19.もういいよ
――追いかけたのは、弁明するためじゃない。言わなくちゃいけないことがあると、思ったから。
「玄弥」
もう何度目かの呼び掛けにも、玄弥は変わらず振り返ることも、立ち止まることもなかった。ただ、いつもの道をひた歩いて行く。そんな彼から少し距離を置いたところで、がその背に再び声を掛ける。
「待って、玄弥」
玄弥はなんの反応も示さない。そこでは立ち止まった。彼から細く長く伸びる影に目を落とし、拳にぐっと力を込める。ふと顔を上げると、玄弥が立ち止まってこちらを見ていた。どこか遠くを見るような目だった。
「玄弥に話があるの」
玄弥は表情を変えず、踵を返して再び歩きはじめる。そんな彼の後を追い、もまた足を進めた。
商店街を抜け、ゆるやかな坂道を登ると、そこには大きな公園があった。学校帰りの子どもたちが、ランドセルをベンチに置いて遊んでいる。こだまする笑い声を耳にしながら、はひたすらに玄弥の後を追う。学校を出た時から、そのペースが変わることはなかった。互いに走ることもなく、一定の距離を保ちながら進んでいく。
マンションの前まで来ると、はふと足を止めた。玄関ロビーに入った玄弥が、ぱっかりと口を開けた自動ドアの向こうへと消えていったのだ。
また、明日。諦めたようにため息をつき、マンションに背を向けたときだった。ドアが開く音がして振り返る。そこでは玄弥が、ポケットに手を突っ込んだままこちらを見つめていた。
――この匂い。
鍵を開けて自宅へと入る玄弥。遠慮がちにその後に続いたは、玄関に足を踏み入れた途端、鼻をくすぐる香りに目を開く。何度か間近で感じたことのある、この匂いは。
――そうだった。分かりきっていたはずなのに、どうして忘れてしまってたんだろう。ここは、不死川先生の家だ。
「あ、あの、私……」
兄弟で同居しているからとはいえ、教師の自宅へのこのこと上がってしまった。悔やみつつ玄弥へと視線を向けると、彼は廊下沿いにあるドアの一つを開け、中へと入って行く。その間際、視線をちらりとへ向けた。
「玄弥、あのね――」
「聞こえねぇ」
部屋の中からぶっきらぼうに返ってきた言葉に、やっと口をきいてくれたという安堵と、言うなら今しかないという覚悟が湧いた。
「お邪魔します」と小声で言うと、靴を脱ぎ、廊下を進む。玄弥の部屋へと顔を覗かせると、彼は制服を脱いでいるところだった。は乱雑に床へ置かれた服や本を踏まないように進み、玄弥のすぐ後ろに立つ。そうして、ゆっくりと口を開いた。
「私、玄弥の優しさを利用した。煉獄先生から、結婚を前提に付き合ってほしいって言われて……それで先生から逃げるために、彼氏のフリをしてって――玄弥に言った」
シャツのボタンを外す玄弥の手が止まる。はその背に、今にも震え出しそうな声で「ごめん」と囁くように言った。
「私、気づいたの。泣けないって。玄弥のことが好きだって泣いたあの子みたいには……」
玄弥は再び、ボタンに手を掛ける。
「気持ちがどこに在るのか、自分でも分からないの。こんな曖昧な気持ちのままじゃ、きっと玄弥のことも、もっと傷つけてしまう。だから……友達に、戻れないかな」
の声は、震えていた。
「勝手なことばっかり言って、ごめん」
玄弥の脱いだシャツが床に落ちるのと、の視界が揺れるのは、ほとんど同時だった。声を出す間もなく、腕や背に広がった衝撃に目を閉じる。次に瞼を開けたとき、そこには、眉根に深い皺を刻む玄弥がいた。その向こうには、白い天井。そうしてようやく、ベッドへ押し倒されたのだと気づくのだった。
「ほんとにお前は勝手なやつだよ。俺は? 俺の気持ちとか、そういうの考えて言ってんのかよ」
手首をベッドへ縫いつけるように押さえ込まれ、下半身は玄弥の両脚に挟まれている。身を捩っても、力は少しも緩まない。むしろ、抵抗するごとに拘束する力は増していく。
「げん――」
言葉を塞ぐかのように、唇が押し当てられる。わずかに開いた隙間から舌が差し込まれ、くぐもった声が漏れてしまう。逃れるようにして顔を背ければ、玄弥の唇はそのまま頬へ、顎へと下りていき、首にたどり着く。そこに走ったのは、針で刺すような、刹那の痛み。
「ねえ、ちょ、っと……」
ふと顔を上げた玄弥は、押さえ付けていたの手首を引き上げる。
「玄弥ってば」
手首をの頭上で交差させるようにひとまとめにすると、それを左手で押さえ付けた。空いた右手はのシャツへと伸び、ボタンを一つずつ外していく。
「――や、だ」
こぼれた言葉に、玄弥は手を止めた。の目からは涙があふれ出し、こめかみの方へと伝い落ちている。
「お願い……やめて、玄弥……」
我に返ったようにして息を漏らした玄弥は、拘束していたの手を解放する。するとは勢いをつけて起き上がり、その拍子に互いの額がぶつかる。視界に星が散るほどの衝撃だったが、はふらつく足でベッドから離れる。
「!」
声が追ってくるが、それを振り解くように部屋を飛び出す。
廊下へ出てすぐだった。玄関ドアが開き、中へと入って来た実弥と、視線がまっすぐに合ったのだ。はだけた制服に、紅潮した頬、涙に濡れる目。実弥はそんなの姿に目を開く。しかし、その後ろから玄弥が現れると、ギッと目つきを鋭くさせた。
「何をやってんだァ、テメェは」
は実弥の方へと踏み出す。が、その腕を玄弥が掴んだ。
「うるせぇな。兄貴は引っ込んでろよ」
骨まで軋むのではないかと思うほどの力に、の顔が歪む。実弥を睨み続ける玄弥は、痛みに唇を噛むに気づかない。
実弥は荷物を放るように置くと、玄弥の手首を掴み、ぐっと引き上げた。その力に負け、玄弥の手はの腕から離れる。
「おい、見えねェのか。泣いてんだろうがァ」
は腕をさすりながら、声を押し殺して泣いていた。掴まれていた部分には、手の痕が残っている。玄弥はそれに気づくと、「あ……」と声を漏らした。
「――」
「っ、や……!」
玄弥が手を伸ばすと、はびくりと肩を震わせ、後退りした。
「――なん、なんだよ」
奥歯を噛み締め、拳を固く握る玄弥。実弥はそんな玄弥の姿に、何かを察したようにしての手を引いた。そうして傍らのドアを開けると、その中へとを押し入れた。
「鍵掛けとけ」
部屋へと入れられたは、ドアの向こうから掛けられた言葉に、戸惑ったように視線を泳がせる。
――鍵、鍵……。
すぐ手元にある鍵に気づかないほどに、気が動転していた。
「何してんだよ兄貴! なあ、!」
ドアを叩く音に、再び肩を震わせる。そうしてようやくドアノブのすぐ上にある鍵を回すと、部屋の奥へと逃げた。
ベッドの淵まで来ると、力なく床にへたり込み、身を小さくさせる。ドアの外で聞こえていた玄弥の声は、次第に遠のいていった。
「離せよ!」
実弥は玄弥の腕を掴み、リビングのドアを開ける。そうして中へと入った途端、玄弥は腕を振り解くと、血走った目で兄を睨んだ。
「落ち着け」
その言葉に、玄弥は目を大きく開く。しかしすぐに力を抜き、ハッと笑った。
「余裕なんだな、兄貴は」
「……あァ?」
「なんで黙ってたんだよ」
語気を強めた玄弥に、実弥は目を細める。
「って、前世じゃ兄貴の――兄貴の……奥さんだったんだろ?」
瞳孔を開いた実弥に、玄弥は拳を握った。
「笑ってたのかよ? 俺や煉獄先生があいつのこと好きだって分かってて、俺らが迷ったり悩んだりしてんの見て、ほくそ笑んでたのかよ」
「何言って――」
「最後は! 最後は必ず自分のところに戻ってくるって、そう余裕ぶっこいてんだろ!」
「そんなんじゃねェ!」
実弥は玄弥の胸ぐらを掴み上げる。その拍子に、玄弥の肌着はビリリと裂けた。息を荒げる実弥だったが、噛み締めた唇を震わせる玄弥に気づくと、手の力をふっと抜いた。
「俺はただ、お前には幸せになってほしくて……前世であんな最期を迎えちまったお前には、今世で誰よりも――」
「だから身を引いてやるってわけか? なんだよそれ。兄貴だってのこと放っておけねぇんだろ? 好き、なんだろ? だから彼女もつくらず、ずっとのこと待って――」
「違う。俺はあいつのことなんざ、なんとも思っちゃいねェ」
「……やめろよ」
胸元に当てられた実弥の手を払うようにして、玄弥は力なく言った。
「もうやめてくれ。兄貴は昔からそうだ。俺が欲しいと思ったものは、たとえ自分が欲しくても我慢して、興味ないフリして、俺に譲るんだ。……やだよ、俺。俺だって兄貴には幸せになってほしいんだ。兄貴の犠牲の上に成り立つ幸せなんて、俺は望んでない」
望んでないんだよ。
そこまで言うと、玄弥はうなだれた。
「もういいよ、兄ちゃん……」
実弥は唇をきつく噛み締め、そんな弟をただ、見つめていた。
はドアを少し開けて外の様子をうかがうが、物音に驚き、慌てて閉める。そうしてベッドに背をもたれ、膝を抱えた。
――不死川先生の部屋、きちんと整えられてるなあ。
机上にはノートパソコンと電灯、ペン立てぐらいしか置かれていない。小さな本棚には、数学や教育関連の本が並ぶ。
――無駄なものは置かない主義なのかな。もしくはあの大きなクローゼットに全部詰め込んでるとか。
そんなことを思いながら走らせていた視線が、ふと止まる。枕元に置かれた写真立て。そこには、家族写真が飾られていた。一番下の弟の誕生日に撮ったのか、みんなでケーキを囲んでいる。
もっとよく見たい。そんな好奇心にくすぐられたは、「ちょっと失礼します」と断ると腕を伸ばした。そうして写真立てを手に取ったとき、一枚の写真が滑り落ちてきた。そこには、ヨーヨーや綿あめを片手に笑う不死川家の兄弟たちに挟まれ、焼きそばを手に気恥ずかしそうに微笑む自分がいた。
「これって……」
思い返せば、そうだった。あの夏祭りの日、「ちゃんと撮ってよ」と弟にせがまれた実弥が、渋々といった様子で撮影をしていた。あの時の写真が、こんなところに。
写真の玄弥は、にっかりと歯を見せて笑っている。は写真を戻すと、膨れ上がった胸を鎮めるように、細く長い息を吐いた。そうして、ベッドにぽすりと頭を乗せる。なぜだかとても懐かしいにおいがした。
――どこかで、嗅いだことがある。
再び、湧き起こる好奇心に負てしまった。「すみません」と呟くと、ゆっくりとベッドに上がり、吸い寄せられるように枕へ顔を埋めた。
――気持ちが落ち着く。安心する。
なんでだろう、どこで嗅いだんだろう。記憶をたどるも、なかなか思い出せない。大きく息を吸う。記憶をめぐらせるどころか、頭の中がぼんやりとしてきた。瞼が、体が重くなっていき、ベッドに埋もれていくように思えた――。
ノックをしても返事がない。取っ手を下げると、ドアは呆気なく開いた。
「おい、鍵――」
実弥は言葉を切る。ベッドの上では、が体を丸めて眠っていた。
ドアを閉め、音を立てないようゆっくり近寄る。そしてその寝顔を覗き込むと、ふっと笑った。
「なァに呑気に寝てやがる。こっちの気も知らねェでよ」
ベッドへ腰掛けると、スプリングが軋んだ。まずい、と息を殺すが、は少しも寝息を乱さなかった。実弥は頬を緩ませると、体を前へと倒す。
「俺が死んだ後、大変だったよなァ。一人でガキ抱えて、震災も戦争も乗り越えたんだよな」
少し赤らんだ、の額。そこへ自らの額をそっと合わせ、息を吐くように言った。
「苦労、かけたなァ」
――会いたかった、。
ずっと探してた。会いたくて、たまらなかった。
でも俺のことは、もういいから。
(2022.01.11)
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