18.許して
仮病を使ったのは初めてだった。具合が悪いふりをする私を、母は見抜いていたかもしれない。それでも気力が湧かないのは本当で、一日中ベッドに潜っていた。
眠ってしまうとまたあの夢を見るかもしれない。はっきりとは覚えていないけれど、かなしい、かなしい夢だった。もう二度と見たくないと本能的にそう思い、眠気が襲ってもなんとか瞼が閉じないよう、指で擦り続けた。そのせいで目の周りには掻きむしったような痕が残ってしまい、仕事を終えて帰宅した母にはひどく心配された。
――煉獄先生は、本当にいなくなるんだろうか。
朝、教室に向かう途中で煉獄先生を見かけた。目が合っても、いつものように話しかけてくることはなかった。ただ口角をぎゅっと上げただけで、そのまま廊下の向こうへと消えていってしまった。
文化祭の日に聞いた、あの話。煉獄先生は本当に、この学園を離れるのだろうか。だとしたら、あと四カ月しか残されていない。――残されて、ない?
「なんでそんなこと……」
どうして「残されていない」なんて思ってしまったんだろう。
変なの、と独りごちながら教室へと入ると、クラスメイトたちが「風邪もう大丈夫なの?」と口々に話しかけてきた。そうしているうちに、だんだんと煉獄先生への思いも薄らいでいくのを感じた。教師と生徒、それだけの関係。どのみち私も一生この街にいるとも限らない。出会えば別れるなんて、そんなの誰しもが経験してる、当たり前のことだ。
教室が揚げ物やソースの香りで満たされる中、椅子に座ったまま時計を見上げた。昼休みがはじまって、もう二十分が過ぎようとしている。いつもなら、玄弥とお昼を食べている時間だった。けれど玄弥は姿を見せない。教室にも探しに行った。そこに玄弥はいなかったし、誰も彼がどこへ行ったのか知らなかった。
意地を張るように待ち続けたけれど、竈門くんに「お昼食べないの?」と三回聞かれてやっと思い立った。もう待ってても仕方ない。そうして購買へ向かう途中、中庭の木の下に影が揺れているのが見えた。
――玄弥。
やっと見つけた。あんなところで何してるの、お昼はもう先に食べちゃったの。そんな思いをぐるぐると巡らせながら、玄弥の背中をめがけ、上履きのまま中庭へ出た。そうして、「玄弥」と呼びかけようとした時。
「好き。大好き」
まるで金縛りにあったかのように、その場で立ち止まってしまう。よく見れば、玄弥の背の向こうに二つ結びの女子がいた。それはこの間、「玄弥くんを裏切るなら別れて」と言ってきた、三人組の一人だった。その子が、顔を覆って泣いている。
「ずっと好きだったよ、玄弥くんのこと」
顔を上げ、そう振り絞るように言った彼女の目は、必死に玄弥を捉えていた。
涙が次から次へとこぼれ落ちている。きれいな涙だと思った。けれど彼女の紡ぐ「好き」という言葉が、私の頭や胸のうちをかき乱す。
――私は、誰かのことを好きだと言って泣けない。玄弥には、ああやってまっすぐに思い続けてくれる子の方が、いいのかもしれない。
そう思うと、胸の奥がぎゅっと引かれるような感覚に襲われた。
「ごめん。俺、が好きだ」
風に乗って届いた言葉に、息が止まる。
「どうして……? だってあの子、玄弥くんのこと――」
「俺も」
玄弥がどんな表情をしているのかは分からない。だから、ひとつも揺らぐことのない玄弥の後ろ背を、ただ見つめるしかなかった。
「俺もずっと好きだったんだ。あいつのこと」
――部活を休みすぎて、部長から退部を勧められるのも時間の問題かもしれない。
午後の授業中も、昼休みに見た玄弥とあの子の姿が瞼に焼きついて離れなかった。玄弥と顔を合わせづらくて、部活にも出ずに、ただ校内中を歩き回った。今日は母が早く帰って来る日なので、この時間に帰宅すれば部活はどうしたのだと責められてしまう。いつものファーストフード店に行けば、玄弥の顔がちらついてしまう。教室では帰宅部の女子たちがたむろしていて居心地が悪い。だから行き場がなく、あてもなく歩き続け、気づけば校舎西側の四階、社会科準備室の前まで来ていた。
そこで、ふと思う。なんでここに来ちゃったんだろう。
廊下の窓から中庭へと目をやる。好きだ。そんな玄弥の言葉が、耳の奥で何度も繰り返し響く。
――私は返せてないのに。玄弥の気持ちに何ひとつ、応えられていないのに。
「どうした」
心臓がどくんと鳴る。振り返ると、そこには首を傾げた煉獄先生が立っていた。ちょうど社会科準備室から出てきたところだったようで、ドアに片手を当てたままだった。室内から流れ出てくるあたたかな空気に、冷えた鼻先がゆるんでいく。
「体調はもう平気か?」
何も返せずにいると、先生はうっすらと笑った。
「廊下は寒いだろう」
そうして、道を開けるようにしてドア横へとずれると、穏やかに言った。
「風邪がぶり返してしまうぞ。中へ入るといい。お茶を淹れよう」
長机の端に座り、幕末の志士たちのイラストが描かれた湯呑みを眺める。社会科準備室へと入った私に、煉獄先生はほうじ茶を出してくれた。こうばしい香りが室内に漂う中、私はしばらくお茶に手をつけず、ただじっと湯呑みを見つめるだけだった。
「ほうじ茶は苦手だったか?」
先生は物を書く手を止め、ふと顔を上げるとそう尋ねた。小テストの採点をしているのか、赤ペンを握っている。
「……いえ、好きです」
「そうか。好きか」
それは良かった。呟くように言った先生は、再び目線を下げ、ペンを走らせる。
煉獄先生が返却する答案用紙にはいつも、丸バツや点数だけではなく、コメントが添えられている。高い点数には労いの言葉を、低い点数には激励の言葉を。そんなことをするのは煉獄先生ぐらいで、「本当に生徒思いの人だよね」と、前に竈門くんが話していた。
何を考えているのかよく分からない人だと思っていた。それは今でも変わらない。でも、教師としては本当に、良い先生だと思う。そんな面倒見の良い煉獄先生だから、引く手あまたなのは頷ける。
「――先生は」
言葉が口を突いて出てしまった。あっ、と思ったときにはもう遅く、煉獄先生は顔を上げてこちらを見た。先を促すようなその視線に負けて、私は言葉を続ける。
「……この学校から、いなくなるんですか?」
先生は驚いた様子で、目を大きく開いた。その姿に、ああやっぱり千寿郎くんの話していたことは本当だったんだな、と実感する。
「誰からそれを」
「弟さんです。他県の高校から誘われている、と」
ひと呼吸置いたのち、そうか、と目を伏せる。私も湯呑みに視線を落とす。沈黙が長く感じた。
「まだ決めかねてはいるが」
私はその言葉に顔を上げる。けれど煉獄先生は、どこか難しい表情を浮かべ、答案用紙に目を落としたまま続けた。
「今後のことを冷静に考えるためにも、別の環境に身を置くのは良い選択なのかもしれないと思っている」
「……今後の、こと?」
先生は、ふっと笑った。それはどこか自嘲的な笑みだった。煉獄先生の何を知っているわけでもない。けれどこの人には、そんな笑い方は似合わないと思った。
「俺がここにいれば、君を戸惑わせてしまうだろう」
私は目を細め、先生の顔を見据える。けれど、先生はいまだに答案用紙へと目を落としたままで、視線が交わることはなかった。
「前世とはまるで状況が違うんだ。幼少期に亡くした母も、今世では持病の一つもなく健在で、父は塞ぎ込むことなく仕事に精を出し、千寿郎も、何にもとらわれることなく日々を過ごしている。すべて満たされているはずなのに、それでも何かが足りないと思っていた。――だから君を見つけたとき、空いた穴が塞がったように感じた。探していたものがやっと見つかった。そう思って、舞い上がっていたんだ」
窓から差す西陽が、煉獄先生を照らす。その髪色も相まってか、先生が夕焼けに溶けていってしまうように見えた。
――消えてしまう。また、いってしまう。
「前世の俺は、君に悲しみを植え付けてしまった。今は戸惑いと恐怖しか与えていない。不死川の弟は君を癒し、不死川は君と分かち合って生きた。それなのに俺は――」
先生は言葉を切り、顔を上げた。赤い瞳が揺らめいている。そこで、気づいた。今自分が、先生の目の前に立っていることに。体が勝手に動いてしまった。煉獄先生が、消えてしまいそうで。だから、引き止めたくて。
「せんせ――」
「俺を」
私の言葉を封じるように、先生は言った。
「自分の願望を叶えることしか頭になかった俺を、許してほしい」
そうして立ち上がると、私を見おろし、ふっと笑った。またあの、似合わない笑い方で。
「君はどうか、幸せになってくれ」
夕陽が差す。煉獄先生は目を細める。そうして一歩下がった先生の腕を、私は掴んだ。先生の腕時計が手のひらに刺さる。少し痛むのは、それだけ私が強くこの腕を掴んでいるからだろう。
言葉が出ない。ただ煉獄先生を見上げて、唇を噛み締め、首を横に振ることしかできない。先生はそんな私の手をやさしく取り、腕から離した。
赤い瞳には、どんな気持ちが込められているのか。束の間見合ったけれど、先生の気持ちも、自分の気持ちも、何も見えてこなかった。それはきっと、私の目が曇っているから。まだ晴れない霞を携えているから。
「すまない」
そんな言葉が耳に届くと同時に、体が揺れる。先生に腕を引かれ、その胸の中に閉じ込められたのだった。
「最後に、少しだけこうさせてくれないか」
耳元で囁く低い声。全身を包むぬくもり。目を閉じると、瞼に浮かぶのは、夢で見たあの背中。血溜まりの中に佇む、背中。
「」
その声に誘われるように、手が動く。煉獄先生の背に手を回そうと、ゆっくりと動いていく。
そのとき、視界の隅で影が揺れた。横目を向けると、ドアの小窓からこちらを覗く人と視線が合う――。
「……げん、や」
(2022.01.04)
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