17.愛おしい



 ――始まりは、すべてが終わった後だった。

 鬼舞辻との決戦後、負傷した隊士たちはみな蝶屋敷へと運ばれた。中でも特に状態が悪かったのが、竈門炭治郎と冨岡、俺の三人だった。
 目が覚めたとき、悔しさが込み上げて仕方なかった。まだこの体に感覚があること、腕の中で消えていったもの。どうして俺が生きてる。なんで玄弥が死ななきゃならなかった。そんな思いに、ただただ天井を見つめながら奥歯を噛み締めていると、

「力を抜いてください。お体に障ります」

 不意に伸びてきた手は、固く握られていた俺の拳をやさしく解いた。――それが、だった。
 あいつは隠として、長く意識を失っていた俺たちの世話を手伝っていたらしい。もうずっと前からそこにいたかのように、丸椅子に座り、寝台に横たわる俺をまっすぐ見据えていた。
 どこかで見た顔だなと思った。しかし記憶をたどる余裕は、まだなかった。

「食事をお持ちします」

 そうして静かに席を立つので「いらねェ」と返すと、あいつは何も聞こえなかったように部屋を後にした。
 世話を焼かれるのは御免だ。そう思い体を起こそうとするが、腹の傷が痛んで身動きが取れない。顔だけを左右に振って辺りを見る。個室の部屋には自分以外に誰もいない。ただ、西陽だけが降り注ぐ。身を溶かすほどの夕陽に目を細めて、

「……クソがァ」

 もう鬼はいない。陽が落ちるのを恐れることも、憎むこともない。何もない。なくなった。失くしてしまった。もう何も、ない――。


 その日も、次の日も、俺は食事を拒んだ。はじめこそは、目覚めたばかりだから仕方ないと思っていたのか、いらないと断る俺の言葉を黙って受け止めていただったが、三日も経つと様子が変わった。

「食べてください。死んでしまいますよ」

 そう言って、匙を口に突っ込んできたのだ。

「ッ、テメェ……!」
「大声はだめです! お腹の傷に障りますので!」
「ふざけんじゃねェぞ! いらねえっつってん――」

 暴れたせいで腹に痛みが走る。そんな一瞬の隙を狙って、あいつは再び匙を口にねじ込み、そのまま唇が開かないように手で押さえた。息ができず、粥が気管に入りそうになる。殺す気かよ、なんて女だ。そう思いながら睨み上げるも、

「はい、そのまま飲み込んでくださいね」

 涼しい顔でそう言うのだった。



 無茶苦茶なやつ。そんな印象を抱えたままだったが、蝶屋敷での療養期間を終える頃、見てしまった。庭の桜を見上げて、静かに涙を流す姿を。
 失くしてしまったものが、こいつにもあるのだ。そう知ったから、蝶屋敷を出て家へと戻る俺に「これからもお手伝いに伺います」と言い張るあいつを、突き放すことはできなかった。
 その言葉通り、あいつは頻繁にうちへ顔を出した。俺なんかに構うなよと何度も言ったが、聞かなかった。「そばにいます」と食い下がった。
 痣の寿命までの数年。俺はもういっそ、このまま何も持たずにその時を待つほうが楽だと思い始めてた。だから、失くしてもなお何かを抱えることを諦めようとしないあいつが、愚かしく、恐ろしくも見えた――。

「もう鬼殺隊も解散したんだァ。お前も俺の世話なんざ焼いてねェで、旦那でも見つけて普通に生きろォ」

 するとあいつは、茶を淹れる手を止め、ぼそりと呟くように言った。

「……普通って、なんなんでしょうね」

 もう忘れちゃいました、と。
 確かにそうだ。鬼なんか知らなかった、ずっと遠いあの日々。母がいて、弟や妹たちがいる暮らし。貧しくも笑いとぬくもりのあったあの頃が普通なら、普通ではない日々の方が長かった。
 鬼殺隊に身を置いた者の大半がそうだろう。ずっと、血生臭い夜の闇の中にいたんだ。ただ一人の人間として生きた普通の日々。それを忘れ去るには充分なほど、長い間。

「一人にしてくれ」

 顔を覆ってそう言うと、あいつは物音も立てずに部屋を出た。そうして玄関口から姿を現せば、縁側の俺に頭を下げ、外門をくぐって消えていった。
 いつの間にか傍らに置かれていた湯呑みからは、白い湯気がゆらゆらと立ちのぼっている。それに唇を噛み、庭へと目を移す。
 涙が、勝手に転び出た。あの日あの時、あいつらがいた場所。玄弥がいた場所。この庭で打ち込み稽古をしたのが、遥か昔のように感じる。もういない。死んじまった。何一つ護れず、俺は――。


 陽が一番高く昇る前。あいつが「こんにちは」と玄関の戸を叩くのは、いつもそのぐらいの頃だった。けれどその日は、陽が傾いても姿を見せなかった。
 いつもあるものが、ない。ヒグラシが鳴く中、縁側で胡座をかき、夕焼け空を見上げながらもどこか落ち着かずに門の方へと目をやる。
 どっかでくたばってやがるのか。そう思うと居ても立っても居られなくなり、勢いをつけて立ち上がる。そこでふと気づいた。あいつの家を、知らない。生まれも、親兄弟のことも、何も。
 力なく腰を落とし、息を吐く。すると、どこからともなく現れた鴉が膝へと降り立った。紙を括り付けた脚を差し出し、カァカァと鳴く。気の短い鴉だった。指を二本失くした利き手をまだうまく使いこなせておらず、紙を解くのに苦心していると、せっつくように手首を突いてくる。

「誰のクソ鴉だァ」

 そう愚痴をこぼしたとき、今度は嗄れたか細い声で、カァと聞こえた。目を向けると、脚に紙を巻いた鴉がもう一羽、庭先に佇んでいるのだった。
 来いよ、と言うと、おぼつかない足取りで歩いて来る。よほど疲れているのか、飛び立つ様子がない。縁側へ登ってくる気力もないようで、こちらをじっと見上げていた。手を差し伸べると、餌が乗っているとでも思ったのだろう、嘴でツンツンと突いてくる。

「おい、そうじゃねェ。乗れ」

 言うと、老体の鴉はちょこんと手のひらへ乗った。
 今度は誰の鴉だ。疲れ果てた様子の鴉をまじまじと見ていると、耳に痛みが走る。気の短いあの鴉が、早く紙を取れとでも言いたいのか、耳を噛んできたのだった。声を荒げ、耳から引き離そうと胴体を掴んでいると、

「こんにちは」

 風呂敷包みを抱えたが、首を傾げてこちらを見つめていた。

「困ってらっしゃいます?」
「……見ての通りだァ」

 すると、堪えきれなかったように口元に手を当て、ふふっと笑った。
 ああ、こいつも笑うのか。そのやわらかな笑みに目が離せずにいると、また耳を引っ張られた。
 怒鳴り合う俺と鴉の間に割って入ったは、二羽の脚から紙を解き、「お手紙ですね」と差し出す。

「あと、こちらも」

 そう朗らかに言うと、風呂敷包みを俺の傍らに置いた。青海波の模様をあしらった、露草色の風呂敷。はそれをよく使っていた。あいつについて知らないことの方が圧倒的に多かったが、それだけは知っていた。

「宇髄さまからお手紙を、奥様方からはお菓子の差し入れを預かりました」
「……なんでお前が」
「たまにお宅へ招いてくださるんです。なぜだか分かりませんが、こんな下っ端の私のことを気に掛けてくださっているようで……」

 何かと世話を焼きたがる連中だとは思っていたが、元隠のにまで目を掛けるとは。暇なのかよ。
 そんなことを思いながら、三通の手紙と菓子箱に目を落とす。鴉たちに「ご苦労さま」と褒美をやっていたあいつは、ふと視線を上げて、

「人気者でいらっしゃいますね、風柱さまは」

と、また微笑んだ。
 うるせえ、と独りごちるように言い、手紙を広げる。竈門炭治郎と、冨岡からだった。いずれも、今自分たちがどう暮らしているかや、こちらの近況をうかがう内容だった。宇髄に至っては、「今度家へ来い。そっちが来ないならこっちから行くからな」と脅迫めいた文を寄越していた。
 なんだよ、こいつらは。なんでそう他人に構う。失くす痛みや憎しみを知ったはずなのに、どうしてそうも、また抱えようとするんだ。

「――全部、失くしちまったかと思った。それならいっそ、何も持たずにいたほうが楽だと」

 意思とは関係なく、言葉が口を突いて出た。手紙を持つ指が小刻みに震える。あいつはそんな様を見ながら、

「何も抱えずに生きるなんて。そんなこと、風柱さまにできますか?」

 そう、静かに言った。

「それに、全部失くしてなんていません。まだここにあります」

 震える指に、の柔らかな手のひらが触れた。手紙を持つ俺の手を下から支えるようなかたちで、正面からまっすぐに目を合わせたまま、言葉を続ける。

「風柱さまが持たないことを望んだって、周りがそうはさせてくれないと思います。この繋がりは、断ち切れない」

 ゆらりと、黒褐色のその瞳が揺れたように見えた。込み上げてくるものを抑え込むかのように、眉根を寄せる。そんなあいつをただ見つめ返しながら、言葉を待った。

「……私も、大切な人を失くしました。それでもここまで生きてこられたのは、周りの人たちのおかげです。立ち上がらせてくれたから。前を向かせてくれたから。全部、一人じゃ無理だった」

 最後は囁くように言った。
 ヒグラシが鳴く。その間、唇を結び、目線を下げていただったが、再びゆっくりと言葉を紡ぎはじめる。

「添い遂げたいと願った人がいました。その人を失って、もう駄目だと思ったとき……力になってくれたのが、玄弥でした」

 玄弥、という声がかすかに震えていた。不意に呼ばれた弟の名に、目を見張る。
 どこかで見覚えがある顔だとは思っていたが、その途端に思い出した。昔、蝶屋敷へ立ち寄った時。「愚図は鬼殺隊を辞めろ」と複数人に詰め寄られている女隊士を見かけた。そんな奴らを蹴散らして女を庇ったのが、玄弥だった。そしてあの時、ひとつも言い返すことなく涙目を浮かべるしかなかった気弱な隊士が、だ。
 まさかそんなやつが、こんなにも強い眼差しで、声を震わせながらも、まっすぐな言葉を向けてくるとは――。

「あいつの話はやめろ。もう帰れェ」
「……帰りません」

 思わず「はァ?」と素っ頓狂な声を漏らしてしまう。面食らう俺に構わず、あいつはさらに強く手を握ってきた。

「今ここで風柱さまを一人にしたら、きっと明日にはこの家からいなくなってしまう。そんな気が、します」

 逃がさないとでも言うかのような力は、この小さな体のどこから湧いてくるのか。

「……なんなんだァ、お前は」

 なぜだか、こうして手を握り、正面から顔を見据えられたことが前にもあった気がする。懐かしい感覚。これは、この記憶は、母ちゃんの――。

「風柱さま」

 声が濡れていた。手元に落としていた視線を上げると、

「自分だけが生き残ってしまったと……責めていらっしゃるんでしょう?」

 そこではが、頬に一筋の涙を伝わせていた。そうしながらも「風柱さま」と、再び呼び掛けてくる。

「ただ前を向いて生きていくことは、罪ではありません」

 黒褐色の瞳が、溺れそうだった。それでもは言葉を止めることなく、俺の手を離すこともなかった。
 
「私、玄弥にお願いされたんです。もし自分が死ぬようなことがあれば、兄貴の力になってあげてほしい、と。話を聞くだけでもいい。全部一人で背負って駆け出してしまう兄ちゃんに、束の間でもいい、立ち止まって息をつく時間を作ってあげてほしいと。だから――帰りません。約束したんです。玄弥との約束、破らせないでください」

 が「玄弥」と呼ぶたびに、玄弥の姿が、頭の中で線をはっきりとさせていく。幸せになってほしい。死なないでほしい。そう言って最期に笑ってみせたあの顔は、ガキの頃から一つも変わっていなかった。
 喉が締まる。視界が霞む。頬にじわりと熱がにじむ。堪えきれなくなった感情が、涙となって溢れ出した。
 ――幸せになってほしかった。死なないでほしかった。ごめん、玄弥。ごめん。もしも次にまた兄弟として生まれ変わることができたなら、何よりもお前の幸せを、願うよ。
 声を殺すように手の甲で口を抑える。そんな俺を、はただ見つめていた。

「あなたを一人にはしません。だからお願い、諦めないで。生きてください、風柱さま」

 そう言うの瞳は、もう濡れていなかった。

「……好きにしろォ」



 それからあいつは、来る日も来る日も俺の家へと足を運んで、暮らしの世話をしてくれた。そのうちに、も自分の話を少しずつするようになった。鬼に家族を奪われて鬼殺隊へ入ったこと、剣技の才に恵まれず隠に移ったこと、今は隣町に小さな家を借りて一人で暮らしていること、あの青海波の風呂敷は数少ない母親の形見なのだということ。
 俺も次第に、興味が湧いていったんだと思う。これまであいつが何を感じ、どう考えて生きてきたのか。だからある日、庭先で着物を干すの背に訊いた。

「添い遂げたかったヤツってのは、鬼殺隊士か?」

 手を止めて振り返ったは、目を大きく開いていた。しかしすぐ元の形に戻すと、目線をわずかに下げ、小さく頷いた。
 少しの間を置いたのちに「そうかァ」と返せば、は視線を戻し、そのまま天を仰ぐ。そんなあいつにつられて、俺も空を見上げた。雲ひとつない、秋晴れの空だった。風に乗って飛ぶ赤トンボが、澄んだ青に溶けていく。

「この先誰かと出会って、妻になり、母になったとしても。きっと死ぬときには、あの人のことを思う。――生涯、忘れられない人です」

 その瞳は、遥か彼方を捉えていた。いつもそうだった。は、こちらをまっすぐに見ていても、どこか遠くを見つめている。そんな気がしていた。その答えが、これだったのか。

「――なァ、

 きっとこれからも、と俺の視線が交わることはないのだろう。それでもいい。そばにいてほしい。そう思うようになったのは、俺だ。

「ずっと居ろよ。ここに」

 身勝手な、俺の願い。先に逝くことは分かっているのに、それでも共にいたいと思った。いつの間にか、そう願うようになってしまってた。あいつが承諾してくれたのは、数年のうちに死ぬ俺に同情したのだろうと思う。
 でもそのおかげで、俺は独りじゃなかった。護りきれなかったものを悔やみながらではなく、こんな俺でも大事なものを遺せたと、そう思いながら死ねた。それは紛れもなく、あいつの――のおかげだ。





「あいつは、毎月決まった日に墓参りへ行ってた。それがお前の月命日だと分かったとき、あいつが思い続けたのが誰なのか、知ったんだ」

 降りはじめた雨がフロントガラスを打つ。車内には、その音だけが響いていた。

「俺はずいぶん早く死んじまったから分からねェが、きっとあいつ、最期はお前のことを思いながら……」

 そこで言葉を終わらせると、実弥はうつむいた。助手席に座る杏寿郎はただ、打ちつける雨を見つめていた。

「子どもは」

 その問いかけに、実弥はうつむいたまま答える。
 
「いた。娘と、息子」
「そうか。さぞかわいかっただろうな」
「……ああ」

 共に過ごせたのは、たったの数年だけ。ようやく言葉らしい言葉を話しはじめるようになった娘と、生まれたばかりの息子。それでも確かに、家族四人で過ごした日々があった。もう二度と手に入ることはないと思っていた普通の日々が、そこには在ったのだ。

「今こうして君がいて、不死川家があるのは、彼女が繋いだからなんだな」

 実弥は顔を覆う。そうして「ああ」と息をもらすように返した声は、かすかに震えていた。

「不死川。は、家族を差し置いて他の男を思うような人間ではない。そんなことは君も分かっているはずだ」

 静かに沈み込んでくるような声だった。実弥は顔を覆う手の隙間から、杏寿郎へ横目を向ける。彼はフロントガラスを見つめたまま、言葉を続けた。

「彼女からもらったものは、たくさんあっただろう。そこにあるのはきっと、同情ではない」

 実弥さん。そう呼ぶ声が、耳に蘇る――。
 初めて肌を重ねた時。命を授かった時。子どもが産まれた時。その成長を喜び合う時。
 「大丈夫。この子たちのことは大丈夫」と、床に臥す俺の手を握り、そう頼もしく笑ってみせた時。意識が遠のいていく中で、「ありがとう実弥さん」という言葉が、涙とともに降り注いだ時。
 ――すべての時が、愛おしい。






(2021.12.24)



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