12.恋人なら
「もうさ、ある程度やっておけば先生たちも見逃してくれるんじゃない? だって玄弥、この学園のエースだもん」
夏休み最終日。いつものファーストフード店で、溜まりに溜まった玄弥の宿題を手伝っていたは、諦めたように数学のテキストを閉じた。
「それか不死川先生に助けてもらうとか……」
「それだけはできねぇ。まだ宿題終わってないってバレたら、半殺しにされるわ」
は首をすくめ、冷えきったポテトを口に入れながら、玄弥が広げる歴史の問題集へと目を落とす。
玄弥はあの夏祭りの後から、選抜メンバーだけで行われる長期合宿に参加していた。待ち合わせ場所で久しぶりに再会したとき、玄弥が少し頬を赤らめているのを、は不思議そうに見上げていた。
「ところでさ、かわいい子いた?」
合宿は他校との合同だったということもあり、がからかうようにそう訊く。玄弥は「なッ」と顔を上げ、にやにやとするを睨みながら、
「いねぇよ!」
ムキになってそう答えた。そうして、「なにバカなこと言ってやがる」とボヤきながら、再び問題集へと視線を落とす。
「玄弥はさ」
鎌倉時代の戦の多さに参っていたころ、が不意にそう口を開いたので、玄弥はペンを止めた。
「なんだよ」
「……憶えてたりする?」
「何を?」
「――前世の、こと」
眉をひそめ、首をかすかに傾げた玄弥に、
「あっ、ううん大丈夫!」
と、取り繕うようにジュースを啜った。
玄弥は目線を下げ、の手元にある数学のテキストへとやる。
「俺も聞きたいことが」
「その宿題」
言葉が重なり、互いに口をつぐんだ。
「いいよ、玄弥から」
「……いやから。宿題がなんだよ?」
は「じゃあ」と、歴史の問題集を指す。
「その宿題、資料集がないと解けないよ」
「はあ?」
「もしかして家に置いてきちゃった?」
「……学校に」
「うわ、置き勉野郎だ」
やーい、とからかうに、玄弥は眉間に皺を寄せて「うるせぇ」と返す。
「あーまじかよ……なんでそんなややこしいことすんだ煉獄先生……」
そうため息をつきながら、玄弥は頭を抱えた。その姿に、彼が本気で落ち込んでいることを察したは、少し罰が悪そうに唇を結んだ。
「お前さ、答え覚えてたりしねーの?」
「しねーの。ずいぶん前に終わらせちゃったから。……ごめんね?」
「いや別に謝るこたねぇけどよ」
「取りに行く? 資料集見ながらやれば、そんなに難しい問題でもなかったと思うし。今晩がんばれば間に合うよ」
「付いて行ってあげるから」と言うと、玄弥はこくりと頷いた。その反応に、はぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「……えっ、なに、かわいい」
「なんだよ」
「就也くんみたいな顔してたよ、今。ほっぺた膨らませて、目がちょっとうるっとして」
「してねーよ!」
「してたってば! かわいかったよ!」
「うるせぇ行くぞ!」
テーブルに広げていた教科書やペンを乱暴にカバンへ入れると、玄弥は荒々しく席を立つ。そんな玄弥の後を、「待ってよ」と残りのポテトを口に押し込めてから、はトレーを片手に後を追うのだった。
教室の窓からは夕日が差し込む。玄弥とは一つの机を挟み、向かい合うようにして座っている。せっかくだからここで宿題やっていこうよ、とが提案したのだった。
歴史資料集をめくるをよそに、玄弥はテキストの一点を見つめたまま、ペンを止めていた。
「玄弥? どうしたの、ぼーっとして」
「……聞いてもいいか」
首をかしげるを上目で見上げ、玄弥はゆっくりと口を開く。
「お前ってさ。兄貴のことどう思ってんの?」
予想もしていなかった問いに、はほんの一瞬、息を止める。そうして瞬きを繰り返しながら、
「不死川先生? 何かと気にかけてくれる怖いお兄さんって感じかな?」
口早にそう答え、膝の上で手を揉み合わせた。観察するかのように見つめてくる玄弥の目から逃れ、手元へと視線を落とす。
「キスされたんだろ」
静かに響いたその言葉は、カラスの鳴き声とともに消えた。
「プールで溺れたとき、兄貴にキスされたんだろ?」
はゆっくりと顔を上げ、
「どうしてそれを?」
「兄貴に聞いた」
合宿から帰ってすぐだった。荷解きをする玄弥の背に、実弥が告げたのだ。学校のプールで溺れたに人工呼吸をした、事実と違う噂が耳に入っちまう前に言っておく、と。
「……あれは人工呼吸だよ。特別な意味なんてない」
「どうだか」
あの時の兄の顔を思い出すと、首の筋肉がぎゅっと締まるのを感じる。長い間、ともに暮らしてきたのだ。なんとでもないという風を装っていることなんて、すぐに分かった。
「何が言いたいの?」
唇を結び、強い眼差しで見上げてくる。人工呼吸だったのだ。それ以上の意味はない。そんな言葉を表すかのような、力強い目だった。
「――たとえ人工呼吸だとしても……兄貴に先越されて、すげぇ悔しいってこと」
ハッと乾いた笑いをこぼし、玄弥は再びペンを動かしはじめる。
紙の上をシャーペンがゆるゆると走る音だけが響く。そんな中で、はおもむろに口を開いた。
「する? キス」
芯がぽきりと折れる。玄弥は顔を手元に落としたまま目線だけを上にやり、
「……は?」
そう、息を漏らすように声を押し出した。途端には、強く握っていた拳から力を抜き、ふっと笑った。
「冗談。無理でしょ、私たちにキスなんて。そんな恋人っぽいこと」
玄弥は顔を上げる。は首を横に倒して、視線を斜め下に向け、笑みを含んだ吐息を漏らした。そんなの姿に、玄弥は唇を噛む。
「恋人っぽいってなんだよ」
ペンを投げるように手放すと、身を乗り出す。えっ、と驚いたように目を丸くしたに構わず、その頬を両手で挟み、唇を押し重ねた。しっとりと柔らかなその感触に、玄弥は眉間に皺を寄せる。そうしてに胸を叩かれるまでの間、角度を変えながら口付けを続けた。
玄弥が唇を離すと、よほど苦しかったのか、は瞳を潤ませ、息を上げていた。そんなの顎をくいっと持ち上げ、目線を合わせながら玄弥は言うのだった。
「今お前が付き合ってんのは俺だからな。忘れんじゃねぇよ」
陽はもう沈みかけていた。校舎を出たは、ふと足を止めて後ろを振り返る。そうして、先ほどまでいた教室を見上げた。開け放たれた窓の向こうでカーテンが揺れている。しかし不意に電気が灯ったので、は慌てて視線を外し、再び走り出した。
玄弥はまだ学校に残って宿題をやっていくと言った。心臓が飛び出しそうなほどに動揺していたは、じゃあ私は帰るね、と教室を飛び出してきたのだった。
――キス、された……。
付き合ってから今まで、いわゆる恋人らしいことは何もしてこなかった。恋人とは名ばかりで、その実は親友のまま変わっていなかった。相手を異性として見ていないのは、玄弥も同じだとばかり思っていたのだ。
恋人なら、キスをして当然。何も、おかしなことではない。けれど……。
――それ以上のことも、玄弥は望んでいるのだろうか。
そんな思いを打ち消すかのように、は首をぶんぶんと横に振った。走る足の勢いはそのままに、校門を抜け、一つ目の角を左に曲がる。
その時だった。胸のあたりに痛みが走り、視界が暗転した。
「だ、大丈夫ですか?」
その声に目を開けると、心配そうにこちらを覗き込む人の姿に、の息は止まる。
「煉獄……先生……?」
「あっ、いえ、あの」
金色の髪に赤い毛先、焔色の目。しかしその眉は、杏寿郎のものよりも垂れ下がっている。よく見れば、体も二回りほど小さい。
「僕は弟の、千寿郎といいます。中等部の一年で……」
「えっ、あ…弟、さん……?」
ぶつかった衝撃で互いに尻もちをついていたが、はゆっくりと立ち上がり、
「あの、ごめんなさい。ちゃんと前見てなくて……大丈夫ですか?」
制服姿の千寿郎は、地面に座り込んだまま、カバンから飛び散った文庫本やペンケースなどを拾い集めている。は遠くの方に弾んで行ってしまった消しゴムを摘み上げると、千寿郎へと差し出す。
「……えっと、その――」
千寿郎は申し訳なさそうに、垂れ眉をさらに下げる。
「足を挫いてしまったようでして……」
「えっ!」
「ご迷惑でなければ、お手をお借りしてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです! ごめんなさい、本当にごめんなさい」
千寿郎の腕を引いて助け起こすと、刺激が走ったのか、小さく苦しげな声を漏らした。は泣きそうな表情で、
「おうちまで送らせてください」
と申し出た。しかし千寿郎は「そんな!」と首を振る。
「申し訳ないです。大丈夫です、帰れます」
「だめ。だって、立つので精一杯じゃない」
「平気です! こんな捻挫ぐらいなんてこと、……ッ!」
の腕から離れた途端、千寿郎は顔をしかめた。はすかさず千寿郎の体を支えると、向こうから現れたタクシーへと手を挙げるのだった。
「五右衛門屋敷……」
重厚な門に「煉獄」と表札が掲げられているのを見上げながら、はぽつりと漏らす。そんなに体を支えられる千寿郎は、ふふっと笑う。
「なんですかそれ?」
「あ、いや、立派なおうちだなと」
「五右衛門って誰ですか?」
「よく分かんないんだけど、大きなお屋敷を見るとうちの母が、これは五右衛門屋敷だって言ってて……」
「おもしろいお母さまですね」
千寿郎につられて笑うと、は「インターフォンどこ?」と訊く。
「あっ、もうそこに母が」
千寿郎の指す方には、淡い撫子色の着物に髪を一房肩に流す女性。静かに佇み、こちらをじっと見つめている。
――あの人が、煉獄先生のお母さん……。
女性の背後から、小学生ほどの子どもたちが「先生さよなら!」と口々に挨拶をしながら出てくる。
「走ると危ないですよ。怪我をしてしまいます。気をつけてお帰りなさい」
その言葉が自分に向けられているようにも感じて、は目を伏せる。
「母は書道教室をやっているんです」
千寿郎は手を振り「母上! ただいま帰りました!」と朗らかに言う。は緊張しながらも、覚悟を決めたように一歩を踏み出した。
千寿郎が母に事情を話す間、は女性の顔を盗み見ては視線を外す。しかし、「そうでしたか」と不意に顔を向けた女性と視線がぶつかると、ごくりと息を呑んだ。
「息子を送り届けていただき、ありがとうございました」
「いえ、そんな……私のせいで千寿郎さんに怪我をさせてしまい、本当に申し訳ありません」
そう深々と頭を下げただったが、どこかから聞こえてきた声にゆっくりと面を上げ、その方を見やる。母屋の隣にあるその建物から漏れてくるのは、何かを打つような音と、聞き覚えのある声。
「あれは道場です。兄が稽古をしているようですね、行ってみますか?」
「えっ、ううん……遠慮しておきます。私はこれで――」
「よろしければ」
の言葉を遮るように、千寿郎の母が口を開く。
「夕飯を食べて行きませんか? 息子たちがお世話になったお礼です」
目を丸くするの隣で、千寿郎は「そうしてください!」とほほ笑む。息子たち、という言葉を頭の中で反芻させていると、大きな声が響き、はもう一度、道場の方を見やる。そうして千寿郎とその母へと顔を向け、
「ありがとうございます」
と、恐縮そうに頭を下げるのだった。
(2021.10.31)
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