先生は口をつぐんだ。
 ゆっくりと足を進めて、先生の脇を通りすぎ、窓際へと向かう。できるだけ距離を取って、話がしたかった。先生の顔を間近で見てしまうと、感情が堰を切って流れ出してきそうだったから。
 空が赤い。沈みゆく夕陽を目に映しながら、言葉を押し出す。

「先生。私は……」

 お前は何を恐れてる。あの日、宇髄先生に言われたことが忘れられなかった。心の中に渦巻いていたものが恐れなのだと、宇髄先生の言葉で気づいた。けれどそのときは、何に恐れているのか自分でも分からなかった。分かろうとしなかった。
 でも、今ならはっきりと分かる。

「初めて会ったときから、どうしてか、先生はいつかいなくなってしまう人だと思っていたんです。だから、関わるのが怖かった。深く知ってしまうと、別れがつらくなるから」

 近くなるほど遠ざけたくなる。それでも、去って行く煉獄先生の背を見るたびに、行かないでと願う自分がいた。矛盾しているのかもしれない。でも、遠くてもそこに在ることと、形もなく消えてしまうことは、別物だ。怖かった。先生がいなくなってしまったらと思うと、ひたすらに怖かった。

「煉獄先生は私にとって、失うのが怖い存在なんです。こんな感覚は、初めてで……」

 声が震える。体の中で、何かがうごめいている。
 言葉が詰まるのを、胸を叩いて押し出そうとしていると、ふっと影が落ちてきた。見上げれば、煉獄先生が唇を固く結んで立っていた。何かをこらえるような表情で、眉間には皺を刻んでいる。

「前世のことは思い出せませんが、体が叫ぶんです。もう失いたくないって」

 震えはじめた指先を鎮めるように、拳を握る。見おろす先生の瞳は、揺れているように思えた。

「俺は君に何もしてあげられなかった。昔も、今も」

 煉獄先生は視線を逸らし、窓の外へ顔を向けた。先生の赤い毛先が、空の色に溶ける。

「君は、もう過去にとらわれる必要はない。まだ若いんだ。これから先、心から慕える相手に――」
「とらわれてなんていません」

 先生の言葉を打ち消すように言うと、堰き止めていたものが押し寄せてくるのを感じた。
 ――もう、無理はしない。たとえ怖くても、見て見ぬふりはしない。今この手を掴まなければ、私はきっと後悔する。

「何もしてあげられなかったなんて、言わないでください。先生はいつも、前を向かせてくれます。今の私には、それだけで十分なんです」

 声も、指も、もう震えてはいなかった。
 腕を伸ばし、煉獄先生の手に触れる。すると骨張った手は、ぴくりと動いた。その指先をきゅっと握ると、先生のぬくもりが手のひらへと溶けてくる。

「初恋です。これが、きっと」

 途端に、握りしめていた手を引かれる。先生の胸に閉じ込められるのは、もう何度目だろう。離れようともがくことはなく、その広い背に腕を回した。
 耳に聴こえる鼓動が、心地良い。全身を包んでいく先生の熱が、胸の奥底まで溶かしていく。
 何度も私の名前を呼ぶ先生に、「煉獄先生」と返そうとしたとき、頭がずきんと疼いた。

「大丈夫か」

 聴こえる。視える。あの日々の記憶が、すぐそこに在る。
 湖畔の木の下で鳥を見送ったこと、東雲色の空の下で、君のそばにいたいと抱きしめてくれたこと、肩を並べて湯に浸かり、取り留めもなく話し続けたこと。雨降る神社での、最初で最後の口づけ。
 ああ、そうだ、この人は――。

「――杏寿郎、さん……」

 まだ輪郭はおぼろげだけれど、思い出した。箱の奥底に仕舞い込んでいた、遠い遠いあの日のこと。
 ――これが、魂の記憶。

「杏寿郎さん」

 初めて恋をした人。添い遂げたいと心から願った人。後生、忘れられなかった人。いつかまた会えたなら、今度こそ一緒に生きると、誓った人。

「私、生きました。杏寿郎さんのいない世で、あなたの倍は、生きました」

 大きく開いた彼の瞳から、涙がつうっと伝い落ちた。私はその涙を指で掬い、ぬくもりを確かめるように頬へと触れた。

「見つけてくださって、ありがとうございます。私も、もうあなたを見落としません。だから、お願い。いなくならないで」

 杏寿郎さんは私の手を取ると、やさしく強く握る。まっすぐに向けられた目に、吸い込まれそうだと思った。
 いつだって前だけを向いていたこの焔色の瞳が、光を宿して今、ここに在る。

「離れない。約束する」

 降り注いだ言葉に、涙とともに笑みがこぼれる。杏寿郎さんは、そんな泣き笑う私の体を強く抱きしめた。
 そうして、どちらからともなく、吸い寄せられるようにして唇を重ねた。

「もう一度、俺を呼んでくれないか」

 どこまでも深く沁み渡っていく熱は、恐れも憂いも哀しみも、すべてをやさしく溶かしていく。

「杏寿郎さん」

 杏寿郎さんは、噛みしめるように笑った。私もその唇に指をそっと当て、杏寿郎さん、と何度も繰り返した。そうして、長く離れていた刻を埋めるように、再び強く抱き合う。

 ああ。あのころ願ったものが、この腕の中にある。今度こそきっと、このぬくもりと生きていく。






 - 完 -


(2022.01.28)



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